本多忠勝の驚愕
十月二十日。
晩秋と言うより初冬と言うべき冷たい風が吹き荒ぶ中、家康と正信は感慨深げに猊下の自軍を見つめていた。
「いよいよですね」
「ああ、いよいよだな」
家康と正信は桃配山の本陣で七千の兵と共に陣を構えていた。秀忠は桃配山の後方にて信州勢四千を加えた七千で陣を構えている。
桃配山の前方には徳川軍八千ずつが五段に陣を構えている。各段の大将は前方から順に本多忠勝・井伊直政・榊原康政・大久保忠隣・酒井家次であり、考え得る限り最強と言うべき布陣である。
そのさらに前方には池田輝政・山内一豊・浅野幸長・藤堂高虎の四名が陣を張り、そして細川忠隆が丸山を睨んでいた。
池田軍には主を失った兵や小大名が付属しており、本隊の三千と合わせて八千となっていた。他の四将と合わせると二万近くになる。
「近くの農民でも金でかき集めればともかく」
「もうこれ以上我らに出せる兵はなし、か……」
これが今の東軍の全てだった。
対する西軍は十万の兵を要しているのだが、少なくとも敦賀城を守っていた大谷吉治の手勢が残っているし、佐和山城を守っている三成の父と兄である正澄と正継の手勢もある。両者を足しても五千前後ではあるが、予備隊がいると言う事実が与える余裕は大きい。
さらに言えば、東軍に帰る場所はない。福島正則が敵になってしまった今、尾張を通るのは容易ではないし、雪が降り積もるこれからの季節信州を通るのは尚更困難である。
「だからこそ……細川を使って丸山を攻めさせるのですか」
「ああ。西軍をおびき寄せる最後の一枚と言うべき手札である細川をぶつけ、長宗我部と長束を引き出し、両名を救うためにやって来る西軍本隊を受け止める……そして」
そこまで家康が言ったちょうどその時、法螺貝の音が鳴り始めた。
「始まりましたか」
「ああ、始まった」
「では大殿様、ご武運を」
正信は不似合いな甲冑を身に纏いながら、家康の天幕を離れた。
それからまもなく、丸山から鬨の声が上がり始めた。いよいよ、決戦の火蓋が切って落とされたのである。
※※※※※※※※※
「父と母の仇たる治部少輔の眷属を討つ!いざ、進め!!」
細川忠隆が叫ぶと同時に、九曜紋の旗を掲げた軍勢が進軍を開始した。
「長宗我部軍の力を見せ付けよ!」
対する長宗我部盛親も、これまで活躍できなかった無念を晴らすが如く高らかに叫んだ。一代で四国の覇者となった長宗我部家の当主として、この大戦に参陣しながら何もできないまま終わる訳に行かない、そんな思いが盛親に大声を上げさせていた。
一方で長束正家は醒めた表情をしていた。戦の得意でない文官である自分がここでなすべきが敵を討つ事ではなく抑止力たる存在である事を認識していたからである。
そしてその抑止力は細川と言うよりむしろ長宗我部に向けられていた。
「細川の狙いは我らを丸山から誘き出す事、釣られてはなりませぬ」
「細川は治部少輔殿に相当苦杯を嘗めさせられてきた家だが」
「石田軍ならばともかく我々と直に当たって砕ける理由はございませぬ」
「確かにな、石田軍と戦う前に死んでは元も子もない。落ち着いて構えればいいか……」
戦前から正家は必死に盛親を諌めており、また西軍が連戦連勝と言う事もあって盛親は落ち着いて防戦に徹した。
「援軍はないのか?」
忠隆も必死に攻撃をかけていたが、やはり七千対三千では厳しい。西軍本隊や松尾山の福島軍に隙を作る事を恐れてか、他の東軍は動こうとしない。
「ぐぅ……ここまでか!一時後退せよ!」
結局、細川軍は四半刻(三十分)ほどで後退を始めた。
「長宗我部殿……」
「わかっている……追うな。いずれ次が来るものと考えよ」
そして、家康らの期待に反して盛親は追撃をかけて来なかった。
※※※※※※※※※
(しまった、やはり経験が足りなかったか)
この誘計の失敗については家康は素直に反省した。忠興ならばともかく、経験の少ない忠隆では時期をうまく調整できなかった、撤退が早すぎたのだ。
