第五章 本多正信の秘策

本多正信の秘策

「これが現状の戦力か……」


 十月八日、家康は桃配山で正信の差し出した書状を見ながら溜め息を吐いていた。




 徳川家康・秀忠軍 五万

 浅野幸長軍 四千五百

 藤堂高虎軍 二千

 山内一豊軍 千八百

 池田輝政軍 三千

 細川忠隆軍 四千

 信州勢 四千

 その他 五千




 合計で七万四千三百であるが、池田軍は佐和山の戦いで大損害を受け三千の内半数近くが急遽かき集めた新兵であり、その他とは堀尾や中村と言った大将を失った軍の敗残兵や小大名の集まりであるため、とても数通りの戦力はない。



 それに対し西軍は十万の兵を有している上、三成を除けば大谷吉継と平塚為広・戸田重政ぐらいしかこれまでの戦いで犠牲になった将はいなかった。


 一方で東軍は細川忠興・中村一栄・堀尾忠氏・吉川広家と池田軍の半分を失い、そしてそれ以上に徳川軍自体に対しての信用が失われ過ぎた。







「赤備えは半分しか戦えず、式部の手勢もほぼ同じ状態、平八郎の手勢も人的損害こそ少ないが心理的打撃は少なくなかろう」


 立花軍はいいとしても弱兵のはずの小早川軍にあの本多忠勝が敗れた、その事実が東西両軍に与えた衝撃は大きかった。


「西軍はお祭り騒ぎでしょう。越前と天満山の両方で大勝利を収め、挙句あの本多殿率いる軍勢を退却に追い込んだのですから」


 西軍がお祭り騒ぎの一方で、東軍は徳川以上にくっついていた豊臣系大名に動揺が大きい。もっとも頼りになるはずの徳川軍の、四天王と呼ばれるほどの名将三名が揃いも揃って強くないはずの西軍に痛い目を見せられている。


「まだわしがおる、そう言いたいがな……」

「もう後がありません」

「確かに、もう後はないか……」




 確かに家康自らが負けた訳ではない。


 しかし万が一家康が出て行って負けようものならば、徳川の武名に対する信頼は完全に失墜する。そうなれば、何とか東軍にくっついてくれている藤堂や浅野・山内と言った連中も正則や長政に誘われて西軍に走ってしまうかもしれない。


 九月十五日と今日の関ヶ原周辺の勢力図を見比べれば、東軍が松尾山を西軍から奪取した以外何も変わっている訳ではない。しかし十五日の時東西両軍の戦力差は十万対八万、いや内通者を含めれば十二万対三万を見込めていたのに対し、今は七万対十万である。

 しかも西軍は十五日の時より意気高く、東軍は徳川の武名に対しての信頼を失くしてしまっている。どっちが有利かは明白だった。




「……一発逆転」


 正信がぼそりと口にしたその言葉に、家康は複雑な表情で頷いた。短気である事を自覚しているゆえに慎重で着実なやり方を重ねてきた家康にとって、一番取りたくない方法が一発逆転を目指しての奇策であった。


 しかし、それをせねば徳川家の存亡に関わる事もまたわかっていた。


 元々家康は九月十五日の決戦で勝負を決する予定であっただけに、長期戦への備えは正直できていなかった。そして今さら長期戦に持ち込もうにも今からでは雪と箱根の山が物資を塞いでしまう。

 長引けばますます東軍が不利になるのは明白であっただけに、どうしても短期間で勝てる方法が必要だった。この状況でそれを実現するには、文字通りの一発逆転を成就させるしかないのだ。



「……他に方法はないのか?」

「……残念ながら」



 それでも家康は抵抗してみたが、正信の返答は残酷な物だった。


「しかし、その方法には時間がかかるぞ」

「十日間あれば何とか」

「十日か……まあな、それぐらいが妥当な線か」

「ですがこの策が成就したとして、問題はその後です。その時は……」

「うむ……やむを得まい、今一度鬼になるとするか」




 家康と正信は二人で一発逆転の策を編み始めた。




(これで彼らもわかってくれるだろう。佐州が欲している物はただ一つ、徳川の栄光である事を……)



