徳川家康の叱責
十月十九日、東軍による松尾山撤退から五日が経ったその日、家康は徳川の将たちを自分の天幕に集めた。
「佐州、現在の状況を説明せよ」
集うは本多忠勝・榊原康政・井伊直政・大久保忠隣・酒井家次ら徳川の精鋭、そして家康と本多正信。
「西軍十万は僅かな守兵を佐和山城に残し、ほぼ全軍で関ヶ原へ着陣した模様。丸山には長宗我部・長束ら七千、松尾山には福島・黒田・加藤に脇坂・朽木らが付き二万二千、天満山の本陣には宇喜多秀家に石田勢や島津・立花がくっつき三万、北側には小早川が一万五千で陣を構え、中山道側には毛利が二万で陣を張っているとの情報」
「一方で我々は桃配山に七万四千全てが集っている状態か……まずはその七万四千で丸山を潰しますか」
「平八郎、小早川秀秋がそのやり方で成功したのは自分たちの方が数が多かったからだ。我々がそれをやれば松尾山からの横槍で潰される」
正信が現状を述べ終わるや早速忠勝が意見を述べ出したが、家康はその忠勝の意見をにべもなく否定した。
家康の、確かに正論ではあったがその取り付く島もない物言いに忠勝はわずかに膨れた。
「西軍のこの布陣は、確かに我々の攻撃に対しては完璧だ。だがこちらを攻めると言う事に関してはどうか」
「待てと仰るのですか」
「ですがこの状況を続けていては」
「それに守った所でうまく行きますか」
確かに、北の丸山・南の松尾山という要害を抑えられているのに攻め込んで行って有利な要素は一つもない。軍を三分して丸山と松尾山を抑えにかかれば天満山に攻撃する暇もできるだろうが、なら松尾山を明け渡したのは一体何なんだと言う話である。
一方で、桃配山に西から攻め込むには真正面から当たるしかなく守るに易い。どう考えても守るに利あり、攻めるに利なしな状況である。
しかし、もし西軍が東軍の強固な守りを恐れ動いてくれずこの大戦がさらに長引いてしまえば、物資輸送に困る東軍の方が尚更苦しくなるばかりである。
さらに現状は西軍に勢いがあり、こちらの思惑通り一気に仕掛けてくれたとしてうまく凌げるものだろうか。万が一桃配山を突破でもされようものならば崖っぷちどころか崖から転落である。
「そこは心苦しいがお主らの奮闘に期待する他ない。頼りにしているぞ」
「はい!お任せ下さい!」
「ですが、来てくれますか?」
家康の言葉に答える様に武将たちは高らかに声を上げた。自分たちが尊敬する人間に信頼を受けていると言う事がどれほど力を与えるかは想像に難くないが、それでも家次は冷静だった。
攻めても勝つ見込みが薄い以上西軍に攻めてもらいたい所だが、康政や忠勝単独ならばともかく家康直属の精鋭が相手では西軍も積極的に攻撃してくれるようには思えない。
「来させるのよ」
「囮ですか…?吉川侍従はもうおりませんぞ」
浅野・藤堂・池田・山内と言う当初から東軍だった連中がいくら挑発した所で西軍にしてみればさほど腹は立たないだろうし、徳川軍ならなおさらである。
そしていくら西軍が戦勝で浮かれ上がっているとは言え、戦ってわざと逃げて引き付けると言うのもそんな簡単な話ではない。裏切り者であり西軍にとって放っておけない存在であった吉川広家は丸山で小早川秀秋に討たれている。
「細川に働いてもらう」
現在の細川家の当主であり大将である細川忠隆の父忠興と母ガラシャは共に三成によって死に追い込まれており、誰よりも打倒西軍に闘志を燃やしていておかしくない存在である。
しかし忠隆自身が淡白な性質なのかそれとも冷静なだけなのかそれほど躍起になっている様子は見受けられなかったが、西軍を恨みむやみやたらに突進して来てもおかしくなく、その結果の退却を誘計と思われる見込みは薄いだろう。
