榊原康政の余裕

「我々がもう少し早く到着できていれば……」

「いえ、まだ貴方の力があれば大丈夫です、勝てると信じています」


 俯き加減の立花宗茂に、三成の次男・重成は力強く答えた。


「父は貴方たちだからこそ豊臣家を任せられると信じて命を投げ出したのです、どうか父の願いを叶えさせてください、お願いいたします」




 重成はまだ十二歳だが、その言葉は流々として迷いがなく、誰かに吹き込まれたような跡は微塵も感じさせられない、文字通りの自分の言葉で宗茂に語りかけていた。

(まるで治部少輔殿と話しているような気分になってくる……)

 宗茂を筆頭とする九州軍一万余りが参陣した事により、西軍は天満山の戦いでの大谷・平塚軍の全滅と吉川軍の寝返りによる兵力の低減を補う事ができた。


「それで敵はこの佐和山にいつ頃来るでしょうか」

「戦勝の勢いがあるゆえおそらく近々」


 上座に構える現総大将・宇喜多秀家の言葉に、重成や宗茂と並んで座していた諸将は身を引き締めた。


「家康は来るのでしょうか」

「あの慎重さに定評のある家康が来るとはまだ思えぬ。おそらくは榊原康政か本多忠勝、あるいは秀忠」

「本多忠勝はどうでしょうか」


 今天満山に陣を構えているのは本多忠勝だが、西軍が当初本陣を構えていたほどの要害である天満山をそうそう手放したくはない以上、本多忠勝を動かす公算は低いと石田家の重臣・島左近は進言した。


「なるほど。何せこの城には三万しかいないからな」


 佐和山は十九万石の大名である石田三成の為に作られた城であり、とても八万五千の兵士が入る隙間はない。宇喜多軍一万五千・九州軍一万・石田軍五千の合わせて三万が精一杯であり、残る五万五千は琵琶湖の湖畔を中心に多くの陣を並べる形で逗留していた。

 天満山を迂闊に空ければその五万五千に天満山を奪われ佐和山を攻撃した軍勢が退路を失うと言う最悪の展開になりかねない。


「それで榊原軍、及び秀忠軍が来たとしてどうする?」

「石田殿と九州軍には防衛をお願いし、我々は相手を見て考えたい」

「と申されますと?」

「敵大将が秀忠なら名誉回復の為焦って攻撃を仕掛けてくるだろうから守りに集中し、康政ならば数を補うために福島や黒田などを連れてくるだろう。その場合は榊原ら徳川軍に的を絞り、打って出て一万五千の数をもって徳川軍を叩く」

「なるほど、良案であると考えます」

「それはありがたい言葉、明石にも伝えてやりた……おっと失礼」

 秀家が慌てて口を抑える姿に、諸将の間に笑みがこぼれた。自分が考えたと言えばいいのにそれを堂々と部下の提案の受け売りだと言ってしまう秀家の人の好さに、和みを覚えたのである。




※※※※※※※※※




「車源氏旗が見えました」


 十月一日、戦勝の軍らしからぬしかめっ面をした本多忠勝は逗留していた天満山から車源氏の旗を掲げた榊原康政の軍勢が近江へ向かっているという報告を受けていた。


「うむ、よく知らせてくれた。続くはどんな軍勢だ」

「黒地に山道、中白旗、揚羽蝶、下り藤、丸に三つ柏……」


 福島正則、黒田長政、池田輝政、加藤嘉明、山内一豊。みな豊臣系大名ばかりであり、徳川軍と比べると一枚力の落ちる連中ばかりである。

 それに、福島や黒田らは三成の死後著しく戦意を落としており、彼らが率いる軍勢が頼りになるのかと言う不安が忠勝の心に芽生えた。


「それから、九曜に三引き両が見えまする」


 九曜と言えば細川家である。細川家の当主であった忠興は関ヶ原撤退時に三成に道連れと言うべき形で殺されており、母に続き父まで三成によって失った忠興の長男・忠隆の三成と西軍に対する恨みは深いだろう、それだけにいざ戦いとなれば実力以上の戦果を挙げるは必至だろう。

 そして三引き両の旗を掲げる吉川は裏切り者であり、ここで他家に倍する戦果を挙げねば立場がないとばかりこれまた張り切るだろう。そして両軍に焚き付けられた他の軍勢も張り切るはずだ。

