福島正則の理由

「冗談はやめろ!」

「いえ、本気の本気です!!」

「なぜそんな必要が……!」

「信じがたい事ですが、我らの主力たる福島大夫や黒田甲斐らが敵に寝返りまして……」

「ふざけるな!!誰よりも治部少輔を憎んで来たはずの連中が……」




 当然ながら、康政は正則らの寝返りと言う使者からの報告を信じなかった。




「徳川の兵が怯懦の心に支配されてどうする!そんな世迷言を申してまでこのわしを退却させたいのか!」

「お聞きいただけないのならば、今ここで誠意を示してご覧にいれます」

「おい馬鹿何をやっている!そんなにわしが死ぬのが嫌か!?」

「ええ、榊原様を生かす為ならばそれがしの命如き」

「何を考えておる……わしはそんな柔ではないわ」

「五つ数えるうちに撤退の命をお願いいたします」

「わかったわかった!退いてやるわ……」


 それでも使者が自身の首筋に刀を当てながら迫る姿に、さすがの康政も不承不承と言わんばかりの様子で退却を宣言した。


(佐州め……さぞ笑うであろうな、あれだけ大言壮語を吐いた人間の醜態を知ればな。くそっ、どうしてこんな腰抜けが混ざっていた事に気が付かなかったのだ……)

 康政の感情は福島や黒田に向かわず、正信だけに向いた。

 この時、先ほど壊れた康政の理性はまだまるで回復していなかった。福島や黒田の裏切りさえも、自分の地位を脅かすための正信の流言飛語ではないかと言う考えさえ浮かんでしまっていた。




※※※※※※※※※




「わかった。大将の福島殿にはここに残ってもらうが、それ以外の兵はすぐさま我が指揮下に入れ」

「ありがたきお言葉、さすが維新斎殿」


 予想だにし得ない福島らの返り忠と言う事態に、義弘は混乱しつつも冷静だった。こうなった以上とりあえず眼前の榊原らを叩くのが重要であり、目的や経緯は二の次である。その事を義弘は肌身でわかっていた。


「なれば進め!榊原や藤堂、吉川に細川を叩くのだ!」


 義弘の声と共に、ほんの少し前まで東軍だった軍勢は堰を切ったように榊原らに向けて突撃を開始した。


(しかし治部殿への憎悪がここまでだったとはな……そして治部殿にはもう何もできない事をようやく感じ取り、そして目前の脅威を取り除かんとしたか……ある意味実にわかりやすい事だ!)


 島津義弘は内心あきれかえりながら、馬を進めた。




※※※※※※※※※




(考えてみれば、三成にはもう何もできないのだ。そう、豊臣家を奪い取る事もな。だとすればもう西軍に豊臣家を脅かす要素はない)

 三成に勝つ、それだけが正則をここまで持って来た動機だった。


 三成が豊臣家を簒奪しようとしていると言うのはその目的を達成する為の名目であり、ただの言い訳に過ぎなかった。


 しかし今、そのただの言い訳が正則を動かすただ一つの活力になっていた。


 憎悪の対象であり、この大戦の根源であった石田三成は関ヶ原の地でこの世を去ってしまった。しかも、正則のお株を奪うような壮絶な死に様を見せながら。


 三成に勝つと言う目標を失い、正則は目の前が真っ暗になった。そしてその真っ暗な中必死に光明を探し当て、ついに一つの結論に達したのである。



(三成は鼻持ちならない奴だが、言う事はいつも正論だった。確かに二百五十万石なんてとんでもない禄を取っている徳川を放置していては、いつか豊臣家が脅かされないとも限らない。

 豊臣家を守るためなら、ここで徳川を叩いておくべきだな。そうすれば三成にへいこらしていた連中も我々を軽んじる事はできまい。大谷刑部も死んだし、小西や長束など三成の足元にも及ばん連中など御すのは簡単だ)




 豊臣家の一番槍はこの俺だ、豊臣家を支えるのは俺たちなのだ。軟弱な文官連中の好きにはさせはしない。しかしその文官の筆頭たる三成と、三成の盟友である大谷吉継は既にもういない。

 残った連中はいずれも両者には遠く及ばない小人物であり、豊臣家を好き勝手にする力はない。だとすればここで自分たちが最大の功績者たるをここで見せ付けて、政治的にも優位に立ちたかった。さすれば自分勝手な事はできやしないだろう、それが正則の出した結論だった。そしてその結論に従い、正則は西軍に降ったのである。




※※※※※※※※※




「なぜこうなるのだ!?」


 正則西軍へ降伏の報を聞くや池田輝政は驚愕の叫び声を上げたまま、彫像のように動けなくなった。


「他の軍勢はどうした!?」

「黒田甲斐守殿・伊予侍従殿を始め対馬守殿以外は全て西軍に寝返りました!」

「対馬守殿は既にお退きに……」


 別働隊二万五千の内、自身と山内一豊軍を除く一万九千が西軍に寝返った、このありえない事態に輝政の体は馬上でグラリと倒れ、家臣の支えでようやく馬上の人になれている有様であった。


「つ…対馬守殿に続くしか道はない!退け、退けーっ!」


 輝政はやっとの思いでそう口を開いたが、時既に遅かった。


「中白旗が迫って来ます!」


 西軍に寝返った黒田軍が既に兵を取って返し、池田軍に迫っていたのだ。


「何を考えている!我らは味方だぞ!」

「お前たち考えている暇はない、早く逃げろ!自分の命は自分で守れ!」


 もう見栄や外聞だの気にしている暇はないとばかりの全面撤退宣言、その判断は間違っていなかった。だが、やはり既に手遅れだった。


「な、なぜ…ぎゃあっ!」

「味方に、味方だぞ、みか…うわっ!」

「そ、そんなバカ…なっ!」


 ほんの数分前まで味方であった事など知った事かと言わんばかりの黒田軍の凶刃により、池田軍の兵士たちは次々と三途の川を渡らされた。


(なぜだ、なぜだ……治部さえいなくなればいいのか、治部さえ死ねば徳川殿の役目などもう終わりだと言うのか…………?)