「丸山を守る長宗我部と長束は少し攻撃をかけて退却すればつられて飛び出して来る可能性が高い」
「そう簡単に行きますか」
「長宗我部も長束も今回の戦いであまり活躍していない。長束は文官だから戦功には執着しないだろうが、長宗我部はそうもいくまい」
これがほぼ初陣である長宗我部盛親にとってこのまま何の戦功も上げられずに戦が終わっては本人のみならず長宗我部の武名にも響く話である。だからこそ西軍も前線に近い丸山に置いたのだろうが、まだ二十六歳の盛親には耐えられるかどうかわからない。
「まずは丸山から、と言う事ですか」
「いや、それでは甘い。正直な話、細川を使ったらもう後がない。いや、わし自ら矢面に立つと言う方法はある」
「それは困ります!」
確かに、細川を使って派手に敗走させれば丸山は落とせそうだがそれだけでは今の劣勢を覆すにはほど遠い。細川を使ってしまえばもう東軍に残されたおびき出しの材料は家康本人しかいない。
「一発逆転を狙うならば大殿様に餌になってもらう事も考えられるがな、こちらには江戸中納言様がおられるし」
「式部、理屈としてはそうだとは申せな……」
「それがしは反対です!」
「そうです、大殿様に万が一の事があっては……」
「………やはりそう申すか」
家康にしてみれば、自分の首をぶら下げる事によって西軍を引き付けて、自軍の勝利に持って行けるのならばそれをするつもりだった。
(「井伊殿たちが承知なさるでしょうか」)
しかし事前に正信にその方法を相談して拒否され、果たして直政らにも拒否された。康政がわずかにそれもありかもと言ったのがせいぜいで、他の者たちは無謀だと反対するばかりであった。
(…………やむを得まい)
家康は、遂に決断した。最後の秘策を繰り出す事を。
「一つだけ必勝の策がある」
「何でしょうか」
「ただしこれは、そなたらの了解を要する策だ」
「何なりと!」
「その命、惜しむことなく捧げましょう!」
「そうか……実にありがたい言葉よ、わしは良い家臣を持った」
「勿体なきお言葉……さあ、その策を!」
家康は目を輝かせる武将たちを見据えながら力強く頷き、僅かに緩んでいた表情を厳しくすると、腹の底から野太い声を上げた。
「しかし、一つ忠告しておく」
「何でしょうか」
「この必勝の策を考えたのはわしではない」
「まさか…………!」
「そう、佐州よ」
「…………」
「だから言うたのよ、了解を要すると」
正信の策だ、そう言われた途端武将たちの熱気が冷めて行くのを家康は感じていた。
「どうした!佐州の策では動けんと申すのか!わしが認めた物でもか?」
「あっ…いや…」
「こんな時に内輪揉めを起こしていてどうする!今の徳川は三方ヶ原に匹敵する崖っぷちの危機にあるのだぞ」
「はぁ…」
この間、正信は表情を変えなかった。
自分と直政らとの溝の深さはとうの昔にわかっているつもりだった。
それでも家康は自分を信じてくれている、それこそが正信の心の支えであった。
そして目的を同じくする者同士、この危急存亡の事態によってお互い真に一体となる。
自分の策だと言えば素直に応じたであろう相手に、あえて正信の策だと言ったのはそれこそが家康の狙いでもあったからである。
「佐州、策を申せ。そして皆、黙って聞け」
「はい」
正信は己が策を滔々と述べ出した。
「馬鹿な、そんな事が」
しかし家康の注意があったにもかかわらず、話の途中で康政がそんな言葉を吐き出した。
「黙って聞けと言ったであろう!」
「ですが、いくらなんでも……」
「佐州が確信のない事を言う男だと思っておるのか!?」
「いえ……」
「黙って聞け!佐州、すまなかったな話を続けて欲しい」
