牧野康成の醜態

「小西軍が後退!?」

「中結祇園守の旗が下がって行きます!」


 彦左衛門がうっぷん晴らしの相手を失い愕然とする中、高虎もまた敵主力部隊であるはずの小西軍の全面後退と言う事態に開いた口が塞がらなくなっていた。


「貴様らここに一体何しに来たんだよ!」

「戦え、戦え、この腰抜け連中!」


 藤堂軍は小西軍に向けて嘲弄の声を飛ばしたが、小西軍はまるで振り返ろうとする気配がなく、あっと言う間に陣を引き払って天満山から姿を消した。


「お前たちは見捨てられたのだ!投降しろ!」


 高虎は標的を目前の戸田軍に切り替えたが、戸田軍も戸田軍で降伏するどころか小西軍に続いて後退する事もしない。

(どうなっている…!?また敵前逃亡となれば言うまでもなくこっちの勝ちだが、それにしても不可解すぎる…奴らは何を狙っている!?)




※※※※※※※※※




「急にそれを言われても」

「そんな、徳川様には既にその旨を!」


 一方、南側では牧野康成と吉川広家が押し問答を繰り広げていた。


「それがしはその様な話、聞いておりませぬ」

「なぜです!内府殿は貴公に伝えなかったのですか!?」

「ええ……」

 康成の顔には困惑、広家の顔には焦燥と混迷の入り混じった表情が浮かんでいた。

(私はこんな所で何をやっているのだ……早くしないと戦果の挙げようがないではないか)




(治部少輔の蛮行に酔いしれている西軍にもはや明日はない……しかしこのまま寝返ってもなぜあの時に行動を起こさなかったと責められるは必定、とすればこの手で手土産を稼ぐしかない)



 妄信とも言うべき三成への態度に、改めて西軍に絶望した広家は消極的な内応ではなく積極的な裏切りを行い、西軍を離脱する事にしたのである。

 しかし、徒手空拳で寝返った所で関ヶ原における絶好の戦機を逸した罪は消えない。大谷吉継らを討ち、天満山を献上する。それぐらいの事をしなければ家康は自分を受け入れてくれないだろう。そういう計算の元広家は此度の行動に及んだのである。


 しかし、今その予定は狂い始めていた。

「これより我らは返り忠を行う!陣門を開き、白旗を掲げよ!そしてすぐに大谷刑部の本陣を突く!」

 広家が決断の一言を放つや、吉川軍の将兵たちは早速その言葉に従って動き出した。広家同様、彼らも三成万歳状態の西軍に飽き飽きしていたのである。




 しかし、

「奴ら、数に任せて突撃を敢行して来たか!迎え撃て!」

「殿、待ってください、敵陣から白旗が」

「あ?騙されるな、大将を失った敵が士気高揚の為にどうしても勝ちを欲する苦し紛れの手段として出した紛い物だ!」

 康成はそれを敵の策略と思い込んでしまったのである。




 実はこの時、康成は広家より自分の方がずっと焦っていた事に全く気付いていなかった。康成は秀忠にくっついて上田城で痛い目を見せられて、つまり関ヶ原に間に合わなかった事もあり秀忠軍の名誉回復のため躍起になっていたのである。


 それが戦場にやって来て目前の敵に降伏されては手柄も何もあった物ではない。ましてや、康成は三成が死んだことは知っていてもその凄まじい死に様を見ていないし、家康さえ怯んだほどの迫力を持った三成の首級を見ていない。


(寝返るなら治部少輔が死んだ時に寝返ればいいではないか、それが何を今さら)

 そんな思考に至ってしまっている康成に、広家の行動を本気の投降と受け止める事などできはしなかったのである。




「撃てーっ!」


 こうして康成は、迎撃の一斉射撃を命じてしまった。


「ななっ……!?」

「ま、待たれよ!我らは降参だ、降参!!」

「ええっ……!?」

「あれは大将の吉川広家……本物の返り忠だと言うのか!?」


 広家は慌てふためいて自らの手で白旗を振り、康成も信じられない本物の返り忠と言う事態に慌てふためき、その結果吉川軍のみならず牧野軍も混乱に陥り、両軍とも活動停止状態になってしまったのである。




※※※※※※※※※




「敵正面を突破せよ!」


 一方、明石軍・小西軍が悠々と撤退し吉川軍が寝返ると言う状況の中置き捨てられた形になった大谷軍・戸田軍であったが、その士気は全く衰えていないどころか、むしろ増していた。


「彼奴らは死に場所を探しているらしい、まともに当たるな!その内南北の軍勢が標的を求めて彼奴らを押し潰す!」


 高虎は流石に冷静だった。大谷軍・戸田軍の突撃を死に場所探しの最後の一撃と判断、そのような軍勢と真正面から戦う事の不利をすぐさま悟り、標的を失っている南北の軍勢と共に包囲殲滅されるだろうと計算していたのである。


