福島正則の憤慨

 慶長五年九月十五日、ついにその日が来ようとしていた。




「三成め……今日こそその鼻っ柱をへし折ってやる!!」


 福島正則は鼻息を荒くし、血をたぎらせていた。



「……小牧の時もあそこまでではなかった気がいたします」

「やはりそう思うか平八郎」


 家康は傍らにいた忠勝の言葉に寂しげに頷いた。


「太閤殿下への忠義を刃に変えて挑んで来た、そのはずではなかったのですか」

「それは間違いあるまい。しかし、今はな……」


 あの小牧長久手の戦いの時、間違いなく正則は敵であった。当時から若いながら猛将として名を上げていた正則の武勇に、家康も忠勝も感じ入ったものだった。


 だが今、正則の気迫はあの時を越えていた。秀吉を天下人にせんと戦っていたあの時よりも。




「大夫の過ちを、我らは深く刻み込まねばならぬ」

「ええ」




 まもなく日の本を東西両軍に分けた決戦が行われる。


 と言う事は当然どちらかが敗れる事になる、すなわちこの国の半分近くの武士が壊滅的な打撃を受けると言う事でもある。確かに秀吉は幼い息子を残して病死するなど後世に火種を残したが、それでも三成や正則が手を組んでいればその火種が燃え上がる事もなかった。

 いや三成は必死に消そうとしていたが、正則は火種の存在に気付きすらせず、と言うより三成こそが火種だと思い込んでいた。


「治部少輔の鼻っ柱をへし折れば満足するのだろうな大夫は」

「その後どうしたいのかの答えを持ってないようで……それにしても……」

「何だ、決戦は間近だぞ。早く陣に戻れ」

「今一度申し上げますが、若殿様を待たなくてよろしいのですか」

「……万が一と言う事もあろう」


 秀忠軍は三万五千、それも徳川の主力を集めた精鋭である。確かに真田昌幸に一杯喰わされて行軍は遅延しているが、数日すれば来ることは間違いなく待つ価値のある軍勢である。しかし、家康はそれを待たずに決戦に挑んだ。


(榊原式部と本多佐州でも駄目だったか……やはり安房守にはわし自ら当たり、わし自ら強権を振るうべきだったやも知れぬ)


 家康にもしまったという気持ちがない訳ではないが、今は秀忠軍を予備隊にしようという風に考えを切り替える事ができている。その辺りはさすが歴戦の将だった。

 無論、必勝の策をもってこの戦に当たるつもりだが、戦に絶対はない事をこの歴戦の将は嫌と言うほど思い知っていた。



「佐州をしても安房守にしてやられるとは予想外でございました。……それがしが大殿様ならばその予想外の事態に対してそのような切り替えはできますまい」

「平八郎、そなたは何か危惧があるのか?」

「いや、その……」

「そなたの不安はわかる。しかし後継はあくまで秀忠よ、案ずることはない。もうよかろう、陣へ戻れ」


 忠勝が頭を下げて陣へ戻って行ってからほどなく、正純が天幕に入り込んで来た。


「……上野介(正純)、聞いていたのか」

「ええ」

「言っているであろう、平八郎は痴れ者ではないと」


 忠勝の物言いに含まれていた棘を、家康も正純も感じていた。



「本多正信がいれば真田昌幸如きに惑わされる事はなかったのではないですか、ええ?」



 と言うのが忠勝の本音である事は家康もわかっていた。昌幸への攻撃を決断してしまったのは間違いなく秀忠なのだが、忠勝には正信が秀忠を諌止できなかったのが悪いように見えているらしい。

 元々正信は実質上の長子だからと言う事だろうか秀忠の兄の秀康を後継に推しており、わざと秀忠に失敗させて心証を悪くしてやろうと考えているという邪心を抱いているかもしれない、と言う所まで忠勝の不信は行きついていた。


「別にいくら厭われても、徳川家と天下に差し支える範囲でなくば」

「そうだ、天下に差し支える範囲になってしまったのが今の豊臣家の諍いだ」


 家康の見た所、秀忠は際立った才覚は持っていないものの、政治的平衡感覚と言う点においては優れているように思えた。必ずや豊臣家の二の舞を避けるべく両者の争いを治めてくれるだろう、無論自分が健在の内は二人三脚の態勢を取りながらだ。


