第9話 ロデオと追っ手。

夕方、僕が目を覚ますとゲストハウスには人気がなかった。僕が寝室を出てキッチンに行くと、そこに二郎からの几帳面な手書きの伝言メモがあった。

「翔君、皆で明日のロデオの準備に会場まで視察に行っています。午後四時になったら、国立公園にアーチを見に行くので迎えに来ます。アミトラも自分の部屋で昼寝しているので、起きたら二人でここにいて下さい。昨日の事もあるので、家から出ないようにとランス叔父さんからの指令です。公園の後、みんなで夕飯を食べに行く予定です。じゃあね。慶太より。午後一時過ぎ。」

僕は時計がないか辺りを見回した。その時もう一つの寝室からアミトラが起きてきた。三つ編みの髪が寝癖でウーパールーパーのようにボサボサになっている。

「おはよう、僕も今起きた所。よく眠れた?」

僕はどうせ通じないなら、日本語で喋っていても同じだと思った。アミトラは大あくびをしながら頷いた。

「髪の毛、ぐちゃぐちゃになってるよ。」

僕は彼女の三つ編みを指差して、両手を頭の上でぐるぐるして、ぐちゃぐちゃ感を表して見たけれど、彼女はキョトンと首を傾げて僕を見つめるばかり。僕はアミトラの手を取ると玄関脇にある鏡の前に引っ張って行った。後頭部の両側から髪の毛が大量にボサボサと出てしまっている。鏡の中を見るとアミトラは笑って頷き、三つ編みを解くと頭をバサバサと振った。すると、はちみつを入れたココナッツミルクのような甘い香りがした。少しウェーブのかかったボリュームのある長い黒髪は腰まで伸びていて、アミトラの細い肩と腕をふわりと覆い隠している。おとぎ話から出てきたお姫様みたいだ、と思ってじっと見ているとアミトラがパッと僕の顔を見た。またジロジロ見ているのがバレてちょっと恥ずかしくなった僕は、頬が熱くなるのを感じながらキッチンに退散した。それからすぐに、皆戻ってきたので、僕とアミトラもトラックに乗り込み近くの国立公園に出かけた。

街からさらに山を登ったところに公園はあった。車を降りてしばらくハイキングコースを歩くと、僕はハッと息を飲んだ。僕らは真っ赤な大地がいくつもの筋となって連なり、突出した赤い岩の断片がここそこにそそり立ち一つとなってどこまでも広がっている様子を、上から見下ろしていた。風がゴオッと低い唸り声をあげるようにして岩を鳴らす。巨大な砂っぽいザラザラした表面の赤い岩の上に立ち、目下に広がる壮大な大地を見つめた時、何か偉大な力に吸い込まれてしまいそうだ、と思って二、三歩後ずさりした。切り立った赤い岩に囲まれているだけではなくて、巨大な岩の一枚板の真ん中に大きな穴が空いてできた、ビルの三階分くらいはありそうな背の高いアーチがいくつもある。もはやSF映画のような景観だ。僕たちはアーチの下を一つくぐった。見上げると、何層にも重なった赤い断層が、威圧的に僕を見降ろしていた。夕方だけれど、まだ空気は熱を持っている。日は少し沈みかけていて、遠くの低いところにある雲が、かすかにピンク色に染まり始めている。

