石田三成の自殺
西軍八万の総大将であるはずの石田三成が先陣を切っただけではなく、たった一人で東軍に向けて突撃している。
この異常どころでは済まない光景に、十万の東軍は凍り付いてしまった。
「投降する気では?」
「馬鹿を言え!総大将がそんな真似できるか!」
「そ、そうだ!薙刀を持って甲冑を着て投降する奴がいるか!?」
「じゃあ何だって言うんだよ!」
ようやく動き出した者たちもこの有様である。言い争いを止めるべき将たちも思考停止状態であるため、この混乱を止める者はいない。
「おい、一人で何をする気だ!?主馬、説明してくれ!」
「申し訳ございませぬ、それがしにも何が何だか…!!あるいは我らに対しどうしても……」
「わしはどうすればいいのだ!!」
松野重元も要領を得ない言葉しか口に出せない状況では秀秋の混乱ぶりは推して知るべしである。
「大殿様の御首が狙いじゃ!?」
「なら一人で来るかよ!」
「お……落ち着け!とりあえず落ち着くんだ!」
徳川軍随一の精鋭・赤備えでもこんな状態である。そしてその赤備えを率いる井伊直政も落ち着くように促すのがやっとでそれ以上の指示を出せる状況ではない。
「そうだ、とりあえず、とりあえず大殿様を守るのだ!とにかく、今すぐ、早く!」
本陣では本多正純が家康を取り囲むように命じていた。
皆がこうやって呆気にとられている間に本陣に切り込み家康と差し違える、考えられない展開ではなかった。
(自軍を置き去りにして一騎駆けなど非常識などと言う次元の話ではないぞ!石田三成と言う優等生がそんな真似を何故……!)
未だその理由はわからない。だが薙刀を持っているからには、それがどこかに向かないはずはない。
家康に向かわせてはならない、僅かに残った理性でとっさに判断したその結論だけが正純の頭と口を動かしていた。
(弥八郎……おぬしならどう考える、治部少の目的は何だ、教えてくれ!)
その家康はここにいない親友に必死に縋り付こうとしていた。どうにもならなくなった時、一番大切な人間に縋るのは道理である。
だがもしその心の中の叫びが忠勝や直政に聞こえていたら、おそらく二人とも嫉妬から来る失望と憤慨に囚われていただろう。なぜ自分たちでなく正信なのかと。
その点では、家康も秀吉の後を追っていると言わざるを得なかった
「何なんだよ、何がやりたいんだよ!!三成、お前何が望みなんだよ!!」
福島正則も何もできず馬上で固まっていた。二十年付き合って来た中で一度たりとも見た事のなかった、そして全く想像し得なかった三成の行動に正則の頭は真っ白になっていた。
「投降ではないんですか!?」
「薙刀を持って鎧を着て投降する奴がいるか!!」
「じゃあ何なんですか!?」
「死ぬ気じゃないのか……!?」
「戦場で死ぬ気じゃない奴がどこにいるって言うんですか……」
才蔵との押し問答にもまるで答えが出る気配がない。実際、十万の軍勢に一人で突っ込むなど自殺と何も変わらない。
「とにかく、迎撃するしかなかろう!早くその旨を伝えて来い!」
「ですが既にどうやら治部少輔は我が陣をすり抜け……」
「馬鹿野郎!何をやってい……」
混乱に陥っている間とは言え一人に五千の手勢を突破された事に正則の怒りは一瞬爆発したが、まもなくその怒りは収まり代わりにさらなる混乱が襲いかかって来た。
「こ……こんな馬鹿な!!あ奴らはここに何しに来たのだ!?」
正則は見てしまった、大一大万大吉の旗を掲げた石田軍が自分たちに背を向けて後退して行く姿を。それだけではない。
宇喜多秀家軍も、小西行長軍も、大谷吉継軍も、わき目も振らず関ヶ原からの撤退を開始し始めたのだ。
「おいおい、どうすればいいのだ!!誰か教えてくれ!!」
「今さら裏切っても戦果など上げようがございません!」
「要するに知らんぷりして一緒に逃げよというのか!?」
「それしかないでしょう、さあお早く!」
小早川秀秋も傘下の小大名たちと共に、慌てて西に向けて退却を開始した。
「あわわわわわ……!!」
「さあ、お早く!!」
その秀秋の混乱は極致に達しており、何が起きているのか、どこにいるのか自分でもわかっていないようだった。傍らから重元に支えられなければ落馬しそうなほどであった。
もっとも秀秋ほどではないにせよ他の将の混乱も相当な物だった。
もしこの時正常な判断力を残している者がいれば、退却する西軍に追撃をかける事ができていただろう。さすればそれにつられて追撃に参加する者が出てくるかもしれない、となれば西軍に少なからぬ打撃を与える事ができていたかもしれない。だがこの時そんな考えに至った武将は東軍の中に一人もいなかった。
「い……いかん!」
混乱に陥った十万の中で、いや後退していない軍勢の中で一番初めに確固たる理性を取り戻したのは吉川広家だった。
広家は所属としては西軍だが、この時秀秋と同様に家康と内通していた。
「兵を動かさないのならば、毛利家の責任は問わない」
という約束を取り付けた広家は毛利家を守るために、動こうとせず後ろの毛利秀元・長束正家・長宗我部盛親率いる二万余りの軍勢を徳川軍に向かわせないようにするつもりだったのである。そしてその上に小早川軍が寝返れば西軍は一発で瓦解するだろうと言う目論見があったのである。
家康がそうだったように、広家も戦乱に飽き飽きしていた。広家としては後世の評判とかは二の次で、乱世の終結と毛利家の安泰だけが望みであったのだ。
(これではまた当分戦は終わらんぞ……!!)