(この天満山を巡る戦いでは徳川の軍勢が動いたのがある意味で間違いだった。しょせん徳川は彼らとは違う、細川や吉川こそ彼らの身内であり彼らを焚き付けられる存在だ。大殿様は天満山の戦勝におごらず、勝利への道程を掴んでおられたのだ)


 忠勝はこの編成を考えたであろう家康に、改めて惜しみない忠義を誓っていた。





「本当に大丈夫なのですか?」

「佐渡守殿、貴殿は敵の弱腰ぶりをよく御存じであろう」


 その一方で榊原康政は傍らで不安そうな顔を隠さない高虎に、心配無用と言わんばかりの顔を向けた。


「しかし敵はどうやら九州軍が到着した模様、まだ八万五千を残しております。佐和山城に八万五千を入れるのは無理にせよ、もう少し慎重に行くべきかと」

「だから貴軍、細川殿、そして吉川殿のお力でなんとか」


 康政の直属軍は二千五百しかいない。此度総大将の役目を任されるに当たって家康から兵を加えられているが、それでも六千である。藤堂軍二千、細川軍四千、吉川軍三千を足しても一万五千に過ぎない。


「吉川殿に旗でも掲げさせるおつもりですか?それとも真正面から」

「それは無論、三つ引両の旗の力を借りるつもりです。何、それでも出て来なければそれこそ西軍は臆病者の集合体と呼ばれ、士気が落ちる所まで落ちるは必定」

「その時こそ大夫殿らに」

「そう言う事です」


 頭に血が上った佐和山の西軍が吉川軍を討ちに飛び出して来た際、他の西軍がここだとばかり城兵との挟撃を目指して向かってくる可能性は十分考えられる。それを福島らに抑えさせようと言うのだ。


「間者からの報告によれば佐和山には三万が入っているとの事、二万五千で五万五千を防げますか」

「ここは関ヶ原のように大軍を展開できる訳ではない。それならば数の差はそれほど響かないでしょう」

「しかし、その二万五千の指揮をなぜ福島殿に預けるのです?」




 確かに正則は豊臣系諸侯を東軍に引っ張り込んだ人物だが、三成の死後はすっかり魂の抜け殻になってしまっている。

 それにこの軍勢には家康の娘婿である池田輝政も加わっており、そちらに大将を任せるのがどう考えても妥当なはずだ。


「いくら福島殿が打ちひしがれているとは言え、敵が迫ってくれば戦わない訳に行きますまい。先の戦は腰抜け共が逃げてしまいましたゆえ致し方ないでしょう。佐和山城を放置すれば治部少輔の死は何だったんだと言う事になります、敵は動くしかありますまい」


 高虎は康政の言葉に頷きながらも、内心では冷や汗を掻いていた。

(大夫殿があのまま立ち直れなければもう先が見えていると言うのはわかる。しかし、いくら大夫殿を立ち直らせるためとは言え、そこまでするか……)

 確かに、いくら気力をなくしているとは言え倍以上の敵に攻められれば必死に防戦するしか道はない。さすればそれがきっかけとなって闘争本能に火が点き、元の福島正則に戻るかもしれない。だが、例えそうなったとして最悪相手は倍以上である。凌ぎ切れるかどうか大変疑わしい。

 気力が充実しているならばともかく、今の魂の抜け殻の正則にそんな役目を背負わせるなど、死ねと言うのと大差ないのだ。

 家康は名将であっても世間に思われているほど温厚ではない。これから先の泰平の世に不必要であると判断すれば豊臣家すら平気で捨てる事ができる男だ。ましてや正則を捨てる事などには何のためらいもないだろう。

 もっとも、それはとうの昔にわかっている事だから別にどうでもよかった。

 どうでもよくないのは、康政らが西軍を甘く見ている以上に、正則らの落胆ぶりを甘く見ているのではないかと言う事である。

 戦が長引けば、補給線が短い西軍の方がどうしても有利になる。だから康政があえて必要以上に西軍を呑んでかかっていると言うのは、一気に決着を付けたい東軍からすれば仕方がない意味合いがあった。しかし正則にその理屈は通じそうにない。


(本当に大夫殿は戦えるのか?)


