第二章 福島正則の虚脱

福島正則の虚脱

「申し訳ございません、何とお詫びを申し上げればよいのか」

「そなたらが詫びる事ではない」

「なれば江戸中納言様に」

「式部と佐州の意見が一緒であると言う事の重みをわかっとらん奴には会いたくない」




 石田三成が壮絶な死を遂げてから五日後の九月二十日、秀忠軍はようやく関ヶ原に到着した。

 榊原康政と大久保忠隣は家康に秀忠の赦免を求めたが、家康は二人の嘆願にまるで答えようとしない。




「誰よりも治部少輔打倒に命を燃やしていた細川三斎が失われたのだぞ、それだけでも士気の低下は大きい。さらに十万の軍勢が一人に突破されたという現実は西軍の強さと東軍の弱さを日の本全てに示す様な物。無論わしにも責任はあるが、秀忠もその責めを負わねばならない事は明白」

「しかし総大将である治部少輔は既に泉下の……」

「そうです、なれば西軍の瓦解は時間の問題かと」

「指揮権は備前中納言辺りにとうの昔に渡していたのだろう、今さら治部少輔一人死んだことで大したことではなくなっていたのかもしれん、西軍の中ではな」


 それでも康政と忠隣は必死に抗弁したが、二人と同じように秀忠にくっついていた正信は家康の眼前で俯いてばかりで何も言おうとしない。

 康政と忠隣はそんな正信を秀忠の擁護をする気がないのかと睨み付けたが、この時正信が物を言う気力さえ湧き上がらないほどに打ちひしがれていた事には全く気が付いていなかった。




 三成が死んだ以上、三成とその仲間たちが天下をほしいままにしようとしていると言う理屈は成り立ちようがない。

 大谷吉継に小西行長、増田長盛や長束正家と言った三成と仲良しの連中は残っているが、吉継は病気が重くあとどれだけ生きていられるかわからないし長盛や正家に三成ほどの影響力はない。強いて挙げれば小西行長だが、三成のような度胸や器量がある訳ではない。


(石田三成は十万の兵を一人で釘付けにしたあげく猛将である細川忠興と相討ちと言う見事な死に方をした……三成は大夫らにとって自分たちの得手であるはずの武勇においてすら互角以上の働きを見せつけた、しかももう二度とその差を縮める機会はやって来ない……大夫の喪失感はいかばかりか計り知れぬ……豊臣系大名をまとめる大夫の士気低下はとりもなおさず他の大名の士気低下に直結する……どうすればよいのだ…………)


 その上、内通していたはずの小早川秀秋や吉川広家まで「西軍」として宇喜多秀家らと共に佐和山まで行動を共にしてしまった。

 西軍総撤退と言う絶好の状況で何もせず追従して退却した事に対し、寝返りの約束を反故にする気かと東軍諸将に不信を買ったのではないかと言う懸念が付きまとう上に、長宗我部盛親や赤座直保と言った内通していなかった人間たちが秀秋や広家の内通を疑い出せば、なおのこと裏切りなどできなくなる。

 そうなってしまうと、正直手の施しようがないのだ。


「おい佐州、そなたも何とか言え!」

「よせ、今佐州は疲れ果てているのだ。話は後で聞く」

「ですが……!」

「疲れている者に強引に言を求めても碌な事にはならん。式部も相州も一旦下がれ、そなたらの気持ちはよくわかった、ひとまず休め」

「わかりました、それでは!」


 正信の心の動揺を見切った家康は正信を焚き付けた康政をたしなめたが、康政と忠隣は正信に対する不信を隠そうともせずに大股で去って行った。




「弥八郎、すまなかったな」

「ああ………」


 正信のまるで気力の感じられない返事に、ある程度覚悟していたとは言え家康は動揺せずにいられなかった。


「このままでは…………我らは危のうございます……されどどうすれば」

「そうだな……」


 正信はもうどうしたらいいのか訳が分からなくなっていた。


 康政なら戦で西軍を殲滅すればそれでいいではないかと言うだろうが、そんな単純な問題ではないのである。

 まず家康は城攻めがうまくない事を自覚している。佐和山城に攻め込んで防衛戦に持ち込まれたら、正直落とす自信がない。続いて正信が思っているように、秀秋や広家の寝返りが期待しづらい状況になってしまっている。そして何より、長期戦になると損なのは自分たち東軍なのである。

