第8話 モアブへ。

「じゃあ、説明する。」

その夜寝室で、ジョーはテリーマンのスマートフォンを借りて来て、僕らに地図を見せた。

「ここからモアブまでは車で約十五時間。馬を二頭連れて行くから、十五時間走りっぱなしって言うわけにはいかない。途中で馬も泊まれるモーテルがあるニューメキシコ州のアルバカーキで一泊する。そこまでが約八時間半。そこからはひたすらインディアン・リザベーションを突っ切るように北上して、約六時間半でモアブに着くはず。だけどニューメキシコ州に入るあたりからは緩やかに山を登って行くんだ。モアブまで行くと、すごく標高が高いからね。馬もいるからゆっくり行くとして、やっぱりさらに八時間くらいかかっちゃうかもしれないな。インディアン・リザベーション内の孤児院を訪ねるのは、モアブでのロデオが終わってから、帰り道に寄ることになってる。丁度、係りの人がその日程じゃなきゃ会えないって言うことでさ。」

「ねえ、アミトラは全然英語わからないの?」

僕はジョーのベッドに寝転がりながら、ゆっくりと回る室内ファンを見つめて言った。どうしたら彼女とちゃんとコミュニケーションが取れるだろう。

「うーん、そうだねえ。昼の会話で聞いていた感じだと、なんとなくわかっている単語はあるみたいだったけど。翔君の英語力よりも少しダメな位じゃない?」

腕組みをしながらベッド脇に立って話を聞いていた二郎が真剣な顔で答えた。こういう失礼な事をはっきり言うのは二郎の得意技だ。僕は学校では英語の成績は悪くないぞ。

「そうだな、トント、考えてみればロデオをやっている間は、お前が一人でアミトラの警備だぞ。俺も妹もケイも色々出場することになっているし。大丈夫か?二人揃って誘拐だけはされるなよ。」

背中を壁に持たれかけてベッドに座っていたジョーは、パッと身を起こすと僕の頭をスマートフォンで小突いた。

「そうだねえ、ちょっと心配かな。一応明日の朝、銃の持ち方くらいは教えておいた方が良いかもよ。」

二郎がジョーに言った。

「え、銃?」

「心配するな。子供は銃を人前で持ち歩いたり出来ない。一応、周りの人間は銃を持っているから、何も知らないでいるのは逆に危険だろ。この辺りじゃあ、皆子供の頃から銃に慣れている。だって、生きるのに必要なんだ。みんな親と狩りに行ったり、牛追いの連中だって皆持っているし。もし狼が家畜を襲っていたら、撃ちころさなきゃいけない。家業を継ぐために、銃が使える事は必要不可欠だ。」

「ジョー、君の言うことはもっともだけど、二郎、お前日本人なのに、なんで銃なんか撃てるんだよ?!馬にプロ並みに乗れるだけで十分だろ?」

僕が眉をひそめてちょっと怒って言うと、二郎は人差し指で耳の上を掻きながら笑った。

「あー、そうだね。前にちょこっと射撃競技を外国で習っていたことがあってね。銃の基本は全部身につけているよ。」

「トント、ヘンリエッタだって、銃の使い方くらい知ってるぞ。安全な使い方を知っておく、って言うのは本当に大切なんだ。明日、朝一に特訓な。よし、旅の出発は三日後だ。明日からはアミトラとも一緒に時間を過ごしてコミュニケーションを取る練習もしよう。ともかく、今日はもう寝よう。」

そう言うとジョーは僕を自分のベッドから追い払って、部屋の電気を消した。


パアン、パアン、と乾いた音が青い空に響き渡る。丸い円が描かれた発砲スチロールの板に次々と穴が開いてゆく。姫は十発中八発、的に命中させて銃を置くと、振り返ってイヤーマフを外し、ニカッと白い歯を見せて笑った。こういう笑顔はジョーとよく似ている。

「どう、八発も命中したよ、見ていた?」

姫は二郎に駆け寄って嬉しそうに目の前で飛び跳ねている。

「とっても上手だね。」

二郎は首を傾けて姫に微笑むと、受け取ったイヤーマフを首にかけ、手際よく銃からマガジンを外してBB弾を補充していく。

「本当は実弾を撃たせてやりたかったんだけど、今日はランス叔父さんも従兄弟たちも皆忙しいんだ。俺達だけだから、BB弾のガスガンで銃体験な。」

ジョーが僕に保護グラスとイヤーマフを渡して言った。

「ははは、翔君にはこのくらいの方がショックが少なくて丁度良いんじゃないかな。じゃあ、まずは注意事項から。」

二郎はそう言うとハンドガンを手に取って僕に見せた。

「1. どんな時でも、絶対に銃口を人に向けない。弾が詰まったと思って覗き込んだりしない。いつ弾が飛び出してきても事故が無いように、銃口は必ず人や物がない方に向けておくこと。

