福島正則の欣喜
ここで時は少し遡る。
「関ヶ原の方から何か情報は入っているか」
「いいえ」
天満山にて小早川秀秋率いる西軍と本多忠勝率いる東軍が激突してから間もなくの頃、敦賀城でもまた前田利長率いる前田軍が攻撃を開始しようとしていた。
作戦としては言うまでもなく、敦賀城へと向かって来る援軍を叩いて城内の士気を低下させその流れで攻撃を仕掛けると言うそれである。
「それで、敦賀城への援軍はどうなっている」
「先鋒としておよそ三千五百の兵が向かって来ているようでございます」
「先鋒としてか……全体でどれぐらいかわかるか?」
「およそ一万三千です」
「一万三千か……我々の半数より多いな」
そんな中で予想通り、西軍の援軍が北上している旨を知らされた。
一万三千。十万を擁するはずの西軍としては微妙な数であり、西軍が関ヶ原の方へ三万の将兵を送っているのは利長には知る由もなかったにせよ、正直な話何とも不可解な数ではあった。
「一万三千ですと!?」
「ああ、間者がそう伝えて来たのだが」
「ふざけているにも程がありますな!」
利長が軍議の席で西軍援軍は一万三千と言う情報を告げるや、前田家の重臣・長連竜は烈火の如く怒り始めた。
「今の西軍ならば十万の兵を動員できるはず!それが一万三千とは……後続はあったのですか!?」
「あったとは聞いていない」
「おのれぇ……!!」
例え関ヶ原に五万を注ぎ込んだとしても、まだもう五万の兵が残っているはずだ。それがたったの一万三千とは西軍は前田家を甘く見ている、としか連竜には思えなかった。
「どうする?とりあえず、わしはその少数の援軍を派手に叩きのめして敦賀城の将兵の士気を打ち砕くべきと考えておるのだが……」
「そうしましょう!」
「しかし敦賀城の抑えが」
「五千もあれば十分です!」
「あ、ああ……わかった。異論はないか?」
利長の提案はごく普通のそれであり異論が出ても一向におかしくなかったが、連竜の勢いに押される形で利長を含む全員が利長の案で行く事を決めた。
※※※※※※※※※
「敵は見えたか?」
「見えています、どうやら二町半(二七〇m)ほど先に」
敦賀城南方に陣を構えた利長が西軍の援軍第一陣接近の報を耳にしたのは、ちょうど天満山から吉川広家が飛び出した頃だった。
「慌てる事はない。むしろこちらの方が守る側なのだからな」
確かに敦賀城を解放せねばとばかり焦って仕掛けられた所で、敵援軍は一万三千。敦賀城の抑えとして村井長頼に任せた五千を差し引いても前田軍は二万である。恐れるとすれば籠城軍と援軍が同時に攻撃を仕掛けると言う展開だけだが、それとて四千対五千と一万三千対二万、及び一万七千対二万五千である。
どう考えても待てる余裕があるのは前田の方なのだ。
「しかしそうなるとにらみ合いが続く状況になりかねません。するとたった一万三千で我らを釘付けにしている西軍の方が面白いのでは」
とは誰も言わない。
正直な話、利長以下前田家の将兵は戦をしたい気分ではなかったのである。
石田三成の死、吉川広家の裏切りまではわかるとしても、福島らの寝返りは余りにも不可解だった。せめて、関ヶ原方面での戦の状況が分かってから動きたいと言うのが利長以下の前田軍将兵の偽らざる本音だったのである。
「申し上げます!長様が攻撃を開始されました!」
「何っ!馬鹿な、連竜の手勢だけでは先鋒を追い払ったとしてもその後の本隊に揉み潰されるだけだぞ!止めなかったのか!」
「雪が降る前に片を付けねばの一点張りで……」
しかし連竜だけはそう思っていなかった。
元々連竜と言うのは長一族を皆殺しにした遊佐・温井一族をあの織田信長の和睦勧告を無視して徹底的に叩き続け、しまいには能登から逃亡しようとした遊佐一族を追い掛けて殺してしまったような、大変に執念深く血の気の多い男である。
そして連竜は、この両名を寝返らせて能登を奪った上杉を恨んでいた。
(上杉などの思い通りにさせるか!)