 何せ西軍は大坂城と京の朝廷を抑えており、働きかけ一つで自分たちを官軍にする事も不可能ではないのである。それに対する対策は、正直な所ない。

 それだけでなく、当時の日本の経済はいわゆる西高東低である。鉄砲に使う硝石や鉛を輸入する港は全て西軍の領内だし、鉄砲の製造場所も東軍領内にはない。鉄砲がなければ戦に勝てるはずがない。勝てるはずがないのだが、戦が長引けばいつかなくなるのだ。そうなったら文字通りの仕舞いである。


「治部少輔の首はどうしました」

「石田の使者にくれてやったわ」

「……大方苦痛などまるで感じなかったかのような爽やかな死に顔だったのでしょうな」

「ああそうだ。あんなのを本陣に置いていたら縁起が悪いとか以前に士気が萎えるわ」



 まるで思い残す事など微塵もないと言わんばかりの安らかな表情を浮かべた三成の首を見た途端、家康は三成の首が持つ凄味に思わず呑まれてしまった。

 忠勝や直政さえも穏やかなはずの三成の死に顔から放たれる視線に思わずよろめき、正則や長政に至っては声も上げられないほどだった。


「西軍は勇気付いたでしょうな」

「そして小早川や吉川は我らと同じように治部少輔に呑まれてしまい、いよいよ本格的に足が竦んでしまうだろう」


 この時、三成の首級を生で見た秀秋が西軍についてよかったと松野重元に縋り付いて泣いたと言う噂が流れていた。




(徳川殿に豊臣家に反抗しようと言う意思を持たないでもらいたい、それだけだ)




 忠興に首を取られる直前に放ったと言われている、三成の事実上の遺言が家康の頭の中を駆け巡っていた。

 三成の望みは、本当にそれだけだったのだろう。もし徳川が豊臣家をきちんと守ってくれるのならば自分の命などどうでもいいと本気で思っているのだろう。

 そういう三成の正体を見せつけられた時三成の正体がわかっていたはずの自分さえこうして震え上がってしまったのだ、他の者たちがどういう心境になっているのか、わかりたくはないがわかってしまっていた。

 だからこそ、その三成が野心を捨てないならばどうなるかと言わんばかりに残した西軍将兵たちが、今は恐ろしくてならなかった。




※※※※※※※※※




「ああ、榊原殿か…これはこれは」

「大夫殿……どこか負傷でもなさいましたか」

「いえ何も…………」


 あの福島正則が、虚空を見つめ全くの無気力状態とも言うべき有様で床几に腰掛けている。慰労のつもりで福島軍の陣を訪れてその有様を目の当たりにした康政は、開いた口が塞がらなくなった。


「戦いはまだ終わっていないのでしょう」

「そうですね………」

「治部少輔の眷属はまだまだ残っています、我らは彼奴らの野望を阻止せねば」

「ああそうでしたね」

「その為には、太閤殿下の従兄弟である大夫殿こそが先頭に立ち」

「はいはい…」


 康政がいくら檄を飛ばそうとしても、正則は生返事をするばかりで全然耳に入っていないようだった。

「榊原殿、殿はお疲れなのです。ここはどうかお下がりください」

 馬廻り衆のその言葉に従い康政は正則の陣を後にしたが、その顔には康政本人も気付かぬうちに正則と同じような暗い影が覆い被さっていた。


(あれが福島正則なのか……………?小山で出会った時のあの勇ましく力強い猛将と同一人物とはとても思えぬ……何が彼をあんな魂の抜け殻みたいな存在にしてしまったのだ……?)