2. 弾が入っていない時でも、入っていると思って同じように注意して扱うこと。

3. 人差し指は銃に這わせるようにポジションして、決して引き金の上には置かない。引き金を引く時だけ、そこに置く。

4. 今みたいにターゲット・トレーニングをしているときは、必ずターゲットの横や向こう側に人や動物、車などがいない事をチェックしてから打つ。

5. 銃を持っている時は、ふざけて飛び跳ねたり、走り回ったりしない。

6. 弾丸が跳ね返ってこないように打つ場所を注意する。

7. 使わない時は、必ず銃弾を抜いておく。」

そう言って、ハンドガンを僕に手渡した。

「本物の銃はもっとずっと重たいからな。それ、いまマガジンが外してあるから安心しろ。何にも危ないことはない。とりあえず、ターゲットの前に立って構えてみろ。」

ジョーが銃を両手で持って固まっている僕の背中を押した。僕はターゲットを打つ位置に立ってみた。ターゲットの板は結構大きくて、一メートル四方程の正方形が木の棒に取り付けられている。その後方には高く分厚い土手が盛られている。このいかにも手作りの射撃場は、ロッジの裏手、ゴルフカートで八分くらい走ったところの荒野に作られている。僕はとりあえず、言われたように人差し指を銃に這わせるようにして引き金の上には置かず、右手を伸ばして左目をつぶり、的を狙うようにポーズしてみた。僕のイメージでは007だったんだけど、すぐに二郎が言った。

「はい、ストップ。銃の正しい構え方を教えるね。ちょっと、銃を貸してくれる?」

僕は二郎にハンドガンを渡した。

「うん、偉い。こういう時も、必ず銃口は人に向けない。的の方に向けておく。よくできました。じゃあ、よく見てね。銃っていうのは、打つ時にしっかり安定させておかないといけない。ブレてしまったら的に当たらないだろ?だから、映画で横滑りしながら片手でバン、なんていうシーンがよくあるけど、あれはまあ非現実的だよね。だからまず、利き手で銃を持つ。人差し指は、横に沿わせるように。そして、反対の手の親指が丁度聞き手の親指の真下に位置するように、しっかり握る部分を手で包むようにして固定する。決して引き金に指は置かないでね。それで、打つ前は体の前にこういう風に、構えておく。次に足は肩幅くらいに広げて、膝は少し曲げる。しっかり安定させてね。上半身はほんの少しだけ前に。両腕を肩の高さで伸ばして、肘は張らないように。利き目で的を見る。ここまではOK?やってみて。」

僕は立ち位置に立つと、言われた通りに左手を添えて両手で銃を握った。なんだか不思議な感覚。両足を広げて腕をあげると、安定するどころか重心を決めるのになんだかフラフラしてしまう。

「首が、斜めになってるぞ。」

後ろからジョーが言った。

「それお前の悪い癖だよな。なんか授業中もいつも首が右に傾いてる。それじゃあ的に当たらないぞ。」

僕は傾かないように気をつけて、背筋を伸ばして、もう一度構えた。

「うん、まあそんなとこかな。ちょっと右肩ばっかり上がりすぎ。」

二郎が僕の右肩を指でチョイチョイと押した。

「それで、最後に、引き金のひき方なんだけど、カチャってやれば良いっていうものでもないんだ。この最後のひと押しで、気をつけないと銃が右や左に微妙に傾いてしまう。ちょっとやってごらん意味が分かると思う。」

言われた通り、引き金を押すだけでもその瞬間に銃がぐらつく。

「ね、だから、両手でしっかり固定してあげることが大事なんだ。じゃあ、実際に撃ってみよう。」

二郎はピストルにマガジンをはめて僕に渡すと、さっさと皆が立って見ているところに戻ってしまった。よし、両手で持って、足を開いて、肩肘張らない、首はまっすぐ。利き目で覗いて、打つ。僕は二郎の指示通りに十発撃って、銃を置いた。事もあろうに、一発も的に当たらなかった。まぐれで、一発や二発は当たるだろうと期待していた僕が馬鹿だった。腕組みをして首を傾げながら僕が“観覧席”に戻ると、アミトラがケタケタと笑いながら手を叩き、親指を持ち上げて言った。

「グッド・ジョブ。」

ジョーに嫌味の一つでも言われるかとは思っていたけれど、アミトラにまで笑われるとは、僕は耳の裏側から頬までゾワゾワと真っ赤になるのを感じた。そんな僕を不憫に思ったのか、