にらみ合いが続けば少数で多数を釘付けにしている西軍の方が面白い。そして何より冬になってしまえば雪と言う大敵が前田軍の足を完全に止めてしまう。
いずれにせよ、西軍すなわち上杉家に好都合である。それが連竜には許せなかったのだ。
「まずい、早急に呼び戻せ!!これはわしの厳命だ!!」
慌てた利長は明らかにおかしい命令を出してしまった。
今さら自重せよと言う命令を出した所で間に合うはずがないのだ。敵と衝突している最中に急に向きを変えればその敵に背を向ける事になるだけだし、そうでなかったとしても連竜の部隊と本隊の間に隙間を作る事になる。
「そうですな、早急に呼び戻しましょう!」
そしてさらにまずい事に、利長の傍らにいた前田家の重臣・横山長知もまたこの愚策に賛同してしまった。
長知もまた関ヶ原方面の情勢が気になって仕方なくて、戦を仕掛ける気になどなれなかったのである。一度引き鉄を引かれて飛び出してしまった弾を追い掛けて受け止める事などできはしないと言うのに、それがわかっているはずなのにである。
「今頃そんな事ができる物か!!」
「ですが殿はそれがしに対しこれは厳命だと」
「敵の情けない有様が見えていないのか!?」
当然の如く、連竜はその命を撥ね付けた。戦場の常識からしてもおかしかったし、何より目の前の戦況がその命を馬鹿げた物にしていた。
西軍援軍の第一陣である小川祐忠・赤座直保と言った連中は元より士気に乏しく、同じく第一陣であった脇坂安治・朽木元綱に至っては当初東軍に内通し、小早川秀秋の寝返りと共に東軍に寝返る算段を立てていた程である。
しかしその算段は三成の突撃とそれに伴う西軍の全面撤退によって崩壊してしまい、やむなく西軍にくっついていると言うのが両名の状態だった。しかもある意味で両名の心のよりどころであった秀秋がすっかり三成にあてられている状態では、東軍に走る事も出来なくなっていた。
詰まる所、四名ともこの戦いに対し全くやる気がなかったのである。連竜の手勢は二千前後と西軍援軍第一陣・三千五百の半数前後であったが、誰よりもこの戦に張り切っていた連竜と誰よりもこの戦にやる気のなかった第一陣が激突すれば勝敗は火を見るより明らかであった。
「それで十分ではないでしょうか、先陣がここまで」
それでも使者は必死に食い下がったが、連竜はもはや耳を貸す価値もないとばかりに前進を再開した。
(敵は一万三千だぞ!?二万が一万三千に怯んでどうする!?ただでさえ丹羽に手こずったと言うのに、これではますます前田がなめられてしまうではないか!)
数分の一の兵力しか持たない丹羽軍に苦杯を嘗めさせられた浅井畷の戦いで傷付いた前田の武名を取り戻さんとばかりに、連竜の意気は最高地点にまで到達していた。
「敵援軍第二陣が来ました!今度は五千と見受けられます!」
「そんなのは蹴散らせ!」
「……あれは、大一大万大吉です!!」
「何だと……?」
倍以上の敵軍の到来にも、連竜はまるで怯む様子がなかったが、しかしその正体を知らされて困惑に包まれた。
敵は西軍方の人数から考えても少数である。石田軍は今は亡きとは言え西軍総大将の直属軍であり、こんな所に一万三千でやって来るのはおかしい。
「とにかく蹴散らせ!」
それでも、ひとたび走り出した以上止まる事こそが容易ではない。誰だろうと戦うまでとばかり、連竜は石田軍に向けて激しくぶつかった。
「くっ……これは数ばかりでもないようだな……」
しかし、今度は容易ではなかった。脇坂ら先陣に比し兵の数や士気の高さもずっと勝っていたが、それ以上に兵の錬度が高かった。
確かに石田軍は実戦経験こそあまりなかったが、三成が禄を惜しまず将をかき集めていただけに将の質が高く、自然兵の質も高くなって行ったのである。
ほどなくして、連竜の手勢は石田軍に包まれて身動きが取れなくなってしまった。
「大変です!右側から別の軍勢が来ます!」
「何だと!先陣の奴らが戻って来たのか!」
「いえ、通過して行きます!狙いは本隊ではないでしょうか」
「全く、我々を無視するとはふざけたやつめ!」
すると西軍はここだとばかりに、新たなる手勢を前田軍本隊に向けて放ったのである。このもはや長軍は脅威にならぬと言わんばかりの西軍の振る舞いに、連竜の誇りはいたく傷つけられた。
「そんな事をするのはどこの誰で数はいくつだ!」
「数は五千ほどですがどこの誰かは……ああっ!!」
「どういう事だ!真面目に答えろ…!」