小早川秀秋は既に西軍に追従して後退している。脇坂・小川・赤座・朽木と言った小早川にくっついていた小大名たちもまたしかりであり、この四名だけで五千、小早川軍を加えれば二万は下らない数がいる。
無論、四万近い西軍主力も残っている。これだけでもまだ六万だ。さらに、西軍には今日の決戦に間に合わなかった九州軍団が一万以上残っており、それを加えれば七万だ。
そして石田三成がいなくなったとしてもまだ家康と同じ五大老の宇喜多秀家が残っており、三成の代わりに総大将の座に据えると言う行動も決して無理な話ではない。要するに、西軍を一発で瓦解させることはほぼ不可能になったのだ。
(くそっ……内通者と言う立場が恨めしい……)
もし自分が最初からの東軍ならば、真っ先に駆け出して三成を捕らえに向かうだろう。
そして三成を捕縛し、惨めな姿をさらして三成の評判を地に落とすだろう。何より、そうでもしないと三成が格好のいい死に方をしてしまう危険があった。
そうなれば、西軍は勇気付けられ東軍は三成に呑まれてしまう、あるいは三成を見直してしまう者が出てくるかもしれない。最悪の場合寝返りと言う展開まで至るかもしれない。
しかしここで自分が動けばどうなるか。自らの内通を知らない秀元はおそらく怒り狂い、真っ先に自分を狙ってくるだろう。あるいは、自分たちの裏切りに絶望し小早川らの後を追って逃げ出すかもしれない。前者の場合は毛利だけでなく長宗我部や長束などがどさくさ紛れに混乱中の東軍を狙って損害を与えて来る可能性があるし、後者の場合はさらに二万の軍勢が西軍に加わる事になる。いずれにせよ、戦乱即終結と言う方向には絶対にならない。
(あのええ格好しいが、討ち死になんかするなよ!)
三成はここで格好よく死ぬつもりなのだ、そして西軍を無事に退却させ東軍の心を揺るがすつもりなのだ。それをやらせないようにするにはここで討死などさせず捕らえて、醜態をたっぷりさらさせ続けさせるより他ないのだが広家にそれはできなかった。
広家は、まるで三成に内通を見透かされていたかのような気分に襲われた。
そして、広家の心を踏みにじるかのように立て続けに二つの報告が届いた。
「全軍、撤退せよとのご命令です!」
「石田治部少輔殿に向け一騎の武者が突撃しています!」
「誰だ……」
最初の報告に対しての広家の「誰だ」という問いの答えは返ってこなかった。
そして二つ目の報告に対しての「誰だ」と言う問いの答えが返ってきたとき、広家は目の前が暗くなるのを覚えた。
「バカなっ……!!」
広家は力なく絞り出したそれと共に声を失い、気が付けば重臣たちに強引に馬に乗せられ、退却を開始させられていた。
もちろん、西軍の一員としてのだ。
※※※※※※※※※
「石田、三なりぃぃぃぃ!!」
混乱による喧騒に包まれた関ヶ原によく通る大声が鳴り響いた。
「よくも玉を……玉を!!貴様だけは……貴様だけは絶対に許さん!!」
その大声の主・細川忠興は馬上で薙刀を力強く振り上げ、三成へと突撃した。一方の三成は何も言おうとせず、ただ忠興の方へ薙刀を向けただけであった。
この大戦の前、三成は東軍諸将の妻子を人質に取ろうとしていた。
ところがその際、忠興の妻であるガラシャこと玉は人質となる事を拒み、自殺を禁じられたキリシタンである玉は家臣に胸を突かせてこの世を去ったのである。その報が伝わった時の忠興の怒りようは尋常ではなく、家康すらも戦いたほどである。
玉に対する忠興の愛情は尋常ではない事は誰もが知っており、玉の姿を偶然見かけた庭師を手打ちにしたという話もあるぐらいであるから、その妻を死に追い込んだ三成に対する忠興の怒りが如何ばかりであるかは推して知るべしであろう。