「もうちょっと登ったら、座るのにちょうど良い場所があるから、そこで夕焼けを見るからな。」

ジョーは言った。

「ここはグランドキャニオンの始まりと言われている場所。風化した岩がたくさんのアーチを作っているのが見られるんだよ。」

二郎は首にかけていた大きなタオルを岩の上に広げると、姫とアミトラにどうぞ、と言ってその横に座った。

「白いジーンズが赤土で汚れちゃうでしょ、そのまま座ったら。」

その台詞に姫は完全に目がハートになっているのだけれど、二郎はそれに気づいているのかは定かではない。

「この地形は、ノアの時代にあった大洪水で出来たって言われているんだ。ほら、よく見ると、たくさんの水が一気に流れたみたいな筋がたくさん見えるだろ?」

ジョーが僕の隣に座ると言った。

「聞いた事あるだろ?沢山の国にいろんな形で残っている、地球全体を覆った大洪水の神話。元々は、旧約聖書に出てくる話なんだ。神様が人間達を自分の似姿に似せて作られて、愛されていたんだけど、最初の人間アダムとイブが神様に逆らって、<罪>を人生にもたらした。そのために神様の元にはいられなくなった二人はエデンの園から追放され、その子孫であるすべての人間達は、初めから罪を持って生まれてくるようになってしまった。そして、罪にまみれた汚い心の人間達はどんどん神様の愛から離れてしまった。世界中で人間達は紛争や略奪、破壊を起こし、世の中はひどい状態だった。それを見て悲しまれた神様は人間達を創られた事を後悔されて、洪水で全て流してしまう事にした。でも、ノアとその家族だけは神様を信じて従っていたから、神様の指示通りに巨大な箱舟を作り、動物達をツガイで箱舟に保護して、洪水から守られた。その洪水なんだけど、当時は地球の周りには分厚い水の層があって、酸素ももっとずっと濃かったらしい。だから、巨大な恐竜達も人間と共に生きていられた。だけど、この洪水で神様はその水の層を破られ、空からもものすごい勢いで水が落ちてきて、また地下からも水が一気に噴き出した。一瞬のうちに地上にあった全ての創造物は水に飲み込まれて、その圧力で化石となった。地形も、水が上からも下からも叩きつけるように噴き出した結果、今俺たちの目の前に広がる景色ができた、ってわけ。その様子を垣間見ることがまだできるのが、グレートキャニオンなんだよ。」

「じゃあ、日本がある場所も、海底に沈んでいた。だから高い山のてっぺんとかから、海中生物の化石が発見されるのか。すごいな。これだけ巨大なスケールで証拠を見せられると、信じるしかないなって思う。」

僕は正直言って、荘厳すぎる景色に完全に圧倒されていて、濃紺、紫、ピンクに滑らかなグラデーションで染まってゆく終わりのない空を目前に、自分が限りなく小さいモノに思えて、少し怖くて、迷子になったようで、また目眩がしそうだった。僕が目をつぶって深呼吸をして、震える手を落ち着かせようとしていると、隣に座っていたアミトラが僕の手を力強くぎゅっと握ってニッコリと笑い、

「オーケー。ゴッド ビッグ。ウィ スモール。」

と言った。神様は大きくて、僕らは小さいんだよ、怖がらなくて大丈夫、と言ったんだろうと思った。僕は彼女に微笑み返すと、小さく頷いた。


翌日、ロデオ会場はムッとした動物の匂いと人混みの熱気に包まれていた。村祭りみたいな雰囲気で、砂埃にまみれながら鉄のゲートをくぐると、左手にはいろんな食べ物や飲み物のスタンドが立ち並び、右手にはアルミのベンチスタンドが設営された競技場、中央にはドラムセットが置かれた仮設ステージ、そして奥の方には小さい子供専用のポニーライドや移動式アミューズメントパークが作られている。二郎と姫はデイジーを連れてパジェントの準備に、テリーマンとジョーはもう一頭の馬ともうすぐ始まるパレードに出演予定だ。僕とアミトラはフードチケットをたっぷりテリーマンから預かっていて、好きなものを飲んだり食べたりしながら、競技場のベンチでショーを見るように、と言い付けられている。二つだけテリーマンから絶対に守るようにと言われたルールは、知らない人間についていかない事、アミトラとは手を繋いで絶対に離さないこと、だった。そして朝、テリーマンはそのルールを僕とアミトラに繰り返し唱えながら、僕のジーンズとアミトラのジーンズのベルトバックルに、犬に使うリードのようなものを引っ掛けてロックした。これで、僕とアミトラは一メートル半以上は離れることができない。これは必要なんですか、と僕が聞くと、一人より二人の方が連れ去り難いだろう?と言ってテリーマンは笑った。そういうわけで今、僕とアミトラは手を繋いで、フードチケットを片手に、ネルシャツにジーンズ、カウボーイハット姿の家族連れやカップル達に混じって、レモネードスタンドに並んでいる。『ぼーっとしてないで、ちゃんと周囲に怪しいヤツらがいないか、気を配らせるんだぞ。』さっき別れる時にジョーが僕の肩を叩いて言った。僕は周りを一回り見回したけれど、いるのは同じような格好をして、楽しそうに笑っている家族連ればかり。綿菓子でベトベトになっているベビーカーの双子。巨大なポップコーンを嬉しそうに分け合う高校生くらいのカップル。転んで砂埃にまみれた子供をあやす母親。ベンチに座ってカウボーイハットで顔を仰ぐ老人カップル。僕にとっては、混んでいるけれどとても平和な空間に見えた。僕がレモネードを二つ受け取って、一つをアミトラに渡そうと思って振り返ると、アミトラは僕のTシャツの後ろをしっかりと掴んで、ステージの方を指差して言った。