激昂する連竜の叫びに答えようとした側近は、旗を見た瞬間声を失った。そして連竜もまた敵軍の旗を目の当たりにするや、顔が真っ青になった。
「黒地に山道…福島大夫だとでも言うのか!?」
※※※※※※※※※
「先鋒が大一大万大吉の旗に囲まれ、我らには黒地に山道の旗が迫って来ているぞ!」
「ま…まさかあの二人が手を組んだと言うのか!?」
「馬鹿!何であろうが敵は敵だ!攻撃せよ、長殿をお救いするのだ!!」
前田軍本隊もまた、福島家の黒地に山道の旗を見せられるや混乱を始めた。
秀吉生存の頃から、いや下手をすれば秀吉がまだ羽柴秀吉であったころから不仲であった両名が同じ戦場で手を組んでいる姿は、あまりにも異様と言うべきそれだった。
「ははははは、この福島正則こそ豊臣家を支える柱石なのだ!豊臣家を踏みにじる奴はみんなこの俺が槍の錆にしてやる!」
三成の死後の無気力ぶりはどこへやら、正則はかつてのどの戦いよりも楽しそうに槍を振り回していた。一方で前田軍は自分たちが多勢である事も忘れてすっかり腰が引けてしまっており、将たちは必死に声を上げるが、将たちもまた元よりこの展開を歓迎していない所があった為その声には迫力がなく、督戦と言うにはとてもとてもと言わざるを得ない情けない物だった。
「何をやっているのだ!」
利長は悲痛な叫び声を上げた。
何せ、連竜に付属する兵を差し引いても一万八千を有していた前田軍が、五千の福島軍の前に道を自ら開けるような有様である。槍の又佐と呼ばれた先代・前田利家の築いた前田家とは思えないような醜態に利長は目眩を覚えた。
「……もう、駄目だ。全軍撤退!小松城まで退くぞ!」
「えっ!?」
「えっではない!この戦はもう無理だ、これでは例え勝ったとしても戦力の損耗を補うより雪が積もる方が早い!」
そしてまもなく、利長は撤退の決断を下した。
「どうした!我々は五千だぞ?前田軍は五千と五万の区別もつかないのか!?」
正則の罵声にも利長は振り向こうとしない。わき目も振らず退却して行く利長の追撃は無理だと判断した正則は逃げ遅れた兵たちの掃討を開始、二千以上の前田軍を討ち取る事に成功した。
※※※※※※※※※
「何故だっ…何故…」
前田軍全面撤退の報を受けた連竜は声を失った。
一万八千、長頼軍を含めれば二万三千の前田軍が五千の福島軍に撤退に追い込まれたとは信じられなかった。確かに石田と福島が手を組んでいると言う事実は連竜にも少なからぬ衝撃を与えていたが、それにしてもここまで前田軍の将兵の心を叩き折る物とは思っていなかった。
そして何より、これで長勢の手勢二千は敵中に置き捨てられたことになる。
「もはやこれまでだ!!」
連竜は石田軍がわざと空けておいた逃げ道などには見向きもせず、石田軍の指揮官である島左近への突撃を敢行した。しかし、大半の兵は戦で命を失う以前に石田軍が作った逃げ道から逃げ出しており、連竜と運命を共にしようと集った者は五百もいなかった。その五百人は十倍の石田軍に押し包まれ、一人残らず不帰の旅人となった。
そしてさらに悲しい事に、石田軍から逃げた先では福島軍が待ち構えており、先鋒二千人の内結局逃げる事ができたのはほんの数十人であった。
※※※※※※※※※
「前田軍が惨敗だと!?」
「二兎を追って二兎とも捕まえただと……!?」
長連竜を含め四千以上の死傷者を出し加賀へと全面撤退、その報を受けた忠勝はそう言ったきり動けなくなり、忠隣もまた天満山・越前方面両方での東軍惨敗と言う事態に言葉を失った。
いや、正確に言えば西軍が二方面で共に勝利を挙げられたと言う事態に。
「この戦、負けるやもしれん……」
「何を言う!まだ我ら徳川がいるのだぞ!」
「だがな……その強さをこれまで西軍の奴らに見せて来られたか?」
忠勝の弱音を跳ね除けた忠隣だったが、確かにこれまで徳川軍はいい所がない。
天満山攻略戦では大谷軍の命がけの突撃で井伊の赤備えの半数がやられ、佐和山攻略戦では榊原康政率いる軍勢の内千近くを失って何の成果も得られず、今度は忠勝が小早川軍と立花軍と対峙して退却を余儀なくされた。
徳川四天王と言われる三人がこの有様では、徳川の武名を唱えた所で空しいだけだろう。
十月六日、晩秋の夜空は肌寒かったが、忠勝と忠隣の胸中は肌寒いなどと言う生易しい言葉で言い表せぬほど寒々としていた。
そして、二人は主家康が陣を構える桃配山を見つめながら、無念の涙で嵩が増した酒を口に運んでいた。
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