「うおおおおおおおおお!!」
忠興は怒りに任せて薙刀を振り下ろす。一方で三成はそれを受け流し続けるばかりで、まともに攻める気配はない。
「おのれ……!!ここへ何しに来たのだ、答えろ、三成!!」
「徳川殿に豊臣家に反抗しようと言う意思を持たないでもらいたい、それだけだ」
ようやく口を開いた三成の拍子抜けするようなお題目めいた平板極まる回答に、忠興の怒りは完全に沸騰してしまった。
「それが……それが玉と関係があるのか!!ふざけるのも……ふざけるのも大概にせよ!」
三成単騎突撃の方を聞くや、忠興はわき目も振らずおのが将兵を顧みる事無く三成と同じように単騎で三成に向けて突撃した。
自然、細川軍は一時的に行動不能状態に陥る。そして混乱を収拾し行動を開始できるようになった細川軍は、当然の如く単騎突撃を始めてしまった主を追い掛けに行く。
しかし、ただでさえ行動不能状態による時間的損失があった上に忠興の馬の質が良いだけに細川軍はまだ主に追い付けてはおらず、二人の周りにいた他の軍の兵士たちも呆然自失状態であった為、三成と忠興は実質上の一騎討ち状態であった。
と言っても、もう少し経てば細川軍はやってくる事は間違いなかったのだ。
「いざ!」
その異様な空間の中で、三成は忠興の叫びなど耳に入っていないかのように馬を走らせ、一気に距離を詰めた。
「死ねやぁぁぁ!!」
忠興は接近してきた三成の首に、己が全ての力を込めて薙刀を振り下ろした。
そして、その薙刀は正確に三成の首根っこを捉え、三成の首と胴体を切り離した。
しかしそのほんの僅か前、三成が突き出した薙刀は忠興の鎧を突き破り、忠興の心の臓を正確に捉え忠興の胸を貫いていた。
「や…やったぞ!玉…!仇は…取ったぞ…はははははは…」
そこまで言った所で忠興はどうという音を立てながら落馬し、それから二度と呼吸をする事はなかった。
皮肉な事に、妻の仇を取った忠興のその死に顔の安らかさたるや仇である三成の首とそっくりだった。
「殿、殿ーっ!」
そしてすんでの所で間に合わなかった細川軍の将兵たちは主の死を確認すると同時に泣き崩れ出した。
※※※※※※※※※
「……三成は死んだのか?細川…三斎殿と……相討ちで……か…?」
正則はまるで魂の抜け殻のようにつぶやいた。
才蔵がその言葉に肯定の返事をすると、正則はしばらく沈黙した後、急にはっと生気を取りもどしたような表情になって叫び声を上げた。
「三成!…お前勝手に死にやがって!細川三斎と相討ちだなんて事が、そんな大それた事がお前にできたって言うのかよ!!畜生…畜生!!」
そこまで叫ぶや、正則の眼から涙が零れ落ち始めた。
弓矢もまともに取れない小利口小才子だとほんの少し前まで思っていたのに、戦場に立てば自分の方がずっと有能なはずだったのに、その戦場においてさえもひとかど以上の武辺を発揮してしまうのか。
まるで三成が自分の優位全てを奪ってこの世を去ってしまったような感覚に襲われ、無念の涙を抑える事ができなくなってしまったのである。
かくして、西軍総大将石田三成は細川忠興を道連れに関ヶ原に散った。
だが、三成以外の西軍は内通者である小早川・吉川を含めすべて関ヶ原から退却。それを追おうとする気力は東軍の誰にもなく、その結果西軍の犠牲者は三成一人で終わった。
東軍に敵総大将を討ち取ったという勝利の喜びはどこにもなく、ただただ重苦しい空気が漂うばかりであった。
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