「初めての割には、ポーズカッコよかったぞ。」

と、ジョーが僕の肩を叩いて慰めた。

「一発くらい当たればよかったのにね。」

姫がレモネードをすすりながら目を細めて言った。

「他に、撃ちたい人、いる?」

二郎が聞くと、アミトラが私も、と言うように手をあげて自分を指差してニコニコしている。

「やったこと、あるの?」

僕がアミトラに手で銃の形を作りながら、彼女と的を交互に指差して首をかしげると、彼女はニコニコしたまま何度も頷き、親指を立てて言った。

「アミトラ、グッド、ファイト。ガン、グッド。」

そしてすたすたと射撃位置に立つと、迷いもなく美しい姿勢で銃を構えてあっという間に十発撃った。しかも全部ど真ん中に命中。それを見て二郎はお腹を抱えて笑った。

「なんだ、アミトラが翔君を守ってくれるから、大丈夫だね、心配しなくても。」

「流石はナバホ族、女の子でも戦闘能力がすごいとは聞いていたけど、この腕前は小さい頃にちゃんと教えてもらったんだな。」

ジョーが驚いた表情で顎を撫でながら唸った。

「カッコイイ!」

姫は能天気に拍手をして喜んでいる。

「さ、じゃあ旅の準備をしなくちゃね。アミトラは、一応悪い人たちに追われているといけないし、あの民族衣装じゃあ目立ちすぎるから、私の服を貸すことになっているの。じゃあ、私とアミトラは先にロッジに行っているから。お昼に集合ね。」

そう行って、姫はアミトラの手を引くと僕たちのゴルフカートに乗って行ってしまった。

「あ、あいつ俺たちのカートに乗って行きやがった。」

ゴーグルやイヤーマフを片付けながら、ジョーが言った。

「まあいいんじゃない。この後どうせ君は馬小屋の掃除があるだろ。僕は翔君にもう一度馬の扱い方を教えるから。デイジーは確か姫の馬だったよね?また練習にお借りしてもいいかな。」

「もちろん。あと、ケイ、お前とヘンリエッタが二人で出るミスター&ミス・ジュニア・パジェントにもデイジーと出場予定。だから旅にも連れて行くよ。」

「ああ、そういえばそんなものもあったっけね。」

二郎は少し困ったような顔をして笑った。

「同じ歳って言っても、とても筋肉ムキムキの本物のカウボーイ達にルックスで勝てるとは思えないけどなあ。」

二郎が勝負で弱気なのは珍しい。いつも努力でなんとかなるものは、勝てるまでひたすら練習するからだ。でも確かに、見た目は突然変えられるものじゃないし、二郎は痩せ型、背も低い。

「でもお前は馬の乗り方がやっぱり素敵だからな。ヨーロッパで鍛えられただけはあって、ウエスタンしか知らない奴らとは違った魅力がある。そこが狙いなんだよ。」

ジョーも励ましてみているけれど、確かにガタイの良さが同年代だと一回りも二回りも違う。しかも、カウボーイは外での仕事が多いから、カッコよく日焼けしている。白人だけじゃなくて、さらに色黒のメキシコ人やインディアンの人達もいる。どれをとっても、男らしくて強そうだ。僕らは馬小屋に向かって乾いた芝生の上を歩きながら、どうしたもんかと考えた。

「ねえ、得意の堀越二郎の格好をして、百円ショップとかで侍の刀みたいなやつ買って、日本の侍カウボーイってことで出場すれば?そしたら目立つし、皆と違う魅力があっていいんじゃない?」

僕は我ながら名案、と手を打って言った。

「それ、悪くないな。」

ジョーも頷いた。

「あー、もちろんあの着物と袴は持って来ているよ。それも良いかもね。僕もなんか安心するなあ、慣れている格好の方が。もし、お姫様がお許し下さればね。」

二郎の目に輝きが戻った。前に、勝てないと初めからわかっている勝負はやる意味がない、って言っていた。勝てるかもしれない、という可能性がやる気を起こさせるらしい。考えてみれば、僕は昔から勝負に勝つ事を目的で挑んだことが無い。徒競走も成績も、なんでもそれなりにできて普通でいいじゃないか、そう思っていた。でもなんか、いつでも勝利しか考えていない二郎と、奇想天外な事ばかり言い出すジョーと一緒にいると、それではいけないような気がしてきた。僕も、もっと勝ちを狙って生きた方が良いのかもしれない。とはいえ、何で勝ちたいのか、っていう事を考えるところから始めないといけないのだけれど。


