大谷吉継の奮闘

「相変わらず逃げ足だけは早い連中だ」

「逃げれば勝ちだなんて、何と言う臆病な連中だ。大将と同じだな」


 彦左衛門は情けないと言う気力さえ失せていた。


「明石軍・小西軍に逃げられた以上、残っている大谷・戸田を叩かねばなりません!」


 そう正則と長政を煽った彦左衛門だったが、正則も長政もまるで無気力だった。

 もっとも、本来ならばそんな情けない連中などほっといて敵に向かって駆け出して行くのが彦左衛門なのだが、その彦左衛門もまた明石軍の敵前逃亡による混乱で気力を削がれてしまっていた。


「やむを得ん。我らだけでも敵の後方を付くぞ」


 諦めて自陣へと戻った彦左衛門の声に、いつもの迫力はなかった。




※※※※※※※※※




「命を惜しむな、名を惜しめ!」

「赤備えを道連れにせよ!」

「井伊兵部よ、我が死出の旅路の供をお願いいたす!」


 戸田軍の将兵たちの勇猛なる言葉とそれに正比例するかのごとき武勇に、井伊軍に損害が生まれ始めていた。


「な…なんだこいつら!」

「落ち着け!目の前の敵は半数になっている!潰れるのは時間の問題だ!」


 守勝は必死に前線を励ましていた。実際、命を顧みていない戸田軍の突撃は井伊軍に損害を与えると同時に、自分たちにも深い傷を負わせていた。

 悲しいかなと言うべきか戸田軍が命を捨てて油断のあった井伊軍に挑みかかった所で、身体能力そのもので大きく落ちる戸田軍が井伊軍を蹂躙するのは困難だったのである。


「そ、そうだ!敵はじき潰れる!」

「あと一歩だ!」


 守勝の声援もあり、井伊軍はようやく落ち着きを取り戻した。


「くそっ…井伊兵部は無理でも貴様だけは倒してやる、井伊の家老め!」

「戸田重政、よくぞここまで来たな。雑兵の手にかかりたくはないだろう!」




 それでも重政は赤備えを振り払い、守勝の元までたどり着いた。既に甲冑はボロボロで全身に数ヶ所の傷を受けていたが、眼光の鋭さだけは健在だった。


「いざ!」


 守勝は重政に向けて槍を突き出し、重政は自らの槍でそれを上から叩き下ろした。そんな打ち合いが十数合続いたが、やはり消耗していた分だけ重政の槍の動きが鈍くなり始めて来た。


「これまでよ!」


 勝負だと見た守勝は重政の胸板目掛けて全力で槍を突き出し、そしてその槍は重政の胸元を正確に捉え、背中を突き抜けた。

 重政の体が倒れ込むや、守勝は自軍の士気を高め戸田軍の士気を削ぐべく、勝ち名乗りを上げた。


「戸田重政殿は、この木俣守勝が討ち取っ……うわっ!」


 しかし、それがかえっていけなかった。

 避けきれないと判断した重政が、最後の力を振り絞って手持ちの槍を守勝の馬に向かって投げ付けたのだ。守勝の槍が胸板に達する瞬間に手を離れたその槍は守勝の馬の脚に命中し、バランスを失った馬は見事に横倒しになってしまった。

 そういう有様で勝ち名乗りを上げた所で場が締まるはずもなく、かえって井伊軍の危機を煽り戸田軍残党の士気を上げるだけだった。


 そして、得てしてこういう時は悪い事がさらに重なる物である。


「ひるむな!大将は討ち取った!全軍崩壊は時間の問題だ!」




 守勝がそう声を上げたのとほぼ同時に、対い蝶の旗を掲げた軍勢が井伊軍にぶつかって来た。大谷軍である。


「戸田殿の無念を晴らせ!」

「そうだ!戸田殿に井伊兵部の御首をお届けするのだ!」


 数は戸田軍と同じ千、しかもまだあまり疲れていない。一方の井伊軍は決死の覚悟で挑みかかっていた戸田軍を相手にして疲れがたまり始めていた。


「喰い止めろ!これ以上井伊軍の被害が拡大すると後の戦いに響くぞ!」

「この彦左衛門が大谷の息の根を止めてやる!」


 それでも藤堂軍と彦左衛門軍は横と後ろから大谷軍を殲滅しようとしていた。

 だが彦左衛門軍の方は明石軍に逃げられた事や福島や黒田の無気力ぶりに呆れてしまった事による気力の低下と時間の浪費があり、まだ大谷軍の尻を捉えられていない。一方で藤堂軍も死ぬ気で向かってくる軍勢に真正面から当たりたくないと言う本音があり、その攻撃はどこか緩かった。


