藤堂高虎の不安

 九月二十三日、本多正信の焦燥など全く気付く由もない松平忠吉と井伊直政は西軍の待ち構える天満山を陥落させるべく出陣した。


「天満山に我らの旗を立てるのだ!」

「出陣するぞ!」


 忠吉と直政は意気盛んであったが、正則や長政の気勢は相変わらず上がっていない。


(今さら何を戸惑っているのやら……)


 三万もの大軍の中で正則や長政の落胆ぶりを嘆いていたのは、藤堂高虎一人だった。高虎は混迷を極める豊臣家の内情を見て次の日本の覇者が徳川家だと判断したからこそ東軍に味方したのだが、長政は父を追い込んだ三成への敵討ちのためであり、正則にいたっては単に三成が憎かっただけである。

 おそらく、両方ともその後の事など考えてはいなかったのだろう。


(内府殿は律儀であってもお人好しではない。今の豊臣家が天下泰平の妨げになると判断すれば平気で潰すだろう。大夫はそれをわかっているのか……?)


 もっとも、高虎には正則の今後まで心配する義務はない。ただ、この場は味方として何とか正則の士気を高揚させなければ東軍の敗戦、すなわち藤堂家の没落と言う事態になりかねない。自然、高虎は正則や長政よりずっと士気は高かった。


(だからこそ、この役目を与えられたのだろうな。徳川軍を差し置いてまでも)


 藤堂軍の兵は二千しかいない。五千の福島軍・四千五百の黒田軍と比べても明らかに少ないにもかかわらず、この天満山攻略戦では名誉ある先鋒の役目を与えられた。福島・黒田軍のみならず、徳川最強の精鋭井伊の赤備えがいるのにも関わらずだ。





 実はこの時徳川軍も、藤堂軍ほど士気は高くなかった。

 元より徳川軍は西軍を弱兵だと思っており、強いのは島津軍と石田軍だけだと家康さえも思っていた。そのどちらもいない天満山など精鋭たる自分たちが出るまでもないと言う考えが徳川軍の中に蔓延していたのである。




※※※※※※※※※




「敵は」

「およそ三万、先鋒は藤堂軍とのことです」


 病に苦しむ大谷吉継の声は小さく、副将の役目を自ら引き受けた平塚為広なしでは意思の疎通もままならないほどだった。


「なんとかここを守りきり、とりあえず勝利を挙げねばならない。それでこそ流れは西軍に傾くと言う物だ」


 吉継は、失いかかっていた光を目に宿らせながら前を向いた。

(治部殿、この勝利を手土産に貴公の元へ参る時が来たようだ)

 吉継が目前に迫った盟友との再会を思い浮かべている頃、南に三千の手勢と共に陣を構えていた吉川広家は前日の軍議を思い返していた。天満山の北側には明石全登が四千、中央には大谷吉継が小西行長や平塚為広などを加えて八千で本陣を敷いている。




「敵は倍。ここはこの天然の要害に籠って戦うべきかと」

「しかしそれだけではいずれ押し切られるのでは」

「大丈夫です、我らが二、三日ここを凌げば援軍が参ります」


 小西行長と明石全登は防衛に徹するという事前の作戦を貫き通そうとしたのに対し、吉川広家はそれではいずれ押し切られると主張した。


「しかし先鋒が井伊軍ではなく藤堂軍と言う事は先鋒が敗れるのは承知の上ではないのかと刑部殿は」

「要するに囮だと刑部殿は仰られているのか」

「ええ」

「だから打って出てはならないと」


 この軍議の中心はもちろん吉継だが、吉継は発言もまともにできないため実際には平塚為広を介している状態である。

 幸い為広は実直な人物で吉継の言った事を違える事はない。


「どんなに小さな物でも、我らには勝利が必要だと言う事ですね」

「そういう事だ、まずは一歩でも歩を進めねばならん」

「刑部殿もうなずいておいでです」


 そして全登と行長がその言葉に賛同する、そういう展開で軍議は進んでいた。


 その最中、広家は内心腑に落ちないと言う表情をしていた。

 吉継はともかく、行長は商人上がりで戦の経験は乏しく、明石全登は宇喜多家の陪臣で明らかに将としての格が落ちる。広家には自分の方がずっと経験が豊富なのにと言う自負もあった。


(誰も彼も、完全に治部少輔にあてられておって……何ていう死に方をしてくれたのだ)