 天満山の戦いを見ても、正則も長政も追い掛けようとすれば追い掛けられる範囲に敵がいたのにもかかわらず牛歩行進をやめようとしなかった。正則も長政も背を見せて逃げる相手を追い掛ける必要はないなどと言う綺麗事が通用する訳のない世界を生きて来た人間のはずだ。

 確かにあの時大谷・平塚軍の命を捨てた猛攻は凄まじかったが、所詮二千の軍勢である。真正面だけで一万五千を擁する徳川軍から見ればほんの少数であり、放っておいて小西軍・明石軍を追撃する暇は十分あったはずである。

 しかし彼らは追撃を行わず、挙句大谷・平塚軍を攻撃する事さえしなかった。戦場まで来て何をやっていたのだと言う話であり、彼らの無気力ぶりが相当に重篤である事を示すのに十分な話である。康政の前回はいきなり敵に逃げられてしまったからだとか言う楽観的な理屈が、通用するようには思えなかったのである。








「本多佐州ノ様子青菜ニ塩ガゴトシ サナガラ福島大夫ノゴトシ 直政」




 その康政が、此度の出陣前日にこんな書状を受け取っていた事など高虎は知る由もなかった。




※※※※※※※※※




(何なんだこの男は、敵前逃亡を繰り返す軍隊に明日があるとでも思っているのか!?全く、ここまで臆病な人間など千年遡っても見つけられまい……)


 正信のあからさまな意気消沈振りを目の当たりにした直政の、正信に対しての不信感は頂点をとっくに突破していた。総大将の三成が自殺同然の形で死に、才覚ある大将の盟友である大谷吉継も既に亡く、寝返る者まで出ている。

 挙句天満山の戦いで大谷軍以外の軍勢は目の前で大将が戦っているにもかかわらずまるで顧みることなくしっぽを巻いて戦場から逃げ出している、そんな現実を目の当たりにしてまだ自分たちの敗北を予期するが如く落ち込むなど、どういう感覚をしたらできるのか直政には想像もし得なかった。


 要するに直政は少しでも怯懦の心を起こせば、それはあの底なしの腰抜けである本多正信と同じに、さらに言えば人生の目標を失って魂の抜け殻になった福島正則と同じになるぞと言っているのである。まさに、天満山の戦いの前に康政が直政にしたのと全く同じ事であった。




 しかしこの時、直政はその天満山の戦いの過程をすっかり忘れてしまっていた。福島や黒田はほとんど動かず、牧野は馬鹿正直をやらかして吉川軍の寝返りと言う絶好の機会をふいにしてしまい、自軍の赤備えも三分の二が死傷し、挙句本隊である明石・小西軍には悠々逃げ切られた。

 確かに要害である天満山は確保したものの、決してこの戦いは直政や康政が思うような大勝ではなく、判定勝ち程度に過ぎない勝利であった。


「六分の勝ちを上、八分の勝ちを中、十分の勝ちを下とする」

 とは家康が師と仰ぐ武田信玄の言葉だが、家康に言わせれば天満山での勝利はとても十分の勝ちではない。八分の勝ち、いや下手をすれば六分にも満たない勝ちである。にも関わらず、康政や直政は十分の勝ちであると思い込んでいた。

 六分ならばさらに努力しようと考え、八分だとこれでいいと満足してしまい、十分だと俺は最強だと言う驕りが生じてしまう、だから六分が上で十分が下だと信玄は言ったのだが、この場合は六分の勝ちを十分の勝ちと思い込んでいるのだからさらに性質が悪い。

 確かに六分の勝ちは自分を努力させようと奮い立たせる物だが、相手も余力を残す。そして十分の勝ちは驕りを生じさせるが、相手は完膚なきまでに叩きのめせている。今回の場合は、相手が余力を残しつつ自らが驕りを生じているのだから、下どころか無下である。


 無論、本来は康政も直政もそんな事に気が付かないほどの馬鹿ではない。しかし、この時二人の目はすっかり曇ってしまっていた。




 ――――――――なんで、あんな奴が。




 あの底なしの腰抜けの本多正信が、なぜ家康に好かれるのか。自分たちがこんなに努力しているのに、なぜ家康は正信を重用するのか。今、康政を支配していたのは家康ではなくそんな感情だった。

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