「藤堂など構う必要はない!敵は赤備えだ!」


 大谷軍の実質的指揮官である平塚為広の檄に答えるが如く、戸田軍と同じかそれ以上の勢いで兵たちは赤備えに喰い付く。


「うぐっ!」

「え、援軍め…」


 確かに身体能力には差があったが、肉体的にも精神的にも疲弊していた赤備えにはその大谷軍を弾く力は残っていなかった。




※※※※※※※※※




「赤備えが押されているだと!?」

「ええ…」

「義父上をお救いするぞ、兵を送れ!」

「おやめ下さい!」


 忠吉は赤備えの危機を見て援軍を送ろうとしたが、側近に強い調子で諌められた。


「なぜだ!?」

「赤備えが救いを受けるなど文字通りの屈辱!三千の赤備えが二千の敵も跳ね返せないなどと言う事になれば赤備えの名は地に堕ち、敵はますます元気づきます!」

「しかし今は」

「義父上をお信じになって下さい、どうかお願いします!」

「……わかった、もう少し様子を見る」


 側近の必死の懇願で忠吉は援軍を送るのをやめた。


「赤備えは最強なのだ、負けるはずがない」


 しかし忠吉がそんな風に思い込んだ所で、それは井伊軍の苦境を打ち砕く助けにはなっていない。いや、本来ならばそんなつまらない自尊心など顧みることなく井伊軍に援軍を送るべきであり、家康ならば強引にでも手勢を差し向けたであろう。これが初陣である忠吉にはその点の強引さが足りなかった。




※※※※※※※※※




「貴公の誠意はわかりました、それがしが責任を持ちますゆえ」


 広家がいくら事情を話しても耳を傾けようとせず、結局自身が人質になると言い出してようやく康成は納得した、いやさせられた。

 三成を失った西軍は残党兵に過ぎないと思い込んでいる康成にとって大事な事は秀忠の名誉回復であり、今の西軍は言うなれば秀忠の名誉回復の道具に過ぎなかった。それが消え失せてしまう事が、今の康成にとって何より問題だった。

 なんでこうなるんだと思っているのは、広家よりむしろ康成だった。


「それでは早く大谷軍へ攻撃を」

「いえこの件はそれがしが責任をもって引き受けた事、それがし自らが貴公を大殿様の下へお連れいたします」

「待ってくださいそれでは」

「吉川軍の武装を解除し、大殿様の本陣に誘導するように言いつけてありますゆえご心配なさらず」


 大谷軍など存在しないと言わんばかりの物言いである。そんな悠長な事を言っている場合ではないと広家は叫びたかったが、叫んでも無駄な事が分かってしまっているだけに顔を伏せるしかなかった。

 そして康成自身が広家を家康の元に連れ込んだため、指揮官を失った両軍は両名に追従して家康本陣へ向かうだけの存在となり、事実上戦力としての価値を失った。




※※※※※※※※※




 押しの弱い忠吉の場違いな自尊心の保護と余りにも現実が見えていない康成の悠長すぎる振る舞いは、井伊軍の状況をさらに悪化させた。


 比例するように、大谷軍の将兵はさらに元気付いた。そしてその元気は赤備え全てに降りかかってくる。


「平塚為広、見参!戸田殿の無念を晴らす!」

「ぐぅ、すぐに重政の元に送ってやる!」



 そして為広は守勝に槍を付けていた。馬を失って以来換え馬に乗る暇もなく徒士での戦いを強いられている守勝と、馬上の人である為広では最初から形勢は明白だった。

 いやそれでも守勝の腕ならば為広と互角に戦えるはずだったが、命をとうの昔に捨ててかかっている為広と当初からどこか西軍を甘く見ていた節のある守勝では意気込みが違い、そしてそれが両名の勝敗を分けてしまった。




「ああっ、木俣様!」


 十合ほど打ち合った所で為広の槍は守勝の首を正確に捉え、前のめりに倒れ込んだ守勝はそのまま動かなくなった。


「次は井伊兵部だ!」


 為広は守勝の血が付いた槍を振り回して赤備え数人の命を奪い、次なる目標である直政に向けて突進しようとした。


「やらせるか!」


 しかし守勝の死にさすがに赤備えも奮起したのか、直政の馬廻り衆が一斉に為広

に向けて襲いかかって来た。馬廻り衆は流石に強く、為広の馬の脚は止められた。が、為広の手は止まる事はない。


「これしき!」


 為広は血槍を振り回して馬廻り衆をなぎ倒す。その過程で二度ほど赤備えの槍を受けて傷を負っているのだが、そんな事など関係ないと言わんばかりに為広はますます暴れ振りを増すばかりであった。