「バッド ガイ。」

彼女が指差す先には、背が高くて肩幅の広い熊みたいな、サングラスをかけた男がいた。色黒で、太い筋肉質の腕と首には女の顔とかドクロとかいくつも刺青が入っている。古びたジーンズと泥だらけの白いTシャツを着て、赤いカウボーイブーツを履き、長い黒髪は三つ編みに結われ後ろで一つにまとめられている。頭には赤と黄の紐で織られたヘッドバンドをして、首からは骨と羽根のついた革紐の首飾りをしている。

「え、あの人の事、知ってるの?」

僕が戸惑っていると、アミトラは僕の腕を引っ張って、人ごみに隠れるようにしながら競技場の方に走った。僕たちは今日、なるべく目立たないように、皆と同じようなネルシャツにジーンズを着て、アミトラの黒髪はカウボーイハットの中に隠してある。ちらっと見ただけでは誰もアミトラに気づかないはずなんだけど、知り合いが見たらすぐにわかるのかもしれない。腰を紐でつないだまま人混みを走り抜けるのはとても難しい。僕たちは何度も人にぶつかりそうになりながら競技場の入り口を目指した。入り口には小さなゲートがあって、そこに痩せた背の高い金髪の男が立っている。短く刈り込まれた金髪、耳にはたくさん銀色のピアスがつき刺さっている。首にはさっきの熊男と同じドクロのマークが入っている。グレーの短パンから、骨と皮しか無いんじゃないだろうか、と疑うほど細い足が伸びている。その足もびっしりと奇妙な刺青で覆われていて、遠くから見ると変な柄の紺色の靴下を履いているように見える。アミトラはそいつを見るとまた顔色を変えて、僕の右腕を掴み、首を横に振った。

「あれも、バッド ガイ?」

僕が聞くと、アミトラは何度も頷いた。僕の袖を掴む手が震えている。僕は競技場をぐるりと見まわした。他に入り口は無いようだ。しかも、もうすぐパレードが始まるから競技場に向かう人だかりが出来ていて、とても動きづらい。僕はアミトラに、