 吉継が難病により生死の境をさまよっている事は誰もが知っており、今も顔のほとんどを布で覆っているような状態である。その吉継が体から落とした膿だか鼻水だかが入ってしまった茶を三成が平然と飲んだことから両名は盟友とも言える仲になったと言われているが、それでも三成以外の多くの者は吉継を避けていたし本人もそれは仕方がない事だと思っていた。

 それが三成が死んでからと言う物、誰一人吉継を避けようとしていない。


「感染しては申し訳ないと」

「治部少輔殿とてそれを承知で接していたのでしょう?」

「我らの料簡の狭さと心の弱さを、治部殿と刑部殿に詫びねばなるまい」


 誰も彼も、三成に向かって右へ倣え状態である。


 ただの文官であったはずの三成が、急に家康に比肩できる人物になってしまったのだ。

 しかも既に死んでいるのだから、これ以上失態を犯して評判が落ちる事はない。


「う、うむ……個人的にはいささか消極的な気もするが、刑部殿がそれをよしとされるのならばそれで参るとしよう」

「吉川侍従殿も承諾して下されたか!」

「これはよい、吉川侍従殿の力があれば迎撃は難しくない」


 広家は渋々と言った調子で吉継の専守防衛策を受け入れる事としたが、行長も全登も諸手を上げて喜び出した。

 声色からしても、言葉面からしても渋々なのがわかっているはずなのにだ。軍勢内部の意思不統一を嫌うのはわかるが、それにしても浮かれ過ぎていた。


(所詮治部少輔は戦に関しては素人、そしてもう何もできない泉下の住人……)

 そしてそれにすっかり魅入られている西軍、と言う図式が広家にとっては何とも苦々しくてならなかった。







「先鋒が見えます!藤堂蔦のようです!」

「そうか」

「刑部殿、それがしが迎撃に参ります!平塚殿は刑部殿のお側に!」


 広家が苦々しい思いをしていたちょうどその頃、為広によって東軍来たるの報が本陣に飛び込んで来た。そしてその報を吉継が認めるや、為広の同僚である戸田重政が本陣から飛び出し、手勢を率いて前線に駒を進めた。


「敵は藤堂軍、徳川本隊に比べれば大したことはないが、だからと言って調子に乗ってはいかん!今はとにかく、勝鬨を上げる事を目標とせよ!」


 まもなく藤堂軍を視界に捕らえた重政は、事前の打ち合わせ通り迎撃に徹底するように呼びかけた。

 この戦いは勝利を挙げる事が最重要なのだ、大勝を追ってはいけないと。




※※※※※※※※※




「三度牽制の射撃を行え、徐々に火力を弱くしてな」


 一方で射程圏内に敵を捕らえた高虎はそんな妙な指示を出していた。


「敵が来たぞ、撃てーっ!」

「こちらも撃ち返すのだ!」


 その藤堂軍と戸田軍が銃弾のやり取りを始めた音と同時に、天満山を巡る戦いの火ぶたは切られたのである。




 そして藤堂軍は高虎の指示通り、徐々に鉄砲の音を小さくした。その結果最初は数に劣る戸田軍の方が銃声は小さかったが、三度目になると音の大きさは逆転していた。

(この戦い、突っ込めばこちらが不利。相手に出てくるべきだと思わせなければ)

 三成の死に様がいかに鮮やかであった所で、総大将を失ったと言う西軍の打撃が消える物ではない。何としてもその損失の傷を塞ぐぐらいの勝利を得ねば、士気が萎えてしまうのではないかと考えているだろう、その焦りを高虎は突きに行く事にしたのだ。

「どうした!この藤堂高虎が恐ろしいのか!」

「治部少輔があんなに勇敢だったのに、それに付き従う奴は腰抜けばかりか!」

「あーあ勿体ないなあ、お前ら相手に鉄砲なんか……」


 さらに藤堂軍は挑発を行い、戸田軍を誘き出そうとした。


「何か騒がしいですね」

「ほっとけほっとけ、我らには治部少輔殿が付いている」


 しかし戸田軍は文字通りの柳に風で全然出てくる気配がない。

(ええいっ、敵は焦っていないのか!)