言葉は悪いが囮である細川軍にはもう少し思い切りよく戦い、ボロボロの状態で撤退して欲しかった。そうすれば疑われる事もなかったのかもしれない。
「……まあ、大勢に影響はあるまい」
それでも丸山の長宗我部・長束が自重してくれたのは悪い事ではなかった。細川も今の状態ならばまだ両名の抑止力になってくれる力は残っている。三方からならともかく二方からならばまだ何とかなるかもしれない。
「吉田侍従に、細川軍以外全てを前進させるように命ぜよ!」
そして、家康は決断を下した。全てを終わらせるための決断を。
(許せ、治部少輔……この策が当たってしまうのが今の豊臣家だ。それならば……。そなたと太閤殿下にはあの世でいくらでも詫びを述べる故、どうか大目に見て欲しい)
正信が提案し自分が了解したとは言え、自分たちの策があまりに卑劣な物であり、三成の何よりの思いを踏みにじるそれである事を、家康は痛いほどわかっていた。
そして成就しなかった暁には……とか言う邪推を必死に追い払いながら、家康は唇を噛み締めた。
※※※※※※※※※
「全軍、前進せよ!」
家康の娘婿である輝政には、藤堂・浅野・山内など東軍方に残った豊臣系大名に対しての指揮権が与えられていた。
彼らの内細川軍を除く一万七千余りの兵を率い、前進を開始した。
対する西軍から飛び出して来たのは毛利軍であった。毛利の事情は長宗我部と近く、まともに戦果を挙げないまま大坂城に控えっぱなしの輝元が大将面をした所で白眼視されるのは目に見えていた。
さらに言えば、毛利両川とあだ名された両家の明暗がはっきりと別れてしまっていた。
吉川広家の方が東軍に走って西軍首脳の一人であった大谷吉継を死に追い込んだのに対し、小早川秀秋の方はその裏切り者吉川広家を討ち取った上に東軍に奪取されていた丸山を奪い返し、あまつさえあの本多忠勝を退却に追い込むと言う大功を上げている。
なお都合の悪い事にと言うべきか、秀秋が豊臣家から押し込まれた毛利家にとっては他人と言うべき人物なのに対し、広家は純然たる元就の孫である。これでは豊臣家の毛利家に対しての印象が良くなろうはずもない。
無論宇喜多秀家らもその事はわかっており、毛利家の面目を立てる意味でもここは一働きしてもらわねばと言う事で先陣の役目を任せたのである。ただ、西軍としては先制攻撃をかけるつもりだったので迎撃と言う形になったのはいささか予想外ではあったが。
「毛利の強さを見せろ!」
毛利軍の総大将である輝元の養子・秀元は躍起になって軍配を振っていた。元々秀元自身には内通の気持ちはなく、出撃の機会をやきもきしながら待つ日々が続いていた。しかし佐和山攻防戦では福島らの突然の裏切りで後方に控えていた毛利軍に活躍の場はなく、天満山奪還戦でも主役は小早川秀秋や立花宗茂で、越前防衛戦でも福島正則や石田軍が主役で毛利軍は一人もいなかった。
秀元がこの戦に躍起になるのもむべなるかなと言う話である。
「我々も出るぞ、とりあえず隙間を埋めろ」
毛利軍と輝政率いる豊臣系大名連合軍が衝突するや、本隊や小早川軍もゆっくりと前進を始めた。
「敵本隊も動き始めたか……松尾山はどうだ!」
「まだ動く気配を見せておりません」
「そうか、だが細心の注意を払っておけ」
毛利軍と東軍豊臣系大名の戦いは丸山よりやや西軍本陣寄りの場所で行われていた。その位置はちょうど松尾山の真ん前であり、福島らからすれば絶好の標的である。
「おそらく狙いは強大な徳川勢……」
しかし輝政はそれほど危惧してはいなかった。
自分たちなど毛利で十分だと考えているだろう西軍が強大な徳川勢が残っているのにも関わらず正則と言う切り札を自分たちには使って来ないだろうと言う読みがあったからである。
「我らの役目は松尾山の福島を引き出す事にある……せめて西軍本隊か小早川と戦うまでは退けぬぞ」
輝政としてはここで福島軍に出てきてもらいたい。