「おんぶするから、乗って。」

と言って、しゃがんで背中を指差した。立ち上がると、アミトラは羽がついているんじゃ無いかと思うくらい、とても軽かった。

「顔、隠しておいて。」

僕はアミトラのカウボーイハットをずり下げて、彼女の顔を隠した。そして側にいた家族連れの大きな双子用ベビーカーの陰に隠れるようにして、入り口から競技場に入って座席に辿り着いた。パレードは僕たちがベンチに座ると間も無く始まった。大きなアメリカの国旗を持って真っ白な白馬に乗った六歳くらいの金髪のカウガールを先頭に、ユタ州旗を掲げたカウボーイ、緑色のトラクター、鼓笛隊、ロングホーンを引いて歩くカウボーイ、などが続々と景気の良いマーチソングに乗って出てくる。その中に、ジョーとテリーマンもいた。ジョーは『I♡TEXAS』と赤で印字された白いTシャツを着て、白字で『RED CREEK RANCH☆』と書かれた赤い旗を掲げて馬に乗り、にこやかな笑顔で手を振っている。少し高い位置に作られた木製のDJブースから、ナレーターが賑やかに色々説明している。その度に、観客がわっと湧く。太陽の光がジリジリとジーンズの上から僕の足を焼いている感覚がする。なぜこのベンチは日陰になるように屋根とかが用意されてないんだろう。僕は滴る汗を掌で拭いながら、あまりの暑さに気が遠くなりそうだった。アミトラが心配そうに僕の顔を覗き込んで、レモネードのコップを頬に当ててくれた。氷水で顔を洗っているみたいで気持ちがいい。僕の顔の長さくらいありそうな巨大なコップに、僕もまだ半分はレモネードが残っていて、プラスチックカップは水滴でびしょびしょになっている。僕は自分のコップをアミトラのほっぺたに当てた。アミトラは目をつぶって少し肩をすくめると、フフフ、と僕を見て笑った。パレードが終わると、音楽が明るいポップソングに変わった。DJはとても早口でほとんど何を言っているのか聞き取れなかったけれど、パジェント、と言った気がした。どうやら、姫と二郎も出場するジュニア・パジェントが始まるらしい。一組目が入ってきた。男の子は肩幅を優に超える白い巨大なカウボーイハットを被り、アメリカの国旗柄のシャツを着て、ジーンズの上にはフリンジのついた皮のカバーみたいなものを履いていて、いかにも正統派のカウボーイという風情。一緒に馬に乗っている女の子はすごい厚化粧にバレリーナのような格好をして、少年の肩に手でつかまりながら馬の上で片足立ちでポーズをとっている。その体制のまま二人はニコニコしながら競技場をぐるりと一周周り、観客を正面に馬を停めた。次のカップルは二匹のポニーにそれぞれ乗って、手を繋いで出てきた。二人で息を合わせてポニーを早く走らせたり、ポーズさせたりしている様子はなんだか馬と一緒に踊っているようにも見えた。次のカップルは小さな馬車に乗ってシビルウォー時代の衣装で登場。その次は豚を二頭引き連れて農夫のような格好。その次は緑色のトラクターに乗ってバイオリンを弾きながら出てきて、みんな色々とオリジナリティに工夫を凝らしている。いよいよ二郎と姫の番になった。二郎は白地に紺の井桁柄の着物に紺色の袴をはき、黒の学生帽を被っている。颯爽と姿勢良く馬に乗る二郎は本当にカッコいい。姫はピンクの花柄の浴衣を着て頭には大きな牡丹の髪飾りをつけている。姫は二郎の膝の前に横坐りで座り、二郎の背中に手を回してしがみついている。二人が出てきた瞬間から、会場には物珍しさからため息やら拍手やら歓喜の声が上がった。二郎は馬をさっと速く走らせると、いくつか軽々と低めの障害物を飛び越し、馬を停めた。そして馬からさっと飛び降りると、いつの間にスタンバっていたのか、黒い浴衣を来た悪役のジョーとチャンバラごっこの実演をして見せて、ジョーが倒れたところで刀を収めると、姫を馬から抱っこで下ろして観客に向かって二人で日本式の一礼をして見せた。誰もロデオでチャンバラが見られるとは思っていなかったせいか、会場はやんややんやの大喝采。皆笑顔でスタンディング・オベーションをして喜んでいる。アイデア勝ちだったな、と僕は密かに誇らしかった。隣でアミトラも拍手をしながら無邪気に喜んでいる。人混みに紛れて座っているから、アミトラが目立つことは無いと思うけれど、僕は一応さっきの熊男とガリガリの刺青男が近くにいないかどうかあたりを見回した。刺青男はまだ入り口に立っている。熊男は見当たらない。二人とも同じドクロの刺青をしていたから、もしかしてそういうギャングの一員なのかもしれない。どうしてアミトラはこのドクロ団を知っているのだろう。理由を聞きたいけれど、言葉が通じないのがもどかしい。僕は残りのレモネードを一気に飲み干して、カウボーイハットで顔をあおいで見たけれど、全然涼しくならないどころか、帽子を脱ぐと直射日光で頭が焼けそうになるのですぐに被り直した。アミトラは暑く無いんだろうか、全然汗をかいている様には見えない。出身地だから慣れているのかな。そんな事を考えながらふとベンチの四列前方に目を落とすと、丸刈りの小太りの男が座っていて、首の後ろに同じドクロのマークが入っている。僕は驚いて、アミトラの手をつつくと、膝のところで見えない様に、前方に座っている男を指差した。アミトラは不思議そうな顔をして僕の指の先を目で追うと、パッと振り返って僕の目をじっと見つめてうなづいた。僕は彼女の耳元で