 いくら宇喜多秀家と言う、五大老の一人で大将にふさわしい格の持ち主が残っているとは言え、総大将の三成をいきなり失った軍勢が、敗北感もなければ焦りも感じられない事に高虎は不安を覚え始めた。


「この天満山はそう柔ではない、焦らずに構えろ!」


 結局高虎は、今日一日での決戦を半分諦めたような台詞を吐かざるを得なかった。


「南側は」

「我らと同様の状態で」

「北側の情勢は」

「申し上げにくうございますが、まるでお話になっておらず」


 先鋒である藤堂軍が脇を突かれぬように、天満山の北と南に陣を構える明石軍と吉川軍にも忠吉は攻撃の手を差し伸べていた。

 南側の吉川軍を攻撃していた牧野康成率いる徳川軍二千は高虎と同様相手を陣から誘き出そうとして攻撃をかけるも、戸田軍同様の梨の礫状態であった。


「もう少し積極的に行っても良いのではないか」

「いえ、この天満山一日では落ちませぬ。まずは北の明石軍から排除いたします」


 今日の戦いでは牧野軍も牽制に過ぎなかった。忠吉は慎重すぎると思っていたが、直政は士気を高揚させながらも冷静だった。


「しかしその北側が思わしくないのではないか?」

「士気を高揚させるため相州に彦左衛門殿を借りたのですが……いやはや」



 相州こと大久保忠隣の年下の叔父、彦左衛門こと大久保忠教の名を知らない者は徳川にはいなかった。勇猛で頑固者として知られる彦左衛門なら、士気の上がらない福島や黒田の尻を叩いてくれるだろうと言う期待があったのである。


「兵部、福島らの背中を押してくれぬか、いやこの際私が焚き付けに行くべきか?」

「駄目です、そんな事をすれば彦左衛門殿の面目は潰れます」


 忠吉は直政の制止にそうかと頷いたものの、北を攻める東軍を見つめるその目には落胆の色が浮かんでいた。




※※※※※※※※※




「福島も黒田も、腰抜けの集まりかっ!」


 彦左衛門は憤懣やる方ないと言った調子で怒鳴り声を上げていた。




「何がそれならどうぞだ!中央本隊への先鋒が佐州殿なのは良いとしても、北側の明石軍を排除するのが我らの役目、今日の戦略目標だろうが!」


 彦左衛門は北側の軍に合流するやもたもたしていると我らが先陣を切りますぞと黒田長政の尻を叩いたのだが、長政はまるで躊躇う事なくではそうして下さいと言い放ったのである。


「天下に黒田は弱兵の集まりと宣伝するおつもりですか!」

「そんなつもりはない、だが見た所貴軍の方が圧倒的に士気が高いようだ。なれば先陣に立っていただき明石軍に風穴を開けていただきたい」

「何を言われる!福島殿が我らに先陣を譲るとお思いか!」

「思っておりますが」


 余りにも情けない長政の言葉に愛想を尽かした彦左衛門は前方の福島軍へ追い付かんと駒を進めたが、その福島軍が牛歩とでも言うべき遅滞行軍であったためあっと言う間に追い付いてしまった。


「何をやっておられる!」

「おお大久保彦左衛門殿か、いや心強い。どうか先陣をお願いいたします」


 挙句その福島軍の長たる正則があっさり先陣を譲ると言い出したものだから、彦左衛門の苛立ちは頂点に達した。


「いい加減になされよ!誰よりもこの戦に意欲を燃やしていたのは福島殿では!?」

「ああ、そうでしたな……治部少輔の豊臣家簒奪を阻止するため……」


 そこまで言う間に元々覇気の感じられなかった正則の目が急に虚ろになった。

(あれだけ引っ張っておいて石田三成がいなくなった途端にこれか!情けなや……)

「わかり申した!我が軍が先頭に立ちましょう!」

「それはありがたい。大久保彦左衛門殿の武勇、見せていただきましょう」


 三成の壮絶なる死に完全に心を打ちのめされている正則率いる福島軍を追い越し、彦左衛門は北側攻撃軍の先鋒に立った。


「徹底的に攻めよ!我らだけで明石軍を打ち砕く!」

「しかし我らの手勢では」


 彦左衛門に預けられていた兵は千五百、明石軍の半分以下である。


「味方が危機に陥っているのに助けに来ん程阿呆ではないわ!」


 確かに危機に陥っている軍勢を放っておいて遅滞行軍を続けるような真似をすればいよいよ信頼は地の底まで落ちるだろう、彦左衛門はそこに期待をかけたのである。


「進めーっ!」


 彦左衛門は大声で吠えながら明石軍の待つ北の陣へと駒を進めた。余りにもだらしない味方たちに背負わされた鬱憤を晴らしてやると言わんばかりに。


 しかし、その彦左衛門の思いはまたも裏切られた。


「明石軍が下がって行きます!」

「な、何だと……!?」


 彦左衛門は、後退を始めた明石軍を見据えたまま動けなくなった。

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