「少し脇に寄り、矢弾の雨を浴びせよ!そして横っ腹を突け!」


 高虎の命に従い、さっと動いた将兵たちは戸田軍に向けて矢弾の雨を浴びせた。


 その判断は正しかっただろう、普通の状況ならば。




「戸田軍が藤堂軍をすり抜けやって来ました!」

「どうしたのだ藤堂軍は?」


 藤堂軍の後ろに陣を張るは井伊直政率いる赤備え、精鋭だらけの徳川軍の中でも最も強いと言って差し支えのない軍勢である。


 ところが、この時はそうとも言い難かった。


「明石軍に続き小西軍が撤退!?それでは……」

「もはや敵は関ヶ原と同じように全面撤退の状況で」

「ちょっと待て、要するにまた俺らは突っ立ってるだけか!?」


 またもや自分たちはいるだけの存在なのか、そういう気持ちに襲われた井伊軍の士気は大きく萎えた。


「敵がいなくては力の振るいようがないじゃないか!」

「馬鹿野郎!まだ大谷と戸田が残っているぞ!」

「しかし藤堂と福島と黒田に、彦左衛門殿と牧野殿といるんだぞ。俺たちにお鉢が回って来るか?」


 井伊軍の兵士たちも高虎と同じように、残っている軍勢は南北から包み込まれてすり潰されて行くと思い込んでいた。


「井伊の赤備えか!」

「最後の相手として不足はない!」


 しかしその井伊軍の兵たちの予想に反し、戸田軍は高く刃を振り上げながら井伊軍に向かって突進してきた。


「敵が来たぞ!」

「藤堂殿は何をしておられる!」


 この時、既に命を捨てる決意をしていた戸田軍と違い、井伊軍には油断があった為か、精鋭である赤備え三千が戸田軍千と衝突するや否や押され始めた。


「藤堂殿はどうした!」

「どうやら援護射撃のため横に回っているようで」

「それはいいが、福島や黒田はどうした!」

「さあ……まるでやる気がないようで」


 家老・木俣守勝のまるでやる気がないようだと言う回答に、直政はあんぐりと口を開けた。


「やる気がない……!?明石めにものの見事に逃げられたからか!?」

「いやそれが……彦左衛門殿がですな、もたもたしているならば勝手に先陣を切らせてもらいますと福島殿と黒田殿に申し上げた所それならばどうぞと…………」

 直政は二の句が継げなかった。自分たちが散々三成への悪意を剥き出しにしてこの大戦を呼び込んだと言うのに、三成が死んだ途端まるで別人のようになってしまっている。


(大谷も戸田も平塚もかなりの三成与党だぞ、三成の代わりに憎悪をぶつけるには不足でもないと思うのだがな…………)


 その点では、高虎も福島や黒田らが彼らの精神に受けた打撃を軽く見ていた。

 彼らが十九万の軍勢が犇めいていた戦場の中でさえ、三成しか見えていないほどに視野狭窄だとは思わなかったのである。

 ある「目標」しか見えていない中でその「目標」が消え失せてしまえば、何も見えない事になる。そして彼らは光を失ったと同時に意欲を失ってしまったのだ。




※※※※※※※※※




(吉川殿は元より東軍に通じていたはず、だとすればここぞとばかり東軍に寝返ってくれるかもしれない。そうなれば牧野殿も手空きになるし、戸田も平塚も大谷も容易く殲滅できるのだが……)


 それでも高虎は吉川広家に期待していた。あの三成特攻とそれに伴う西軍全面撤退と言う絶好期に西軍の一員として撤退してしまった事で広家は内心焦っており、この天満山を巡る戦いを絶好の機会だと捉え大きな行動を起こすかもしれない。そうなれば、福島や黒田が駄目でも十分戸田軍・大谷軍を潰せるはずだ。

「南側はどうなっている!」

「それが、吉川軍がいきなり返り忠をいたしまして、それを受けて牧野殿が混乱状態に陥っておりまして」


 吉川返り忠と聞いてしめたと一瞬思った高虎だったが、その次の言葉に心底がっくり来てしまった。


「なぜそうなる!」

「そんな話は聞いていないと」


 戦場で話を聞いているも聞いていないもない。あるのは放っておけば敵が逃げてしまうと言う現実だけではないか。



(徳川の宝、三河武士の弱点を見た気がするわ……)



 三河武士は実直にして忠実である。しかし、その反面と言うべきか主の言葉に縛られる傾向があり、自主的に判断する能力には乏しく融通が利かなかった。また、主に忠実である事を誇る反面、閉鎖的で排他的であった。


 小牧・長久手の戦いの後徳川が秀吉に服従した時、井伊直政と言う三河武士の代名詞みたいな存在の男が、徳川から秀吉に走った石川数正との対面を秀吉が和解の意味を込めて直政に勧めた際に、その時既に関白であった秀吉に向かって平然と

「主に背いた者との対面は御免蒙ります」

 と真顔で言い放ったと言う話がある。よく言えば主に一途で忠実だが、悪く言えば偏狭で頑なとも言える。此度の康成も同じように約定もない、いや実際にはあったのだが自分が知らない約定をもって寝返りを打って来た広家をその時点で軽蔑し、真剣に受け止めていないのだろう。


(他人に頼る前に自分に頼れと言えば体はいいが……)




 高虎は徳川の未来をふと思い、嘆息せずにはいられなかった。

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