 モアブを目指した車の旅路、出発してから約四時間。僕はアメリカ大陸の巨大さに呆れていた。レッド・クリーク・ランチを出てから、高速道路をひたすら真っ直ぐに走っている。右を見ても、左を見ても、荒野が広がっているだけ。乾いた大地、低木、時々、牛、そして限りなく広い、空。森がない、という景色がこんなにも違和感があるとは知らなかった。突然、五階建のビル位は高さがありそうな巨大な白いプロペラの風力発電機が数百本も立ち並ぶ不思議な景観にぶつかることもある。ガソリンスタンドのある休憩所も、三時間に一つあればラッキー。馬にストレスがかからないように、随時休憩を挟みながら行くからね、とジョーは朝言っていた。僕らが出発したのは、午前4時半。ちょうど朝焼けが遠い空をピンク色に照らす頃、いつもの巨大な紺のトラックに、半分寝ぼけた僕ら四人とアミトラを乗せて、馬二頭の乗ったホーストレーラーを引っ張って、両端が高く持ち上がった白いカウボーイハットを被ったテリーマンはエンジンをかけた。空港に迎えに来てくれた時は、前列には運転席と助手席しかなかったのに、ドリンクホルダーがあったところが座席になっていて、前に三人、後ろに三人座れるようになっていた。当然、テリーマン、姫、ジョーが前に座り、二郎、僕、アミトラが後部座席。二郎は、『僕はアメリカ西部での車の移動はあんまり好きじゃないんだ。景色もずーっと一緒でつまらないし。』そう言って出発直後からネックピローで熟睡中。僕もしばらくは寝たけれど、六時過ぎには目が覚めて、あとはずっとあまり代わり映えのしない景色を眺め続けている。本当に、何も無い。学校で人口増加が温暖化を招いている、なんて習ったけど、この景色を見ていると、そんなものまるでデタラメなんじゃ無いかと思う。こんなに誰も住んでいない、何も無い荒野が何時間も延々と続いている。都会に住んでいると、いつも混んでいて、人の波と建物の森の中にいるのが当たり前だったけど、まだまだこんなに広大な大地が広がっていて、人間はとてもちっぽけなものに過ぎないと実感させられる。教科書で教えられている事は、その時の大人達が僕達に信じさせたい事を書き連ねているだけに過ぎないのかもしれない。目の前のテストの点数の結果だけに夢中にさせて、現実に世界で何が起きているのかは知らされていない。だから自分の目で見に行くのは本当に大切なんだ。僕はそんな事を考えながら、ふと隣で眠っているアミトラを見た。横顔は、正面から見た時と印象が少し違う。眠っているからかもしれないけれど、もっと、ずっと幼い感じがする。やっぱり、とても長い睫毛。鼻は丸っこくてあんまり高くない。小さくてシャープな顎のラインが、窓から注ぐ日光に照らされて金色のジュエリーみたいに輝いている。片手はシートベルトを掴むように、もう片手は僕の右手のすぐそばにある。華奢な手の平に細くて長い指。僕は自分の手の平と見比べてみた。その時、クシュン、と小さな声でアミトラがくしゃみをして目を覚ました。彼女は二、三度瞬きをするとパッと顔を上げたので、バッチリ目が合ってしまった。固まっている僕を見て、アミトラはにっこりと微笑んだ。僕はまたジロジロ見ていたのがバレてしまって、口から心臓が飛び出るんじゃ無いかと思い、慌てて口元を押さえて反対の窓の方を向いた。その時ジョーが助手席から振り向いて言った。

「あれだけジッと見てれば誰でも気配を察して起きるって。」

ものすごいニヤニヤしている。そのうえ姫まで振り向いた。

「ずっとバックミラーで見ていたんだから。よっぽど好きなんだー。ヒューヒュー。」

二郎フィーバーのお前に言われたくない、と言おうと思ったけれど、口喧嘩をしても絶対に負けるので、勝てない勝負はしない事にした。そのかわりに腕組みをして口をへの字に曲げて無言で窓の外を眺め続けた。

「もうすぐアマリロに着くぞ。ちょっと大きい町だから、色々ありそうだし、そろそろ朝食にしようって。」

ジョーがそう言った途端、二郎はうーんと大きく伸びをして言った。

「それは名案。お腹空いた。」

こいつは一体どこから聞いていたんだろう。もしかすると、僕がアミトラに見惚れていたのも、隣で見ていたのかもしれない。そんな僕の心の中を読んだかのように、二郎は僕の肩を叩いて言った。

「いいじゃないの。可愛いな、って思う娘がいて。旅も百倍楽しいじゃないか。」

そして僕の冒険クラブのメンバー三人は大声を出してゲラゲラと笑った。僕はアミトラに向かって微笑むと、三人を指差してから、頭の横でクルクルパーのサインをして見せた。その意味が通じたかどうかはわからなかったけれど、アミトラはフフフっと嬉しそうに笑ってくれた。


