幻のレシピを求めて
我ながらくだらなくてバカバカしい、実に突拍子もない考えを閃いたものだ。
だが、試す価値はある。
僕は厨房にある冷蔵庫の食材を一通り調べると、央子さんに電話を掛けた。
「え、レージくん本気?本気で言ってる?それともウケ狙い? 」
「僕は大真面目ですよ。それより、秦汪軒の店主と話すことはできますか?
レシピを聞きたいんです 」
「レージくん…パニクっておかしくなってるわけじゃないのね…? 」
「央子さん、僕だってバカバカしい発想だとは自覚してますよ。ですが、まったく根拠もなく言ってるわけじゃないんです。秦汪軒に起きている異常は中にいる人間、つまり僕と塩津さんが閉じ込められていること。体感時間と実際の経過時間に数日分の乖離があること。二階への階段の消失、これは間取りの変化と言えますね。そして、
絶品だったはずの麻婆豆腐が“とてつもなくまずくなっている”こと 」
「だからって…おいしい麻婆豆腐を作れば異常性を消失させることができるなんてそんな…なんていうか… 」
「く、くふふふふ、お前、そんなアホ臭い、間抜けな話あるわけねぇだろ 」
静観していた塩津もついに堪え切れなかったようだ。
カウンターに肘をついて笑い始めた。
「お言葉ですがね塩津さん。他にも根拠はありますよ。この店、寒いですよね。空調効いてます? 」
「あ?あぁ、さみぃよ。空調どころか電気止まってんだろ 」
そう、僕が時間経過の異常に気付いた頃合いから、徐々に店内は薄暗くなり、ついには店内の照明が全て切れてしまっていた。業務用エアコンの稼働音も随分前から聞こえてこず、店内は冷え切っていた。
「なのに、冷蔵庫だけは生きてるんです。電源が落ちてない。それから… 」
僕はガスコンロのつまみを捻った。ボッと火がついた。
「コンロも生きてます。調理に関するものに関しては電気もガスも通ってる。使える状態なんです 」
「なら食材の尽きねぇ限りは、死なねぇな 」
「まぁそうなりますね。焦る必要はなくなったかもしれません。ただ僕が言いたいのは 」
「うめぇ麻婆豆腐を作らせる為に冷蔵庫もコンロも生きてるってんだろ? 」
「そうです。そういうことです 」
先ほどまで大笑いしていた塩津の表情が変わった。
僕を軽蔑する表情でも、呆れて馬鹿にしている表情でもない。
真剣に、何事かを思案している様子だった。
「おい、央子。俺だ 」
「何よ塩津、あたしはレージくんと話したいの。何しゃしゃり出てきてんの?妬いてんの?ジェラってんの?発情期?あたしの声が聞きたくてたまらないの?帰ってきたら抱いたげよか? 」
「うるせぇ。てめぇはふざけてねぇと死ぬのか 」
「かもねー、あたしが死んだら悲しいでしょー? 」
「てめぇより俺達がくたばんのが先だ。このままじゃな 」
塩津は僕と目を合わせると、壁に向けて顎をしゃくった。
僕は塩津に促されるまま、壁を見た。
なんだ?壁のポスターやサイン色紙がやけにくっきりと見える。
これは…
「し、塩津さん…!壁が迫ってきてる!店が狭くなってる!」
「そういうことだ。央子、四方の壁が狭まってる。こんなのはこれまでになかったが…要するにこのままじゃ、俺もあのバカもペシャンコにされちまう。のんびり解決してる余裕はなくなった 」
「興味深い異常性ね。裏世界への変換事象に制限時間がつくなんてね。入口が閉じようとしてるってこと?自我でもあるのかしら…」
央子は電話越しにぶつぶつと考え事を始めた様子だ。
「お、央子さん!分析は後にしてください!僕は圧死なんてごめんですよ!
