裏世界への入り口

「あの脳筋バカは事前情報の一つも教えてないのね、あんなのを教育係に指名するなんてマッシーもテキトーだよねぇー…」

央子さんは僕を憐れむようにそう言った。

マッシー…?万代課長のことか?

「て、ごめん、ごめん。秦汪軒のことだよね。結論から言うとね、今レージくんがいるのは、裏世界だよ 」

「う、裏世界? 」

「異世界、異次元空間、パラレルワールドと呼び変えてもいいね 」

異世界、異次元、パラレルワールド…

予想だにしない単語の数々に、すぐには理解が追い付かなかった。

「央子さん、それは…僕をからかって仰ってるわけではないんですよね 」

電話越しにふふふっと央子さんは笑った。

「あたしがからかうのは塩津のバカだけよ。可愛いレージくんをからかうわけないじゃない 」

いや、これは充分からかわれていると言えるのでないか?

「いい?レージくん。あらためて導入研修よ。あたしたち特事課はおかしな事件…超常現象や怪異の類を相手にしているの。幽霊、危険な化け物、異次元空間への入り口、そんなものの存在は私たちにとって当たり前なのよ。その前提をもう一度理解して 」

央子さんの口調は先ほどまでとは打って変わって真剣なものだった。

「芯から理解してもらうためにはっきり言うわ。レージくん、あなただって異常な存在なのよ。超常的な力を有している。だからこそ、詐欺罪で収監されかけたあなたを特事課で引き取ることにしたのよ 」

央子さんの言葉には説得力があった。

確かに僕は不可解な能力を持っている。これまで、その能力を幾度となく使ってきた。故に、そんな僕が裏世界だの異次元だのを非科学的だとして認めないことは、

むしろ非現実的な思考ではないのか?

「央子さん、理解しました。しかし僕の能力も…この場では何の役にも立ちそうにありません。とはいえ、ここで央子さんや塩津さんに任せてしまえば…僕は本当の役立たず…そうなればどうなりますか? 」

しばし沈黙が続いた。

「あなたを本物の役立たずだとあたしたちが判断すれば…そうね。特事課の機密を守る為、処分することになるわ 」

「俺たちの理念は特殊事案対象の排除・封印・秘匿だ 」

塩津さんがぼそりと呟いた。

「つまり、口封じに殺されるんですか僕は… 」

「あぁ、だが安心しろ。お前みたいな蚊トンボの首を折るのに1秒もかからん。苦しまずに逝かせてやる 」

あぁ僕は。僕はどこで何を間違って生か死の極限にいるんだ?

あの時捕まるようなヘマをしなければ…特事課ではなく素直に懲役刑を受けていれば…。いや、すべてはもう遅い。たらればなど無意味だ。

もし特事課行きを断って刑務所に収監されていたとして、どうせ誰かに刺されて死ぬのがオチだ。僕が嵌めてきた連中、悪党どものうちの誰かに。

ゴホンッ、電話越しに央子さんの咳払いが聞こえた。

「さ、覚悟はきまったかしら?レージくん 」

「えぇ、あれこれ考えても仕方ない。僕が今集中すべきはこの瞬間。この場を切り抜けること。それだけです 」

「おっけー、ナイスよレージくん。じゃぁね、この異空間について特事課の知り得る情報を教えるわ。この秦汪店、ここ事態はただの中華料理屋よ。何の変哲もないわ。だけどね、年に1度、特定の時刻にだけ、この地区の半径5キロ圏内のどこかが異空間に変換されるの。今年はこの中華料理屋が異空間に変換されたってわけね。場所の予測は一週間前にはできてた。だけど、さっきも言ったけど、任務の前提には“秘匿”が含まれているから大々的な人払いなんて目立ったことはできない。唯一店主だけは異空間への変換直前に保護させてもらったけどね 」

店主がいつの間にか帰宅していた…と思っていたが、央子さんが保護していたのか。

いや、それにしてもいつの間に、という話だが…。

「背景説明は異常よ。で、どうやってこの異空間を脱出、及び封印するかについてだけど…実は決まった法則がないの。あるのかもしれないけれどあたし達はまだそれを

特定できていない。過去には化け物を倒したり、秘密の扉を見つけたり、神棚を破壊したり…そうやって脱出、封印することができたけど、どれも統一性はないわ

化け物、秘密の扉、神棚…

僕はぐるりと店内を見回した。

先ほど調べまわったときから変化はない。

「ここには…化け物もいませんし、扉も神棚もありませんね 」

「そのようね。だからこそ考えて。何かあるはずよ。ふぁいとっレージくんっ! 」

央子さんとの通話が終わると僕は塩津さんに目を向けた。

「なんだ 」

「もしいきなり化け物が出てきたら塩津さんがぶっ飛ばしてくれますか? 」

ふんっと塩津は鼻を鳴らした。

「そいつが面白そうな化け物ならな 」


さて、僕はカウンターに飛び乗って店内を今一度見回した。

何か見落としているものはないか?怪しいものはないか?

黄ばんだ壁にはポスター、有名人のサイン色紙、火元責任者の札、メニュー表、テレビでよく見る芸人と店主が店の前で肩を組んでいる写真、何かの表彰状…

なんだ、この店、結構繁盛してたのか?

雑誌に紹介された切り抜きもはってあるな。

“しびれる辛さと奥ゆかしい旨味、秦汪軒の麻婆豆腐は中華の常識を変えた!”

この煽り文句…

「塩津さん 」

「何度もなんだ。必要なことは央子から聞いただろ 」

「いや、塩津さん一週間前にこの店に来たって言いましたよね 」

「あぁ、ちょうど異空間の変換地点がこの店だって特定できたから偵察にな。それがどうした 」

「その時に食いました?“麻婆豆腐” 」

「あぁ、食った。まずかったなあれは 」

塩津さんは麻婆豆腐を看板メニューだと言った。雑誌の紹介記事の煽り文句も麻婆豆腐をべた褒めしている。

だが、塩津さんは“まずかった”と断言している。

「塩津さんて味音痴じゃないですよね 」

「あ?喧嘩売ってんのか?俺はこう見えてグルメだ。自分でもそこそこの料理を作れるくらいには料理に詳しい 」

それは意外だ。飯なんて腹にはいりゃ何でも一緒だ。とか言い出しそうな見た目してる癖に。いや、そんなことはさておき、些細なことだがこのズレはなんだ?

麻婆豆腐が旨かったころから時が経ち、店主の腕が落ちたのか?

“まずい”と断言されるまでのレベルに?ありえなくはない。

そもそも僕と塩津がこの店を訪れた時点では店は閑散としていた。

しかしそれもこの“異空間への変換”が生じる前触れ、異常の一つだったと仮定すればどうだ?

一週間前、異空間への変換箇所の特定、まずい麻婆豆腐。

「異空間への変換箇所の特定ってどうやってるんですか? 」

「細かい仕組みは俺も知らねぇ。央子が磁場がどうのって言ってたがな 」

塩津が目を細めて何か思い出そうとしている。

「異空間への変換の前触れに何か変わったことが起きることってありますか?

それこそ事象発生の一週間前頃とか… 」

「なくはないな、微弱な地震が起きたり、猫やらカラスが増えたり…神棚の戸が勝手に開いたり…とかか?どれも気にするほどのことじゃねぇな 」

些細な、気にするほどのことじゃないこと…わかってきた気がする。

僕は厨房へ飛び込んだ。

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