結局その日はひたすら、景色が代わり映えのしない荒野を走り続けた。途中から山になってきて、少しは木が生えているかと思ったら、大間違いだった。山なんだけど、あるのは灰色の岩と草。緩やかにだけれど、どんどん登っていく。そして突然平坦になる。丘の上にあるのも、見渡す限りの、岩。しまいにはとうとう草も無くなった。僕は、こんな所で車が故障したりしたら助けも呼べないだろうなあと思いながら、荒野のど真ん中に道路を作った人達はすごいものだとちょっと感心した。定規で引いたように真っ直ぐな坂を登ると、その先にもただただ広い青い空が待っている。巨大なトラック達と追い越したり、追い越されたりしながら走る。時々、プレハブの一軒家を丸ごと積んで、二車線を占領して走っているさらに巨大なトラックがいたり、風力発電機の長い白い翼をゆっくりと運ぶトラックもいた。そのトラックは、普通の巨大トラックの三台分以上の長さはあった。アルバカーキの街に近づくと、突然道路が片道五車線になり、まわりの車の運転が荒々しくなった。何度も、追い越そうとして横から近づいてくるボロボロの車にぶつかられるんじゃないか、ということがあった。僕が後部席で『うわっアブねー』とか、『なんだよ今の!』とか悲鳴をあげていると、ジョーが言った。

「アルバカーキはあんまり治安が良くない。メキシコからの不法移民が運転免許無しに、しかもドラッグとかアルコールをやりながら運転していたりもする。だから、ぶつかられないようにすごい気をつけないとね。人身売買とかの闇組織もあるし、街の場所によっては絶対近寄っちゃいけないって所もあるよ。」

高速道路を降りて、将棋盤のように区画整理された街を抜け、ようやく今晩泊まるモーテルに着いた。結局、午前四時半に出発して、朝食、昼食と休憩を挟んで約九時間かかった。別にただ座っていただけなんだけど、僕はクタクタだった。モーテルと言っても宿泊施設は1LDKの一軒家で、ベッドルームにはシングルベッドが一つ、二段ベッドが一つ。リビングにキングサイズベッドが一つ、それと入り口のドアの近くにカウチベッドが一つ。カウチの前には低いコーヒーテーブルがあり、木製のテーブルトップには焦げたようなコップの跡が沢山ついている。正面の壁には真新しいフラットスクリーンテレビ。綺麗に掃除されているけれど、とても質素な内装で、一九七十年代の古めかしい苔色のキッチンユニットに、オレンジ色のカウンターチェアが二つ。茶色と黄色の微妙な色合いのサイケデリック模様のカーテンがそれぞれの窓にかかっている。ジョー、二郎、僕がベッドルームを使い、姫とアミトラがキングサイズベッド、そしてテリーマンが安全のために入り口近くのカウチベッドで寝る事になった。とはいえ、まだ午後二時半。僕たちは黄土色の薄いテーブルクロスみたいな生地のカバーがかかった部屋のベッドでゴロゴロしながら、そこにあった薄っぺらいタウンガイドをめくっていた。

「夕飯、何がいい?」

ジョーが聞いたので、僕は言った。

「どこか、白米か麺が食べられる所がいいな。朝もハンバーガー、昼もハンバーガーで、僕はパン以外のものにありつきたい。安い中華とかでもいいからさ。」

「そうだねえ、僕もちょっと同感。あ、日本食のお店があるよ!ラーメン屋さんだって。ここ行ってみようよ。でも、叔父さんとアミトラは食べるかなあ。」

二郎がジョーの方を振り返って言った。

「それは、無い。絶対無理だな。お前ら二人はそこで食べれば。車で連れてってやるから。俺達はパスするわ。近場のウェンディーズとかで済ませるよ。」

あっさりと冷たい態度のジョーに向かってふてくされた顔をしていると、姫が

アミトラの手を引っ張ってベッドルームにやってきた。

「ねー、みんなで馬小屋を見に行かない?暇だし。馬小屋の横に、小さな公園もあるんだって。ランス叔父さんも馬の世話をしなきゃいけないから一緒に行ってくれるって。」

二郎はメガネを押し上げてちらりとベッド脇の時計を見ると、タウンガイドを閉じてベッドから起き上がった。

「そうだね、運動不足だから行こっか。」

ジョーは面倒臭そうにため息を漏らすと、ベッドからゴロゴロと転がり落ちてもたもたと立ち上がり、帽子掛からカウボーイハットを一つ取って僕に投げた。

「砂漠の太陽は痛いぞ。お前ひ弱だからちゃんと帽子かぶっておけ。」

キッチンに行くと、テリーマンが太い革ベルトのホルスターを腰に巻いて、ハンドガン二丁に銃弾を込めている所だった。チューインガムをくちゃくちゃ噛みながら、慣れた手つきで銃の準備をしている様子はなんだか映画からキャラクターが飛び出してきたみたいで、カッコいい。

