徳川秀忠の焦燥

「おのれ、安房守めっ……!」


 徳川家康の三男、徳川の後継者である徳川秀忠は信濃の山中で呻いていた。


「徳川家をまたも愚弄するかっ!」


 安房守こと真田昌幸に対しての怒りを秀忠は隠そうとしない。






※※※※※※※※※




「降ると言う事で我が意志は固まっているが、いろいろ準備がある故一日お待ちいただきたい」


 上田城まで軍を進めた秀忠に対し、昌幸はまずこんな事を言って来た。


 秀忠軍は三万五千、対する昌幸軍は三千。いくら要害の上田城があったとしてもいかんともしがたい数の差だと判断した秀忠は、その申し出を受け入れた。


 だが翌日、昌幸はまるで降伏する様子がない。


「実は降伏に反対した重臣が一人おりましてな、その処置に手間取ってしまいまして。ゆえに人心を落ち着けるためどうかもう一日……」


 どういう事かと派遣された使者に、昌幸はこう言い返した。




 会津の上杉家討伐と言う名目で諸大名を集めた家康が、小山で打倒三成を宣言した際に応じなかった豊臣系大名が二人いた。美濃の田丸忠昌と、この真田昌幸である。福島正則と言う秀吉の従兄弟で豊臣系大名の中の兄貴分的存在が声高に打倒三成を宣言したにも関わらずであるから、昌幸の立場が相当な反家康である事は間違いなかった。


 それが今ここで家康に従うとなれば、家中がはいわかりました家康様に従いますとなるはずはない。反発する人間が出るのも当然だな、そう考えた秀忠はもう一日待つことを決めた。




 が、翌日になっても梨の礫な状況に何の変化もない。


「まだ揉めているならば手伝おうと江戸中納言様は申しておりますが」


 重臣一人にそんなに手間がかかる物なのだろうか。ならば我が手によって早く解決して恩を売っておいてやろうと考えた秀忠は使者にそういう言葉を持たせて上田城へ送り込んだ。


「実は殿の発熱がひどく……」

 しかし今度は昌幸が出て来る事すらなく、代わりに配下の男がこんな台詞を言い放って来た。

 ならば会わせていただきたいと使者が言っても、男は感染すると悪いのでの一点張りで使者を通そうとしない。


「昨日まではずいぶん元気だったのでは」

「いえ、何せ我が主君も五十四ですからな……」

「ならば左衛門佐(真田信繁)殿を」

「信繁様は看病に手一杯で」

「いくら自分の父であるとは言え、真田の後継者自らが?」

「ご存じの通り昨日まではお元気だったのが一日で随分と悪化しましてな、それで信繁様も気が気でないご様子で」



 なんとか昌幸を引き出そうとしても、真田の重臣は使者の問いをのらりくらりとはぐらかしてばかりでまともに答えようとしない。秀忠に似て温厚だった使者も流石に怒りを覚えて来た。

 信濃は確かに関東平野に比べ寒かったが、信濃で五十年以上過ごしてきた人間が今さら一日で動けなくなるほどの熱を出すはずがないのだ。


「わかりました、その旨秀忠様にお伝えいたします!」


 結局使者はそう捨て台詞を吐いて城を立ち去る事しかできなかった。

 しかし真田の重臣が返事を引き延ばし続けたため、使者が城を立ち去った時には釣瓶落としの秋の日が落ちかけていた。要するに、城を攻めるにはもう遅すぎたのだ。



「小大名の分際で、この徳川を何だと思っている!」


 延々三日、三万五千もの大軍が何もしないまま無駄な時を過ごす破目になった。これだけでも相当な損害である。


「全軍に伝えよ!翌朝より上田城に総攻撃をかけ、安房守の首級を取る!」

「お待ちください」



 怒りも露わに叫んだ秀忠は反射的に待てと言う声のする方を向き、そして目を剥いた。


「榊原……!」

「それこそ安房守の狙いではございませんでしょうか」

「すると何か?待ってましたとばかりに仕掛けられていたワナに我々が落ちるとでも言うのか?」

「はい」

「ではどうせよと言うのだ!?」

「放っておくべきではないでしょうか」


 激昂する秀忠と冷静な榊原康政の会話に割り込んだのは、康政と並ぶ秀忠軍の中心人物である本多正信だった。


「軟弱な!式部(康政)、お前は佐州(正信)の事が気に入らんのであろう!?」

「正直に申し上げますれば」

「だったら佐州の言う事に耳など貸さんだろうな!」

「ですが、此度は佐州の意見に賛成しております」

「なっ……」


 正信と康政の意見が一致した事に、秀忠は一瞬声を失った。


「所詮真田軍は少数。頼りとする上田城があるならばともかく、野戦では徳川軍の、この兵数に敵うはずもございません。三千ぐらいの押さえの兵を残しておけばいくら安房守とて何もできますまい」

「安房守に虚仮にされたまま父上に会えと申すか!?」

「左様。治部少輔さえ討てば安房守など文字通りの枝葉の存在です」

「佐州!そなたの意見も一緒か!?」

「それがしが延べたい事はほとんど式部殿が述べてくれました。それがしから言いたい事があるとすれば、美濃にて治部少輔を討った者こそ天下第一の功績者たる事は明白な事実であると言う事だけでございます」