 輝政は兵たちの悲痛な叫び声を聞きながら、心の中で当たっていて欲しくない推測を叫びながら、ただただ馬にしがみついていた。







「冗談はやめろ、なぜそうなる?」

「いえ、維新斎殿のお言葉ですから誤りではないでしょう」


 この時、佐和山にも正則寝返りの報が飛び込んでいた、そして当然ながら秀家はその報を真に受けようとしなかった。


「まあ、維新斎殿が言うのならばな……」

「それでどうします?」

「榊原や細川を追うか?」

「一応準備だけは整えておきましょう」


 戦場の経験の乏しい二十七歳の秀家は、頭は良かったが戦場の感覚は鈍かった。


 また戦場経験の豊富な全登も全登で、こんな虫のいい報告を真に受ける気はしなかった。もし義弘の言葉でなければ聞き流していただろう。


「どうやら、本当に逃げているようだな」

「門を開けますか?」

「そうだな、とりあえず五千ほど……」


 それでも秀家も全登もこの絶好期を見逃すほどの馬鹿ではない。秀家はとりあえず五千の兵を全登につけて門を開ける事にした。


「気を付けろ、慎重にな。敵が引き返して来たら早急に下がれ」

「心得ております」




※※※※※※※※※




「追ってきただと、おのれぇ!!今からでも取って返して」

「おやめ下さい!それこそ奴らの餌食になりに行くような物!」

「黙れ!これこそ我らの望んでいた展開だろうが!」


 依然としてまるで頭の冷えていなかった康政は佐和山開門の報を聞くや強引に軍を返そうとした。


「周囲をご覧ください!!」

「何だ、周囲がどうし…」




 康政が促されて周囲を見渡し、ようやく現状に気付いた。


 自分の指揮下にあったはずの藤堂・細川・吉川軍は既に佐和山に背を向けてわき目も振らず逃走を開始しており、既にかなり小さくなっていた。

 そして自らの率いていたはずの徳川の兵も既に多くが逃げ出しており、康政の周囲には自らの直属軍しか残っていなかった。


「これが現実でございます!」

「ぐぐぐぅ…わかった、退く!!」




 康政は歯噛みしながら迫る宇喜多軍に背を向け、馬を走らせた。


(藤堂も吉川も細川も何をやっている…!わしは大将だぞ、大殿様から指揮権を預けられた大将だぞ!その大将を何だと思っている!くそっ、こんなざまではあの腰抜けに笑われる、いや大殿様の寵愛がますますあの腰抜けへ向かってしまう!)


 康政の怒りと無念は、その原因を作った福島や黒田ではなく藤堂や吉川・細川と言う組下の大名たちに、そして正信に向けられた。


(どうしてあの福島大夫が裏切ったりするものか…確かにやる気はなくしていたがただそれだけで、それだけで…)


 覚めない悪夢の中で憎悪に閉じ込められている康政に、追い討ちをかける様な報告が飛び込んで来た。


「宇喜多軍が追い付いて来ました!」

「迎え撃て!」


 しかしその最悪の報告にも、康政の頭はまるで冷えなかった。


「いやお逃げください!こんな数では、それから南から福島の手勢が!」

「このままおめおめ大殿様に顔向けできるか!宇喜多軍と刺し違えてやる!!」


 そして福島軍襲来と言う寝返りのはっきりとした証拠を耳にしてなお、自らの意志で逃げると言う選択は康政の頭には存在し得なかった。




「逃げ出すような腰抜けはわしが斬る!!」


 ついに康政の口から最後通牒に等しい言葉が飛び出した。

 こうなればもう、戦うしかなかった。だが、この時康政の周りにいたのは直属軍二千五百のみ。一方敵は明石全登率いる宇喜多軍だけで五千、福島・加藤他の寝返り軍合わせて一万二千である。当然の如く、榊原軍はみるみる数を減らした。


「何をやっている、腰抜け共が!」


 康政はそう怒鳴ったものの、兵たちの士気は上がらなかった。戦うにしても余りにも中途半端な位置での、救援の当てもない状況での決戦。

 そしてすっかり撤退する気になっていた兵たちには、康政の判断は不可解な物として映った。いったん撤退命令を下したはずなのになぜまたと言う疑問が、兵たちの士気を削いでいた。兵たちの中には勝手に逃げ出す者も出始める有様であった。


「どやつもこやつも……くそっこれまでか……!」

 だが、その有様を見た康政がついに討死を覚悟したその時、突如宇喜多軍の攻撃が弱まり始めた。




「何だ?」


 榊原軍を救う、そう叫びながら東からやってくる軍勢があった。


「くっ、流石に用意は周到だな!退くぞ、これ以上戦果を深追いするな!」


 全登のその声と共に宇喜多軍は後退を開始、福島・加藤軍も康政と距離を取った。




「式部!無事であったか!」

「忠勝!?なぜここに!」

「今は早く退け、命あればこそ雪辱の機会も得られよう!」

「わかった……」


 天満山から駆け付けて来た忠勝の言葉により、康政はようやく自分の意思で撤退を決断した。忠勝はあくまで西軍から目を離すことなく睨み続け、その結果西軍の追撃はここで終わった。


(福島正則め、何を血迷ったのか……)


 しかし康政も忠勝も、なぜ福島正則が寝返ったのか皆目わからなかったのである。

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