「ねえ、あんなに堂々と銃を持ち歩けるの?」

僕はジョーの腕を引っ張って聞いた。

「ああ、ニューメキシコ州は、オープンアームって言って、隠してなければ銃弾入りの銃器は普通に持ち歩いて平気だよ。上着の下とかに隠して持ちたい人は、きちんとそのための、コンシールキャリー許可証を取らなきゃいけないけどね。」

テリーマンが銃を二丁ホルスターに装着して、カウボーイハットをかぶると、僕たちは静かに後をついて行った。どこまで通じているのかは全く見当がつかないけれど、馬小屋に向かって歩いている間、姫はしきりに英語でアミトラにいろんなことを話しかけている。姫が相槌を求めるようにアミトラの顔を覗き込む度に、彼女はニコニコして頷いている。モーテルの敷地内にはオフィスと小さな客室が十室ある本館、それと僕らが泊まっているような離れの小型の一軒家が三軒ある。敷地内は一応芝生にはなっているけれど、半分は砂に埋もれて乾燥していてその上を歩く度にパリパリと枯れて死んでいく感触がする。馬小屋は大きなプレハブ小屋で、馬が十頭は宿泊できるようになっている。割合広々とした部屋が割り当てられて、テリーマンの馬達も心なしか嬉しそうに見える。人間だって九時間もドライブすれば嫌気がさすんだ、馬にしてみればあんな小さなトレーラーに乗せられて大迷惑って所だろう。テリーマンが馬達の世話をしている間、僕らは馬小屋のすぐ脇にある公園スペースで遊ぶことにした。割と真新しい大きな複合遊具は、丁寧に上に屋根までついている。登り棒、ロッククライミング、モンキーバー、吊り橋、飛び石、隠れ家、おままごと用キッチン、そしてチューブ型の滑り台が六本もある大サービスの巨大な複合遊具が、真っ平らな砂漠っぽい荒野にポツンと立っている。僕は吊り橋に座って、小さな竜巻が荒野の砂を吹き上げては消える様子をぼんやり眺めた。テキサスにいた時よりもさらに空気が乾いている気がする。遠くに霞んだように灰色の山が見える。きっと近づくと相変わらず木は生えていないんだろう。姫とアミトラは無邪気に繰り返し滑り台を楽しんでいる。テリーマンがジョーと二郎を呼んで、いろんな所を指差しては何か指示しているように見える。二人が頷くとテリーマンは銃を一丁ジョーに手渡して馬小屋に消えた。ジョーは遊具の周りをぐるりと一周すると、モーテルの正面玄関がよく見渡せる隠れ家の椅子に腰掛けた。二郎は橋の下から僕に手を振ると言った。

「翔君、なんか今この辺りにメキシコ人の女の子達を狙った誘拐団が現れているらしい。モーテルの敷地内にまで来るとは思えないけど、一応、アミトラがメキシコ人と間違えられる可能性もあるから、注意して警備しろって。だから、翔君はその高い所から見張っていて。知らない人とかが近づいてきたらすぐに言ってね。」

僕は親指を立ててOKサインを送った。こんなに何も無くて誰もいない所に、誰かが来たら目立つだろうなあ、と思った。モーテルの駐車場にも、テリーマンの車しかない。その時、銀色の大型バンが駐車場に入ってきた。車から降りてきたのは、メキシコ人っぽい家族連れ。

「二郎、なんかメキシコ人の家族っぽい人達が駐車場に来たよー!」

僕が二郎に向かって叫ぶと、二郎は親指を立ててすぐにジョーに報告に行った。母親にしては随分と若く見える、ポニーテールをした小太りの色黒な女性が五、六歳の男の子と女の子を連れて遊具の方にやってきた。ジョーは隠れ家の椅子から立ち上がると、銃を隠すようにしてアミトラと姫のもとに移動した。子供達はすぐに遊具に登ると、人懐っこくアミトラと姫と一緒に遊び出した。小太りの女性はタバコを吸いながらスマートフォンをいじっている。銀色の大型バンの影から、二台のATVバギーが姿を現した。サングラスをして、口元を大きなバンダナで覆った男達が乗っている。とても良い人たちには見えない。嫌な予感に心臓がドキドキ波打つ感じがして、僕は立ち上がって叫んだ。