「バッド ガイ?」

と言うと、アミトラはイエス、と囁いて腰の綱をクイクイと引っ張った。これは<逃げよう>の合図だ。パジェントはまだ続いている。これが終わったら、ポニーライドの前で皆と待ち合わせしている。逃げるって言っても、どこに行けば良いかわからない。僕はむしろここでジッとしていた方が安全な気がしたんだけど、アミトラはもう走り出していて、僕は引っ張られてアルミの階段を踏み外しそうになった。僕達は大人達が立ち上がって拍手をしている間に、人混みに隠れて競技場から走り出た。ザラザラした砂地を革のカウボーイブーツで走るのは、暑いし重いし簡単なことではなかった。時折吹く突風に砂埃がモウモウと舞い上がり、口の中はザラザラするし、何よりも目潰しを食らったみたいに目を開けていられない。アミトラはまるで隠れ家の在り方を知っているみたいに、素早く人波をかわしながらどこかに向かっている。僕は、ロープで他人を引っ掛けたりしない様に、アミトラの横にぴったりとくっついて手を繋いで走った。中央ステージの横を走り抜け、仮設トイレが並んでいる脇を通り、移動遊園地の回転木馬の前に来るとアミトラは急に立ち止まった。僕が膝に手をついて肩で息をしていると、アミトラはメリーゴーランドを指差してニコニコした。

「え、乗りたいの?」

僕はポケットから二人分のライドチケットを係員に渡した。年季が入って、所々塗装の剥げかけた大きなメリーゴーランド。手綱に色とりどりの宝石がついた白馬、コーヒーカップの様なゴンドラ、並んで走る三頭の黒いポニー達、明るい日差しの中でどれもキラキラと輝いて見える。アミトラは、三日月形の横に空色の貝殻模様が入った二人乗りの馬車を見つけると、座って隣の座席をポンポンと手で叩いて微笑んだ。壊れかけのオルゴールの様な音楽が流れている。日陰に入るとスッと涼しい。時折吹いてくる風も僕の汗を乾かしてくれる。上を見上げると、金で縁取られた窓の中に微笑んだ天使たちが描かれていて僕らを見下ろしている。馬小屋のすぐ近くにあるからか、風が動物臭い。僕は自分も汗臭いだろうなぁと思って自分のシャツの匂いを嗅いだ。そんな事はまるで御構い無しに、アミトラは僕の腕につかまると頭を肩にもたれ掛けた。僕も暑さでバテていたので、彼女の頭に頬を寄せた。またハチミツとココナッツミルクの甘い香りがした。そよそよと風を切って回る回転木馬はとても心地が良くて、このままずっとここにこうして座っていられれば良いのに、と思った。十周程回転すると、木馬は止まった。降りて下さいの合図の、ビーッと言うベルが鳴った。僕はひと時の甘い休憩時間を名残惜しく感じながら、出口のゲートを開けた。すると、目の前に熊男が立ちはだかっていた。熊男は僕とアミトラの腕を掴むと、アミトラに向かって知らない言葉で早口でまくし立てている。アミトラは腕組みをしてそっぽを向いて男を無視している。どう見ても、怖がっている様には見えない。知り合い、なのかな。僕は思い切って聞いてみることにした。この人は英語を喋るかもしれない。