 正則にとっての三成と言う人間の大きさが、康政にはまるで理解できなかった。


(とにかく、石田三成が死んだ以上豊臣家の中核を担うのは福島正則の役目のはずだ。それがあの有様では豊臣家の運命は大殿様の掌中にあるも同然だな…まあ、何があったのか後でゆっくり聞くとしよう。まあ、三成は死んだが西軍はまだかなり残っているし、それを討つ役目を江戸中納言様に任せて下さるよう大殿様に頼み込むとするか)


 康政は家康と正信の苦悩、そして正則の混乱と心痛など全く気付かず、ただ秀忠の名誉回復と大戦後の徳川による天下の到来と言う甘い夢を見ていた。




※※※※※※※※※




「……榊原殿はなぜここに?」

「あ、いえ深い理由はなく単に殿の顔を見たかっただけだと…」

「そうか……それならいいんだが」


 主の無気力ぶりに、可児才蔵の眼には心配を通り越した諦観の色が浮かんでいた。


(もう永遠に決着はつかない……いやもう永遠に逆転できなくなってしまった事がそんなにお辛いとは……)

 正則と三成は秀吉の小姓時代からの仲であり、二十年を越える付き合いである。

 二十年も同じ人間と付き合えば、その相手に対しての印象と言うのはすっかり固まってしまう物である。


 小手先の知恵だけはあるが、その知恵は秀吉に対しての美辞麗句を並べる事だけに使われ、本人が実際にできる事と言えば取るに足らないほんの些事を片付けるぐらいである、それが二十年の間に正則の中に出来上がった三成と言う人間の揺るぎなき印象だった。


 しかしその正則が二十年かけて築いてきた三成への肖像が、ほんの数十分で崩されてしまったのである。

 たった一人で十万の軍を混乱に陥らせ、猛将である細川忠興を相討ちという形とは言え討ち取り、自分以外一人の犠牲も出さずに全軍を無事撤退させる。


 これが美辞麗句を並べる事しかできない小才子にできる事だろうか。戦場においての勇猛さでは比べ物にならない位自分の方が勝っているつもりだったのに、その戦場で三成はとんでもないやり方とは言え己が勇敢さを示し、単純な武芸においてもその力を見せつけた。自分にそんな事ができるようにはとても思えて来ない。


 もちろん、日の本を二分する大戦の一方の仕掛け人が兵を集めるだけ集めておいて勝手に一人で死んだと悪口を言う事は可能である。

 しかし、その行為にどれだけの意味があるのだろうか。どれだけ悪口を並べた所で三成が関ヶ原の地で為した所業が汚れたり消え失せたりするわけがないし、三成がこの世に戻ってきて再び福島正則と対決する機会がやって来るわけでもない。

 むしろ傷付くのは正則だけであり、その結果相対的にますます三成の勇名は高まるだけだろう。


「三成…俺はあいつに永遠に勝てないのか…?いや、勝てないのだな……俺には」


 正則にとって、三成が豊臣家をほしいままにしていると言うのは文字通りのお題目であり、本当は三成の頭を刎ねる事、いやぶん殴る事が目標だったのだ。

 しかし、三成はほぼ自害同然のやり方で首を刎ねられ、敗者としての惨めな姿も臆病者と言う証拠も全く見せないまま、勇名だけを残して正則と別の世界の住人になった。

 勝ち逃げされたと憤慨するのは正則の勝手だが、それにしてもただ勝ち逃げのためだけにあんな手段を取る事など自分にはできない、だとするとやっぱり三成に負けている。


 悔しいが、どうあがいても逆転する手段が思い浮かばない。


「俺は………何しに来たんだろうな……」


 正則の眼には、今も三成の首級が焼き付いていた。あの何の未練もなさそうな、それでいて現世にいる人間全てを射すくめる様な覇気を放ち続けた、あの首級が。

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