「よかろう平塚為広、わしが相手をしてやる!」

「井伊直政か!これこそ生涯の誉なり!」



 そしてついに、為広は直政の元に達したのである。


 と言っても、直政本人は全然疲弊していない一方で為広はここにたどりつくまでに全力を尽くして来た事もあり体力の消耗がひどく、勝負の帰趨は既に見えていた。五合ほど打ち合っただけで為広の槍は乱れ始めてしまい、そして直政はその隙を見逃す人間ではなかった。


「平塚為広、天晴な男よ。丁重に葬ってやるが良い」


 為広の体を突き抜いた槍を引き抜きながら、直政は神妙な顔で呟いた。


「あっ殿!!」


 しかし、為広の首をもごうと下馬した直政に向けて一本の脇差が飛んで来た。直政は慌てて身をよじって躱そうとしたが間に合わず、脇差は直政の左足首に突き刺さった。


「これしき!」

「いや、これしきと申されましても!」

「だ、誰だ!?」


 直政は何のことはないと言わんばかりに脇差を抜いて投げ捨てたが、直政の左足首から血が出ているのを見るや馬廻り衆は慌て出した。


「今だ、井伊兵部の首を取れ!私に構うな!」


 まもなく、直政の左足首に脇差を投げ付けた犯人は判明した。


「お、大谷吉継だ!」

「お下がりください!万が一病が感染しては」

「たわけ!!」



 輿から出て来た犯人・大谷吉継の姿を確認した馬廻りはさらに動揺を深めたが、直政は彼らを怒鳴り付けた。


「命に深くかかわる業病を抱えながらこうして戦場に赴き、かつ自らの手でこの井伊直政に傷を負わせたのだ!丁重に応対せねばならぬであろう!!」

「ですが……」

「お前たちは刑部の配下を相手にしておればよい!!」


 直政の恫喝にようやく馬廻りたちは直政を止めるのを諦めた。


「豊臣家の明日の為に……」

 直政の耳には吉継の小声はそこまでしか入らなかった。


 いや、それで口上としては十分だと判断したゆえか、直政は槍を構えて吉継に向けた。


「参る!」


 吉継も直政に投げ付けたのとは別の脇差をもって直政の槍を受け止めた。業病に支配された身でありながら吉継の剣術は鋭く、直政の槍を必死にかわしていた。


(大谷吉継……なるほど、見事な男だ。そして頭脳もよく回っている。しかし残念だが、その体力ももうすぐ尽きよう……その時までは我慢するまでだ!)


 しかし直政は冷静だった。吉継が自分の焦りを待ち望み、一気に勝負を付けようとした時を狙って相討ちに持ち込んでやろうと言う狙いを持っている事を看破していた。


 そして直政の読み通り、五十合ほど打ち合った所で吉継の剣先は鈍り始めた。


「御免!!」


 吉継の必死の剣捌きによりわずかに急所は外されたものの、直政の槍は確かに吉継の体を捉えていた。

 吉継は手から刀を落とすと後方によろめき、そのまま仰向けに大の字になって倒れ込んだ。


「大谷刑部殿、討ち取ったり!!」


 直政のその叫び声と共に、天満山の戦いは終わった。




※※※※※※※※※




「ああ、刑部も死んだのか…」

「そうだ、終わったんだな、戦いは…」

「赤備えはやっぱり強いのです!」

「(なんでこうなるんだ…)」

「(徳川家の明日はどうなるのだ…?)」


 そしてそれに呼応するかのように、正則・長政の無気力な呟きと忠吉側近の脳天気な勝鬨と広家の嘆きと高虎の不安の声が天満山及びそれぞれの心に響き渡ったのである。


 確かにこの戦いで東軍は天満山を確保し、吉川広家も降伏させ、大谷・戸田軍合わせて二千を一兵たりとも残らず殲滅した。

 しかし主力である小西・明石ら一万には見事に逃げられ、井伊の赤備え三千の内千を失い、同じく千を負傷させられた。


 そして何より、この「勝利」に危機感を増幅させた男が一人いた――――――そう、本多正信である。

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