そんなことより早く店主を電話に出してください! 」
「あー…ごめんごめん、でもレージくん、異常事象に関しての一般人との会話は許可できないわ。何度も言ってるけど 」
「“秘匿”の義務でしょ!?それは僕が後でどうにかできます!だから早く! 」
「うーん、まぁレージくんの能力はそのためのものだしねぇ。ほんとはマッシーに相談してからにしたいけど…このまま二人に死なれたら特事課解体になりかねないもんね。…いいわ、ちょっと待って 」
よろしくお願いします!と央子さんに言おうとした瞬間、体が宙に浮いた。
浮遊感、そして一瞬ののち、僕は背中から食器棚に突っ込んだ。
ガラスが割れ、食器の山が雪崩のように僕の頭に振り落ちてきた。
突然のことに痛みすら感じず、僕は茫然と床にへたりこんだ。
カウンター越しに塩津が投球の構えを取っているのが見えた。
どうやら塩津が僕を厨房へぶん投げたらしい。
「ぼさっとしてんなクズが。圧し潰されんぞ 」
立ち上がり、店内を見渡すと…いや、もはや見渡すほどのスペースもなかった。
今や四方の壁が厨房の際まで迫ってきている。
塩津もカウンターを飛び越えて厨房に降り立った。
手にはスマホが握られている。
「ほらよ、店主だ 」
「あ、ありがとうございます 」
僕はスマホをカウンターの上に置き、スピーカーボタンをタッチした。
が、反応がない。今しがたの衝撃でスピーカー機能が壊れたのか…
僕はスマホを耳に当てた。
「もしもし、あ、私、村田と申し 」
何かひどく萎縮しているような…いや、怯えた男の声が聞こえた。
「泰王軒の店主さんですね!教えていただきたいことが 」
「え、あ、はい、あの…私は大丈夫なんでしょうか… 」
「は? 」
「いえ、あの、警察に手紙が…私への殺害予告が届いたと…
保護していただいた久良岐さんに伺いまして…」
央子さん…あの人が嘘を吹き込んだのか…
完全に怯え切ってるじゃないか…
「そ、そうですね。久良岐と共に入れば大丈夫です。あなたの安全は我々が保証致します。ご安心ください。ただ、あなたを守るにあたって、いくつか質問をさせてください 」
「は、はい 」
「あなたの麻婆豆腐は国宝級に美味しい。そうですね? 」
「はい、それはもう表彰もされましたしテレビにも…え? 」
「しかし最近では著しく味が落ちていますね?あえて歯に衣着せずに言いますと
“クソほどまずい”麻婆豆腐をお客様にお出ししているのではないですか? 」
「え、いや、あんた、何言ってんだ… 」
「単刀直入に言います。麻婆豆腐のレシピを教えてください 」
電話の向こうが静まり返った。
僕の隣で塩津が苛立っているのがわかる。
僕は冷蔵庫から豆腐を出し、塩津に手渡した。
塩津は一瞬目を丸くしたが、理解したようで、溜息をつくと包丁とまな板を取り出しにかかった。
「店主、いや、村田さん。あなたの困惑はわかります。ふざけているのかとお思いですね?ただ、今は僕を信じてください。あなたを守る為です。あなたのマズイ麻婆豆腐が一人の客の怒りを買ったのです。一週間ほど前、来店した強面の大男を覚えていますか 」
「あ、あぁ、あぁ!いた!頬に傷のおる恐ろしい顔の!!」
「そうです。奴です。そいつがあなたの殺害を企てている張本人。野蛮な人でなし。暴力の権化。血に飢えた獣です 」
スピーカーが壊れていてよかったと思った。
塩津は何も知らずに豆腐を切っている。
「わかっていただけたようですね。では村田さん、レシピを教えてください。
まずい麻婆豆腐ではなく、本来のあなたの素晴らしい麻婆豆腐のレシピです 」
「いや、それが…わからんのです…この一週間、まるで記憶に穴が開いたように
これまで何千、何万と作ってきたはずの麻婆豆腐のレシピが… 」
「おい 」
塩津が唐突に僕の頭をつかんだ。
「なんですか。邪魔しないでください 」
塩津は左手に持ったボールを見せてきた。
中にはサイコロ状に切られた豆腐が入っている。見事な切り口だ。
そこそこに料理ができる。というのは本当のようだ。