「アー、エクスキューズミー。ドゥー ユー ノウ ハー?」

すると熊男は僕をジロリと睨みつけた。濃い太い眉毛に、ぎょろっとした大きな目。鼻も顎もガッチリしていて、ゲームのストリート・ファイターから出てきた戦士みたいだ。僕はその巨大な手に左腕を掴まれているので、一歩も動けないし、ここはアミトラの地元、熊男は絶対知り合いに違いない。そう思っていると、熊男はヒョイと僕とアミトラを持ち上げると両脇に挟んで歩き出した。僕のウエストに簡単に回ってしまうくらい長い腕。筋肉質で、鋼みたいだと思った。抵抗のしようが無いので、僕は何処に連れていかれるのかと呆然としていた。熊男は中央ステージに着くと、横の階段を上がり、僕らをステージ上に置かれた椅子に座らせた。そして、アミトラに再び早口で何かまくし立てると、ステージを降りて行ってしまった。あたりを見回すと、ステージ上には小さな丸テーブルと椅子が二脚ずつ、五セット並べられている。ステージ前の客席にはまばらに人が集まり始めている。後ろにはバンドのドラムセットやエレキギター、巨大なアンプが設置されていて、その上に垂れ幕がかかっている。<TACOS EATING CONTEST> タコス早食い競争。僕はジョーの家で食べたタコスを思い出した。あんまり好きじゃなかったやつだ。これに出場するのか?僕は眉をひそめて腕組みをしたままアミトラを見た。彼女はテーブルに両肘をついて膨れっ面をしている。僕が見つめているのに気がつくと、アミトラは深くため息をついて言った。

「ソーリー。バッド ガイ、アミトラ、ダディ。」

「え、ダディ?お父さん?」

言われてみれば、強気で印象的な目元が良く似ている。その時ジョーがステージ下から駆け寄ってきた。

「おい、トント。何してんだよ。お前たち出るのか?タコス早食い競争だぞ?」

「うーん、なんか、あそこの怖そうな熊男に連れてこられちゃったんだ。アミトラのお父さんなんだって。ほら、あの大きなインディアンっぽい人。」

僕は競技場の入り口でガリガリの刺青男と話をしている熊男を指差した。

「二人でメリーゴーランドに乗っていたら、その後に捕まっちゃって、ここに連れて来られたんだよ。で、アミトラがあれはダディだって言うんだ。」

「え、マジかよ。俺ランス叔父さんに報告してくるわ。とりあえずそこにいれば安全だから、頑張ってタコス食ってろ。」

そう言うとジョーは走って行ってしまった。二郎と姫が着物姿のまま観客席に座ってこっちを見てニコニコしながら手を振っている。二人はそれぞれ<KING><QUEEN>と書かれたタスキをかけている。どうやらパジェントで無事に優勝したらしい。通りすがりの家族連れに話しかけられたりして、二郎は頬を赤らめている。僕は、といえば目の前に手のひらサイズのタコスが二つ乗ったお皿が置かれた。他の五つの座席には、僕らと同じく小学生高学年くらいの男女がそれぞれ座っている。いつの間に現れたのか、司会のカウボーイのお兄さんがマイクを持ってそれぞれのテーブルを紹介している。僕らは二番テーブル。僕らを指差して、司会のカウボーイは言った。

「トント アンド インディアン プリンセス !」

会場から拍手が沸き起こる。姫は両手を挙げて客席でノリノリだ。トントとインディアンのお姫様って、ジョーがそう言ったのか?アミトラが見つかるといけないから名前を伏せたのはわかるけど、なんでトントなんだよ。と思うのもつかの間、観客も司会と一緒に声を合わせて叫んだ。レディ、セット、ゴー!僕は目をつぶってお皿に並ぶタコスを一つ口に放り込んだ。子供の口に合わせた小さな一口サイズのタコス。けれど中にはしっかり僕の嫌いな生の玉ネギが入っている。アミトラはタコスなんか好きなんだろうか。僕は水で玉ねぎ味を無理やり飲み込みながらちらっと横目で見た。するとアミトラはタコスを開いて中身が何か確認しながら眉をひそめて苦々しい顔をしている。僕はその顔に思わず水を吹き出しそうになって大笑いした。タコスの中身は色々で、次はチョコレートクリーム、その次はビーフ、その次はアボカドとエビと楽しくなっていた。けれど、五つも食べたら僕はもうお腹いっぱいで、早々にギブアップさせてもらった。アミトラもスパイシーチキンが中から出てきた時にギブアップ。二郎と姫があっさり辞めている僕らを見て二人揃って呆れた顔をして首を横に振っている。ともかく僕は、こんな太陽がギラギラ照りつけるステージに引っ張りだされて暑くて閉口していたので、目の前の氷水がありがたくて、そればかりお代わりしていた。

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