「そうですね、我らはこの豊臣家の過ちを繰り返してはなりません。それで話は変わりますが」

「何じゃ」

「どうも西軍の配置が少しおかしいようなのです」

「どうおかしいのだ」

「石田軍だけが前面に出ていてあとは後方に下がっております」

「ほう。治部少輔め、自らが規範を示さねばなるまいとばかり先陣に出てきおったか」

「いや、それが脇を固める軍隊が見当たらず……」



 家康は首をひねった。脇を固める軍隊もなく突撃するなど自滅以外の何でもないではないか。


「まさか小早川と吉川に気付いていないと?」

「いや、盟友の大谷刑部(吉継)が警戒しているのです。少なくとも小早川に関しては気付いているでしょう」



 この時関ヶ原の南方の松尾山には小早川秀秋が一万五千の兵で陣を構えていた。その一万五千は表向きは西軍方であったが、実は既に家康に百万石の保証をもらって気脈を通じており、そして吉川広家もまた東軍本陣の後方に陣を張る毛利秀元軍を足止めすれば毛利家の本領は安堵すると言う条件で既に家康に内応していた。


「ふーむ……小早川に決断を迫るつもりか?」

「確かに、ですが大将を討てば功績第一と言う事もわかっているはず」

「逆効果になりかねんと言いたいのか」

「はい」


 家康は正直訳が分からなくなった。前線に飛び出して一番槍を切った所で、とても勇猛とは言えない三成ではどれだけの効果があるかわからない。


 もっとも、家康は個人としては石田軍をかなりの強兵だと思っている。しかしそれとて徳川軍の精鋭と比べればせいぜい互角ぐらいだと言う所だ、と言った所であり状況を一変させるほどの力は流石にあるまいと言うのが家康の見識だった。


「何かやる気かもしれんが、おそらくはただの士気高揚策だろう。惑わず迎え撃つように命じておいてくれ」


 家康が自分なりの結論を出すと、正純は家康の元を離れ伝令に命じて家康の見識を東軍に伝えさせた。



「治部少輔……大した男よ。我が家臣でない事が残念だ」


 家康は改めて、三成と言う男を惜しまずにいられなくなった。




※※※※※※※※※




 一方で、正則はこの三成の配置を知るやフンと鼻を鳴らした。


「あのええ格好しい、自分はこんなに立派だと言う事を世に示す気か、全く腹立たしい」

「そんな安易な事でしょうか」

「才蔵、あいつはそういう奴だ。俺にはわかる」


 傍らにいた重臣・可児才蔵の問いを正則はあっさり撥ね付けた。


「いつもいつも太閤殿下の前で心にもないおべんちゃらを並べ立て、そしてわずかな才能をひけらかしてこんな地位に立った男だ。どうすれば世の中に受けがいいかぐらい、あやつにとっては容易い判断だ」

「しかし治部少輔は臆病者だと常日頃」

「あの軍勢が先陣を切った所でどうせ質も量もこちらが上。我らに押されて後退を余儀なくされるのは必至、だが後方で震えているのと勇敢に戦いながら力及ばず後退するの、どちらが心証が良いかは言うまでもあるまい。いくらなんでも軍勢が崩れるまでの時間ぐらいは我慢できよう」

「ですが治部少輔は奸智に長けた男だと」

「だから何だ?奸智を発揮する段階などとうの昔に終わっている。それなのにあの男は何も起こさなかった、いや起こしたかもしれないが空振りに終わった。それこそがあの男がただの小利口小才子に過ぎない事の何よりの証明だ」

「はあ…………」


 才蔵の不安を正則は自信満々に打ち消して行く。三成とはこれでも長年の付き合いであり、三成がどういう人間かはもうわかっている。だから何も心配する事などないのだと言わんばかりであった。