 正信の言葉に、普段正信を毛嫌いしている康政も無言で頷いた。


「腰抜け共めが……!よかろう、黙って見ておれ!わし一人で上田城を落としてやる!!」


 家康の期待は裏切られた。


「ですが」

「うるさい!今我らの元に相州がいる事を忘れてはいまいだろうな!あの時の屈辱を誰よりも晴らしたい相州の心根を踏みにじる気か貴様らは!!」


 相州こと大久保忠隣の父、大久保忠世こそ十五年前の上田城攻略戦の総大将である。その十五年前、忠世率いる七千の軍勢は真田昌幸軍千二百の前に惨敗を喫した。家康の本隊には井伊直政や本多忠勝こそいたが、それ以外の徳川の主力の大半は秀忠にくっついており、大久保忠隣もまたしかりであった。


「されど、相州とて一番重要なる戦場は美濃である事は承知して」

「これは決定だ!誰にも文句は言わせぬ!」


 康政と正信の諫言も空しく、秀忠はついに上田城攻撃を決断してしまった。







「真田安房守め、もはや許さんからな!」


 翌日、秀忠は沸騰した頭を抱えながら上田城を睨み付けた。


「小賢しい伏兵など全部叩き潰してやるからな!徹底的に伏兵を洗い出せ!」




 それでも本人としては冷静なつもりだった。真田が勝つとすればこちらが上田城を攻めあぐんでいる所に伏兵を出現させ、こちらの隊を崩壊させるしかないと考えた秀忠は、その最終手段すら潰してやろうと考えたのである。


「いずこにも気配はございません」


 結局伏兵ありの報告はなかったが、その事実に秀忠は表情を緩めた。もう真田に打つ手なしと判断したからである。




「全軍攻撃開始!!」


 秀忠はどす黒い笑みを浮かべながら采配を振った。


(真田め……さんざん徳川を弄んでくれた報いを受けるがいい!!)


 真田昌幸の首が届けられ、上田城が燃え上がる姿を想像するだけで、秀忠は幸福感に浸る事ができていた。







 しかし、そんな甘い夢が吹っ飛ぶのに時間はさほど要らなかった。


「奇襲だー!!」

「なぜだ!?」


 本陣にそんな声が飛んで来るや、秀忠は叫びながら立ち上がった。


「バカな、しらみつぶしに探し出したはずではないか!なぜ見つからなかった!?誰だ見落とした奴は!あるいは流言飛語か!?」


 秀忠の憤りは部下たちに向けられた、あれだけの人数を動員して探したのにこうなるとは、誰かが見落としたに違いないと。あるいは、真田軍が撒いた流言飛語に踊らされているのではないかと。





 だが真相はそのどちらでもない。確かにいくら探しても真田の伏兵はいなかったし、しかし現に真田の伏兵が徳川軍を攻撃している。



 種明かしをすれば実に単純な話で、昌幸は城から外へ出る抜け道を作っており、その抜け道を通らせて奇襲を仕掛けさせただけなのだ。

 もちろん、その抜け道とて徳川に見つからないという保証はなかった。しかし、焦っていた秀忠には伏兵を探すと言う発想はあっても抜け穴を探すという発想はなく、また指令を受けた将兵たちも兵を探す事ばかりに集中していて抜け穴を探すという発想に至っていなかった。

 結果、見事に挟み撃ちにされた徳川軍は上田城攻撃すらままならず、惨めな全軍撤退となってしまった。







「おわかりいただけたでしょう、真田にしてみればこうして我らを足止めするだけで勝ちなのです」

「強攻を続けたとしてもおそらく今日明日で倒すのは無理と考えます」


 秀忠は屈辱に打ち震えながら正信と康政の諫言を聞いていた。


「しかし追撃が……」

「此度の敗北は上田城に因る所が大きゅうございます。すなわち上田城さえなければ安房守とて我らには勝てません。むしろ追撃をかけてくれればそれこそ絶好の機会」

「だが相州が……」

「それがしは真田を恨みには思っておりませぬ。戦場で遭遇した相手を倒す事は武士にとって食事をするような事」


 未だ未練たらたらであった秀忠は忠隣を言い訳にして真田との戦を継続しようとしたが、その肝心の忠隣に否定されてはもうどうにもならなかった。


「……そうか、お前がそういうのならば仕方がない、治部少輔を討ちに行くぞ」


 それでも秀忠は未練を隠そうともせず、忠隣のせいだと言わんばかりの悔し紛れの撤退宣言を下した。

 結果、秀忠は数日もの時間を無駄に費やしたあげく何も手に入れられないどころか多くの将兵を失うと言うひどい失態を犯した。




 ※※※※※※※※※




「………安房守め、わしの一枚上を行きおったか」


 正信から美濃への到着が遅延すると言う文を受け取った家康は溜め息を吐いた。


「そうは申し上げましても、あと数日もあれば若様たちが来られる事も間違いのない話」

「それは間違っておらぬ。だが小平太と佐州(正信)の意見が合致している時点で思い留まらねばならなかった。それができなかった秀忠はいくら相手が安房守であると言う事を加味してもとんだ痴れ者よ」

「だから本戦には参加させないと」

「まあな、万が一と言う事もあるしな」


 家康は秀忠到着を待たず西軍との決着に臨む事を決めた。西軍の態勢が整う前に叩きたいと言う思案があったのに加え、敗れた時の予備隊として秀忠軍を残しておきたいと言う思案もあった。この点、実に家康はしたたかだった。

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