家康の叱責でようやく康政は口を塞いだが、その顔にはありありと不満と当惑の色が浮かんでいた。他の四人も、康政が怒鳴り声を上げた所から顔が歪み始めていた。
「…………以上です」
「これが佐州の策であり、わしが認めた必勝の策である。決戦は明日だ。皆、このわしを勝者にしてくれ、どうか頼む」
「はっ……」
家康は五人の将にそれぞれ頭を下げ、手を握り健闘を懇願した。
「……確かに虫がよく聞こえるだろうな」
「しかし既に裏は取れております」
「ああ、その時こそ徳川が真に一体となり、天下人にふさわしい家となる時だ。豊臣家の二の舞だけは演じぬ」
豊臣家の失敗を目の当たりにして来た家康は、その二の舞だけは演じてはならないと決意を固めてこの関ヶ原までやって来た、いや持って来た。
それがようやく成就すると思うと、正直感無量であった。
「……ところで大殿様」
「何じゃ、申せ」
「大殿様は彼がその地位にふさわしかったとお考えですか」
「そうだな、考えている。やはり太閤殿下の目に曇りはなかったのだな」
「しかし今の豊臣家は……」
正信がそう言った所で、家康の顔が曇り始めた。
「ああ、彼を生む土壌も受け入れる土壌もない。残念だが……」
「彼らには……ですね」
徳川の栄光、新たなる天下が来たる時。自分たちがその天下をもたらしてくれた何よりの存在。それに下さねばならぬ裁定を考えると、家康と正信はわずかに暗い気持ちになった。
「だがもし、その時は……」
「その時は……」
そして二人はまたもう少しだけ暗い顔になり、さらに何かの言葉と、一杯の佳酒を交わし始めた。
※※※※※※※※※
「何を考えておるのだ!」
「全く、虫が良いにも程がある!」
家康と正信がうつむいていた一方で、忠勝と康政は陣の外で憤懣の声を上げていた。
「しかしそれを大殿様は……」
「まさか認めると言うのか!?」
「ですが……」
「では酒井殿はあんな都合のいい事が起こると思うのか!?」
家次が必死に場を収めようとするが、その結果忠隣と直政が家次に吠えかかって来た。
「あんな策で戦が勝てるのならば武士は要らんわ!」
「夢と言うより白昼夢だな!」
「まさにその通り!」
「あの詐欺師め、大殿様を籠絡しておるのだ!」
「ですから、なぜそんな策を取ってしまわれたのか、それがわからないのです!」
「要するに、酒井殿も憤っておいでか」
「ええ、あのような馬鹿げた策など……」
家次も含め、その場にいる五人ともが正信の策をののしっていたのである。
「あの……これはそれがしの考えですが」
「申せ」
「あのような愚にもつかぬ策を取り上げる事により、我々の闘志を煽りたかったのではないでしょうか」
そんな中での家次の意見に、四人の顔から赤みが薄れた。
「なるほどな」
「一理あるな」
「今の徳川は大殿様が仰られた通り三方ヶ原以来の危機」
「全力で挑まねばならぬ、大殿様はそうお煽りになられたのか……」
家康があんな下策に頼っているような言動をしたのは、全て自分たちの闘志を煽るための芝居であり、自分たちに全幅の信頼を置いているからこその芝居だったのだ。
そう確信した五人の顔から憤懣の色が消えた。
「我ながら短気を起こした物だ、情けない」
「佐州も知っていてあんな真似をしたのだろうな、全く憎らしい男だ」
「珍しく戦の役に立ったのです、よいではありませんか」
「まあな……しかし、明日は命を懸けた戦になろう」
「水盃ですか……いただきましょう」
五人は盃に水をなみなみ注ぎこみすすりあった。別れの水盃を酌み交わした五人は、お互いの手を取りながら各々の陣へと帰って行った。
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