「二郎、なんかヤバそうなATVバギーが二台来るぞ!」

橋が小刻みに揺れるのを感じて振り返ると、さっきまで滑り台の下にいた少年が僕に飛びかかってきた。真っ直ぐに僕の首を狙って。僕は避けようとしてバランスを崩し、足が吊り橋の鎖に引っ掛かって背中から倒れた。少年は舌打ちをすると僕を飛び越えて着地し、僕の片腕を抑え込むとすぐにまた僕の首を肘で狙ってきた。華奢な体つきなのに、すごい力で、その死に物狂いの冷たい眼差しに僕はゾッとした。僕がもう片方の腕を体の前でクロスして避けようとした瞬間、滑り台の下からアミトラが素早く駆け登ってきて後ろから少年の首に肘鉄をして一発で気絶させた。同時に、橋の下では二郎が小太りの女性を柔道の一本背負いで投げ飛ばした所だった。登り棒の所で姫が少女に羽交い締めにされているのを見ると、アミトラはすぐにモンキーバーからその棒に飛び移って少女を蹴り倒した。ジョーがすごいスピードで向かってくるATVバギーのタイヤを狙って発砲すると、一台のバギーの右側の前輪が吹き飛んで男はバギーごと大きく倒れて五メートルくらい横に吹っ飛んだ。僕がようやく足に絡まっていた鎖から脱出した時、もう一台のバギーがあっという間にアミトラを腰から掴んで連れ去ってしまった。それと同時に、銃声を聞いたテリーマンとモーテルのオーナーが銃を構えてそれぞれ馬に乗って馬小屋から飛び出してきて、すぐに荒野に向かって走り出したATVバギーを追いかけ始めた。ジョーが叫んだ。

「逃げるぞ、部屋に向かって走れ!」

僕らは全力疾走で部屋に入ると、バタンと大きな音を立ててドアを閉め、二重鍵を素早くかけた。僕は暫く手を膝についたまま黙って下を向いてゼーゼー言った。こんな風に命がけで走ったのは、初めてかもしれない。姫は肩で息をしながら、ソファに寝転んだ。ジョーはすぐにドアの脇の窓際で銃を構えて見張り始めた。

「これはちょっと予想外だったなぁ。」

二郎はキッチンの窓際に行きカーテンの陰に隠れるようにして立った。

「アミトラ連れてかれちゃったぁ。」

姫が顔を腕で隠したままため息を吐くように言った。

「ランス叔父さんとオーナーの二人掛かりで追いかけていったから、まあもうすぐ連れて帰ってくるよ。バギーに乗っている男達が銃を持っているかどうかがすぐにわからなかったから、タイヤを狙うのが遅れたんだ。銃を持っていたら危ないだろ。でも、腰にも胸にも銃はなさそうだった。ということはいくらアミトラを人質に取っていても、あんなやつランス叔父さんに敵うわけないよ。」

僕は姫が少し震えているので、彼女の大好きなレモネードのボトルを冷蔵庫から出して隣に座った。

「大丈夫?怖かった?少し飲んだら、落ち着くから。」

姫は下唇を噛みながら、寝転んだまま拳を空中にブンブン振り回した。

「あー、もう悔しい、あんなに近くにいたのに。私の事助けてくれたのに。」

「あいつら、昨日ニュースで言っていた誘拐団かな。不法移民の少女達だけ狙っているらしい。今日はアミトラもお前の普通の服を着せていたから、不法メキシコ人と間違われたのかも知れないな。」

ジョーがため息をついて言った。

「メキシコ人の女の子だけを狙っているって、人身売買って事?」

僕は気が紛れるかと思い、テレビをつけた。すると画面一杯に人相の悪い、色黒の五人の男達の写真がうつされた。

「あ、これだよ。昨日もニュースで流れていた。メキシコからの不法移民のギャングが、不法移民の子供達を誘拐して売買しているって。不法移民だと、パスポートもないし、身元の保障もないし確認も出来ないから、警察に守ってもらえない。だって、不法で入国しちゃった、ってことは、本当はここに存在しない筈の人間なんだ。つまり、ある日突然消えたって、警察は追ったりしない。」

二郎がキッチンからテレビを覗き込んで言った。

「ひどい話だね。親は自分の子供達の安全とか考えないのかな。」

僕がそう言うと、ジョーは笑って言った。

「お前の事を襲ったのも子供だろ。安全を考えるどころか、犯罪させてるんだからな。アメリカとか日本とか、言論や思想の自由が保障されている国で、合法に真面目に生きている両親の下に生まれ育った俺たちにはわからないよ。僕らの国には、誰だって仕事に就いて、食事にありつける自由がある。世界には、そんな自由すらない、一日の食料にすらありつけない人たちがいる国が沢山あるんだ。<生きる>っていう言葉の意味がさ、違うんだよ。テストの点とか、どこの学校に行ったとか、何のスポーツをやっているとか、そんな事で一喜一憂できるなんて、俺たちは本当に贅沢な暮らしをさせてもらっているって事だよ。」