そうなれば、東西両軍真っ向勝負の形に持ち込める。それが叶わずとも、せめて毛利だけには互角以上の戦いをして小早川軍か西軍本隊と刃を交えてから退きたいのだ。
「毛利も必死ですな」
「これまでこれと言った功績がないからな……」
しかし毛利の攻撃は激しさを増すばかりであった。その上東軍の前線が池田・藤堂・浅野・山内などの集合と言う悪く言えば寄せ集めの軍隊だったのに対し、西軍の前線である毛利軍は一つの家だけに結束が固く統率も取れていた。そしてこれまでの戦いでまるで活躍できていなかっただけに、この機会を逃すまいと毛利軍が必死になっている事を輝政も察していた。
「我が軍が押されております」
「やはり新兵や敗残兵ではこの辺りが限界だったか……」
その上にこちらは弱い。輝政は八千の兵を自分の指揮下に置いていたが、その内千は急遽かき集めた新兵、五千は堀尾軍や中村軍などの主を失くした敗残兵や一~二万石の小大名の兵であり、開戦当初からの兵は二千しか残っておらず元より数ほど当てになる物ではなかったのだ。
「他の方々はどうだ」
「藤堂殿、浅野殿、山内殿はみなよく耐えています」
「ぐぅ……池田家だけ情けないが三者とも精鋭が残っているからな……言い訳だが」
輝政は自軍の情けなさに俯いたが、こうなった以上これ以上この不利すぎる戦場に執着する訳には行かない。
下手に耐えようとすれば西軍が逃げる自軍に追従する形で徳川軍へ突入し、徳川軍がまともな迎撃態勢を取れない可能性が出てくる。
「やむを得ん……全軍、後退せよ!」
結局、輝政率いる豊臣系大名連合軍は退却を余儀なくされた。
※※※※※※※※※
「ついに崩れたか!」
「いや、崩れたとは申し切れませぬ。整然とした退却です」
「だが道を開けてくれたことは事実だ。今こそ一気に進め!」
半刻(一時間)にも及ぶ攻防の末、ついに東軍を退却させた秀元はここぞとばかり前進を指示した。
「疲れていない徳川軍と正面衝突となると我が軍は苦しいです!」
「だからほどほどで下がればよいだろう、そうすれば今度こそ福島らがやってくれる」
家老である宍戸元続の諫言にも秀元は耳を貸さず、秀元は前進した。
※※※※※※※※※
「来たか……」
徳川軍が構える五段の防備の先鋒である本多忠勝は目を輝かせていた。
「これより毛利軍を破る!出来得る限り後続の負担を減らすのだ!一人でも多くの兵をあの世へと送り込むのだ!」
いよいよ戦いが始まる、生死を賭けた最後の戦いが。
本多忠勝五十三歳、桶狭間以来四十年の戦歴を持つこの男にとって、これほど胸躍る戦いはなかった。
「申し上げます!福島軍が松尾山を下りて来ました!」
「来たか……相手にとって不足なし!一兵たりとも大殿様には近付けさせん!!」
福島軍到来の報にも忠勝の闘志は衰える事はなかった。
「敵は多ければ多いほど面白い…さあ来い!!」
しかし、忠勝の至福の時間は続かなかった。
「発砲……?福島がか?」
黒地に山道、つまり福島軍の旗を掲げた兵士たちが発砲している姿を忠勝は目の当たりにしたのである。
自分たちや池田などの豊臣系大名軍には届きっこない位置からだ。
戦意高揚策かと思ったが、一発や二発ではなく何百発も撃っていた事を考えるとそれもおかしい。
松尾山からまっすぐ下りて来た軍勢が標的にできる範囲の軍勢と言えば、あそこしかなかった。
「いやそんなまさか!そんな馬鹿な事が…!!」
「申し上げます!松尾山の全軍団が我が軍に寝返りました!!」
「馬鹿なっ……!!」
忠勝は突然頭に浮かんでしまったとある「展開」を必死に妄想にしようとしたが、無駄だった。
東軍を捨て家康を捨てたはずの福島正則らが、また平然と東軍に寝返ったと言う厳然たる事実の前には、忠勝のいかなる行為も無駄だったのである。
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