 これで勝てば天下を物にできるだろう、さすれば正信を憎み続けていた忠勝たちも正信の価値を認めてくれるはずだ。正信との話を進める度に、家康はそのような期待に胸を膨らませていた。




※※※※※※※※※




「松尾山から撤退せよ!?」


 十月十二日、松尾山の本多忠勝は家康の伝令が寄越したその情報に己が耳を疑った。


「はい、大殿様のご命令でございます」

「待て!この松尾山は要害だ、それを何故放棄せよと!」

「各個撃破されてしまう危険性がある故との事で」


 西軍が天満山と丸山をがっちり押さえている今、松尾山は家康本陣である桃配山を守るにあたって重要極まりない要害である。なぜそれをわざわざ西軍にくれてやらねばならないのか、忠勝は当然の如く納得行かないと言わんばかりの言葉を伝令にぶつけた。



 現在松尾山に控えるは忠勝の二千三百、忠隣の四千、浅野の四千五百などで合計一万二千。

 少数とは言わないが、西軍の十万から比べるといかにも心許ない。いくら桃配山に六万が控えていたとしても、その六万を西軍が六万で牽制し残る四万で松尾山を奪還すると言う形を取られては防衛は困難である。


「ここは要害だぞ!一万二千の兵を擁していればやすやすとは落ちん!」

「しかし、これは大殿様が申した事なのですがもし万が一の事が本多様にございますと……」

「何!?わしが死ぬとでも言うのか!?」

「ですから大殿様はそれを危惧なさって!」

「わしの信用はそこまで地に落ちたと申すのか!?」

「いいえ、本多様に信用がなければそんな事は申されませぬ!本多様に万が一の事あらば東軍の士気はそれこそ底まで落ち、西軍は一気に元気付きます!大殿様はそれを何より恐れておいでなのです!」


 それでも必死に喰い下がり、さらにそう簡単には死なないとばかり激昂する忠勝に対し伝令も一歩も怯むことなく言い返す。


「まあまあ、伝令の言う事ももっともだ」

「相州!?」

「兵力の集中運用は基本中の基本だ。この苦境だからこそ一丸になって当たらねば…と大殿様は申されているのだろう」


 両名の言い争いを止めたのは大久保忠隣だった。年かさの忠勝に対しもっともらしい口を利きながら、右手を上げて両名を制する。


「いや、だが……」

「それにだ、その者や大殿様の言う通りそなたに死なれては我々にとって大損害である以上に敵にとって慶事だ。そうなればますます我らの勝利は困難になるぞ」

「うっ、うむ……」


 忠勝は忠隣の丁寧な言葉でようやく冷静さを取り戻し、顔の汗をぬぐった。


「いやすまなかった、少し敗戦で気が立っていたようだ、許してもらいたい」

「いえいえ、これもこちらの役目ですゆえ」

「それで、いつ撤収せよと大殿様は仰せになられたのだ?」

「明後日と申されました。時間帯については申されておりませぬ」

「わかった、了解した旨伝えておいてくれ」


 伝令は忠勝に叩頭すると足早に松尾山を後にした。







「………納得はしていないようだな」

「ああ……」


 伝令が視界から消えさるや放たれた納得していないと言う忠隣の言葉に、忠勝は僅かに頭を下げた。


「仕方があるまい、今は危急存亡の事態だ」

「わかっている……だがそれが、その事態になっている事が納得行かんのだ」


 本来ならばとっくの昔に東軍の勝利で戦は終わっているはずだった。


 しかし現実には戦は長引き、しかも東軍は劣勢になっている。


 確かに松尾山をくれてやれば西軍はこれを抑えない訳には行かない。さすれば天満山・丸山・松尾山と西軍の兵力を三分する事ができる。そこを東軍が一団となって敵本陣にぶつかって行けば敵本陣を粉砕して勝つ事もできよう。


「武士の本分は目の前の敵を打ち砕く事にある、そうだろう?」

「そうだな、それこそが我々の役目だ」

「次の戦が最後かもしれんな、いやおそらく最後だろう」

「勝っても負けてもな……」




 忠勝と忠隣は悲壮な決意を固めながら、固く手を握り合った。

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