「何だ、我らが負けると思っているのか?」

「いえ、ですが……」

「あんな奴の率いる軍勢に我らが負ける物か!それにな、俺の親友である甲斐守(黒田長政)の手により小早川は我らに付く事になっている、案ずるな」

「それは心得ておりますが……」

「わかっているのならば戸惑う事は何もないだろう、行くぞ」

「はい……」


 しかしそれでも曖昧な返答をやめようとしない才蔵の肩を、何も案ずることなどないと言わんばかりに正則は力強く叩いた




※※※※※※※※※




「おいおい、あんな所に布陣するなんて聞いてないぞ」

「さあ……どういう事でしょうか」


 その小早川秀秋も、西軍の思わぬ配置に戸惑いを隠せずにいた。


「自ら先陣を切り士気を高揚させる、それが狙いと考えます」

「主馬……わしは治部少輔殿の脇を守るべきか、突くべきか?」


 秀秋は側近である主馬こと松野重元に縋るように問い掛けた。


「いずれもどうかと思います」

「待て、それではここにじっとしていろという事か!?」

「いいえ。おそらく石田様の軍勢は先陣を切って突撃を敢行すると思われます。ですが」

「そんな無茶な、弾き返されるのが落ちだ」

「そうでしょう。当然石田様の軍勢は後退を余儀なくされます。そここそ、我が小早川にとっては好機となりましょう」

「す……すると石田軍を追い掛けてくる東軍を我が軍で喰い止めよと申すのか!?」

「その通りでございます。我が軍が横腹を突いているその間に西軍の主力部隊が攻撃をかけます。さすれば我が軍と西軍主力の挟み撃ちとなった東軍は壊滅必至でしょう。となれば我ら小早川の功績は莫大な物となります」


 実は、この時秀秋本人の中では東軍に心が傾いていた。

 秀秋が自分なりに冷静になって家康と三成を比べた結果、領国・戦場での経験・家臣団の強さどれをとっても家康が勝っていた。裏切りの汚名を着ると言う不利益はあったものの、それを除けば東軍に加担した方が明らかに勝っていた。

 しかし裏切りの汚名が武士にとって何よりの不名誉である事は秀秋も承知しているし、それゆえに秀秋は迷っていた。


 そこで藁にもすがる気持ちで重元に相談したのだが、その重元は西軍に味方すべしと言わんばかりの案を出して来た。確かにそれに従えば裏切り者の汚名を着る事はないが、しかし今度は精鋭たる徳川軍に勝てる自信がない。


「しかし……治部少輔は本当に先頭を切るのか?あんな五千の軍勢で」

「それがしの愚見によれば」

「愚見によればか、それが愚見でない事を祈るとしよう」


 とは言った物の、秀秋の心の中での迷いは全然消えていなかった。


 この時、林正成や平岡頼勝と言った重臣たちは東軍に付くように勧めており、重元の意見とは真逆である。しかし、重元の言う事にも理があるように思えて来る。


(ああ、どうすればよいのだ……)


 結局秀秋の心が定まる前に、太陽が昇り始めた。秀秋は太陽を呪い、永楽銭の一枚も手元にない事を恨んだ。




※※※※※※※※※




「いよいよだ!我らが一番槍となって、豊臣家簒奪を図る石田三成とその眷属共をこの世から滅する!!」


 そして卯の下刻(午前七時ごろ)、十万の東軍の先陣を任された福島正則は気炎を上げていた。


(甲冑など纏いおってからに……見るだけで不慣れなのが明白だぞ。そんなに勇猛に戦ったという事を示したいのか?)


 ふと前を見れば、宿敵石田三成が自分の軍の先鋒に不慣れな甲冑と薙刀を持って馬上の人になっていた。


(やはり治部少輔は本気なのだ。だがわしには徳川と戦って勝つ自信がない。かと言って裏切り者にもなりたくない。どうすればいいのだ……まだ始まるまでは半刻(一時間)はあるだろう。何とかその間に……)


 三成の姿を目の当たりにした松尾山の小早川秀秋も戸惑いを隠そうとしなかった。ただの士気高揚策か、それとも……いくら考えても答えが出て来ないのだ。おそらく開戦は辰の刻、それまでの後半刻の間に答えを探そうと秀秋は必死に頭を動かしていた。







 その時であった。関ヶ原に集った西軍八万の中から、僅かなざわめきが起こった。すわ西軍の先制攻撃かと身構えた福島軍は、次の瞬間動かなくなった。


「何をしている!迎え撃て!」

「いえ……それが……」

「使者ではないのだろう!?なら…………」


 その「一人」を見た瞬間、福島正則も兵たちと同じように動かなく、いや動けなくなった。




「お、おい……!?これはどういうことだ!?」

「な、なんと大胆な……何を考えておる!?」


 小早川秀秋も徳川家康もその一人から目を離す事ができなくなった、いや十万の東軍全ての視線がその一人に集めさせられた。







「み、三成……!何をするつもりだ!?」

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