「じゃぁ次はとりあえずネギを… 」
「てめぇこら、俺はお前とお料理教室やってんじゃねえんだぞ 」
「仕方ないでしょ。僕は右手がスマホでふさがってるんですし、通話しながらでも調理を進めていかなきゃ間に合わないでしょ 」
「いや、そう焦ることもない。周り見てみろ 」
何度目になるか、僕は今一度店内、否、厨房を見回した。
四方の壁が狭まった結果、ホールであった場所は壁の向こうとなり、
最早厨房しか存在しない。だが…
「壁が止まってる? 」
「そうだ。俺が豆腐を切り始めてからだな。おそらく調理を始めたことで壁の進行が止まったんだろうな 」
調理の開始がトリガーとなり異常事象の進行が止まった。
どうやら僕の仮定はあながち見当違いでもなかったようだ。
であれば、答えはもう出た。
僕はスマホを耳に当て直した。
「村田さん、レシピの記憶がないと言いましたね?本当にそうですか?あなたの心の奥底に隠れているだけではないのですか? 」
僕はこれから能力を使う。能力で村田さんの記憶を引っ張り出す。
可能だ。
しかし、異常事象によって失われた村田さんの記憶を、異常事象の真っただ中で
掘り起こすことができるのかは定かでない。
塩津に対しても僕の力は効力を発揮しなかった。
果たして僕の能力は異常事象の中においても他者の脳内に干渉できるのか。
確証はない…が、やるしか道はない。
「あなたは忘れていない。あなたが心を込めて作った料理はあなたの心そのもののはずです。大事な記憶を、心を、忘れるわけがない。いいですか村田さん、今から僕の言うことをしっかりと聞いてください。 」
「は、はい…」
頼むぞ…麻婆豆腐…絶品の…最高の麻婆豆腐のレシピ…火力…調理方…
そのすべてを余すことなく…
「思い出せ!」
「いやはや…初任務を独力で乗り切るとは大したもんだよ。私の目に狂いはなかったねぇ 」
万代課長が、椅子に力なく座る僕の肩をポンと叩いた。
僕は、軽すぎる労いの言葉に精一杯の愛想笑いで返した。
なんといっても死にかけたのだ。
満身創痍、主に精神面が疲れ果てていた。
「課長、お言葉ですが…自分の助力がなければ浴野も存命しておりません。 」
塩津がすっと背筋を伸ばし、きりっとした面持ちで課長にそう言った。
口悪く粗野な野蛮人だが、課長には警察官然とした態度で接するんだなこいつは…
上下関係は重んじるってやつか?
「助力ってあんた。麻婆豆腐作っただけでしょーに。レージくんは自分の力を駆使して難所を切り抜けたのよー。ねー!レージくーん! 」
央子さんがココアの入ったマグカップを僕に手渡してくれた。
冷え切った体に熱く、甘く染みた。
央子さんはまるで僕が自分一人の力でコトを解決したかのように言ってくれたが、
央子さんと塩津の助けがなければ僕は死んでいた。間違いなく。
「さ、皆、今日もお疲れ様。一息ついたら帰るんだよ。事案報告書は明日まとめてくれればからね 」
「は、かしこまりました。課長、自分は今夜外食の予定ですが、課長もご一緒にいかがでしょうか 」
「塩津巡査…いつも言ってるけどね、私は晩御飯食べないんだよ。誘ってくれるのは嬉しいんだけどね。そうだ、今日の労いも兼ねて浴野くんにご馳走してあげなよ 」
僕は即座に机に突っ伏して狸寝入りを開始した。
が…寝ててもわかる圧力を頭上に感じる。
「おい、詐欺師。飯だ。起きろ 」
勘弁してくれ。
「どこ行くんすか…僕は疲れすぎて食欲ないですよ 」
「馬鹿が。そんなだから蚊トンボみてぇにヒョロヒョロなんだてめぇは。課長命令で奢ってやるってんだ。つべこべ言ってねぇでついてこい 」
「…わかりましたよ…で、何奢ってくれるんすか 」
「俺の行きつけだ。麻婆豆腐が旨い店でな。そんじょそこらの麻婆豆腐と一緒にすんじゃねぇぞ。あれこそが至高、究極、黄金の麻婆…」
勘弁してくれ。
僕は意識が遠のくのを感じた。
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