二郎はカーテンをチラチラめくりながら、ジョーの言葉に続けた。

「そうだね。貧困云々だけじゃなくて、イデオロギーだってそうだ。僕、去年ロンドンで中国人の女の子と駅でたまたま喋ったことがある。その子は、高校生くらいに見えたけど、エレキギターを持って駅のホームで座ってた。僕もギターが好きだから、電車待ちで暇だったし、どんな音楽をやっているのかなと思って話しかけたんだ。そうしたら、その子は中国から逃げてきたって言ってた。中国ではパンクロックの音楽が禁止されていて、政府に知られたら警察に捕まる。だから、仲間達とアンダーグランドの家に隠れ住んで、毎日追ってくる警察から逃げ続ける生活を送っていた。今は、ソーシャルスコアっていって、政府の決めた政策やルール、思想に従っているかどうか、がポイントとして一人一人に与えられて、個人がどの店で何を購入したとか、どの電車にいつ乗ってどこに行ったとか全て監視されている。そのポイント次第では飛行機のチケットを売ってもらえない、つまり海外旅行に行く権利すら与えられない。それって、とても恐ろしい事だと思わない?僕らの知っている<自由>は、そういう国には存在しないんだよ。」

「それって、ジョージ・オーウェルの『1984』に出てくる<ビッグブラザー>みたいなやつ?どこに行っても、一挙一動、全ての行動と発言が監視されているってやつ。」

僕が言うと、二郎は続けた。

「翔君、僕はさ、前にスマートフォンは持たない主義だって言ったでしょ。それはさ、インターネットを通じてあらゆるSNS、ショッピング、交通手段、家賃、銀行口座を含めて全ての支払いが携帯電話から一括で行われる、そのシステムはすでにビッグブラザーと同じだと思うから。マップは僕達の一日の行動記録をとっているし、買い物の内容や金額からソーシャルネットワーク上の会話まで全てをスマートフォンは<見て、聞いている>んだよ。」

「なんか、恐いね、それ。つまり、便利に見せかけて、本当は監視されているって事か。」

カウチに寝そべったまま、姫が言った。

ジョーがため息交じりに相槌を打った。

「本当に、俺たちの<自由>もいつまで続くか、が問題だな。」

「ははは、アメリカにいればまだ戦う自由がある。今僕らがこうして銃を構えて敵から身を守ろうとしているのだって<自由>だ。日本ではこういう自由を持ちたいって考えたことすらなかったよ。」

二郎は真剣な眼差しで言った。僕は、腕組みをしながらしばらく目の前のコーヒーテーブルに置かれたレモネードの瓶を眺めた。

「それならやっぱり、勝ちに行かなきゃ、だね。」

僕は立ち上がって言った。

「自由があるうちに、と言うか、それが実はもう無いとしても、僕らが<生きる>っていうのは、その時の大人達のイデオロギーを暴いて、僕らなりの<勝ち>を狙うべきだ、って事なんじゃないか?」

「トント、お前もやっと自分の頭で物を考えるようになってくれたか。キモサビは嬉しいぞ。」

ジョーが涙を拭う真似をしながらまた僕をからかっている。そんなに柄にない発言だったかな。

「あ、ランス叔父さんが帰ってきたよ。」

窓から外をのぞいていた二郎が言った。玄関前でウォアという掛け声と、馬の小さな嘶きがした。ジョーが急いでドアを開けると、熱風と共に砂埃が吹き込んだ。テリーマンはカウボーイハットを脱いで、ネルシャツの袖で額の汗を拭うと、冷蔵庫を指差して何か言った。姫が急いで水のボトルを二本渡した。テリーマンはキッチンの上の時計を指差してまた一言二言早口で言うと、馬に乗って行ってしまった。

「アミトラ、取り返したってさ。」

ジョーが満面の笑顔で言った。

「今、警察が事情聴取をしているから、モーテルのオーナーの事務所に行ってくるって。これが終わったらみんなでピザでも注文しようってさ。疲れたから、今晩は部屋でゆっくりするぞって。」

その後、暫くしてテリーマンとアミトラは手を繋いで帰ってきた。姫はアミトラが部屋に入るなり抱きついた。アミトラも嬉しそうに姫の背中を撫でている。出会ってまだ数日なのに、なんだか家族みたい。コーラの瓶を片手に、僕の顔の大きさ位はあるチーズピザを頬張りながら、テリーマンは事の経緯を話してくれた。


 ジョーの銃声が聞こえてすぐに、テリーマンとたまたま一緒に馬小屋にいた宿のオーナーは馬にまたがって馬小屋を飛び出した。アミトラを連れて荒野に向かって逃げるATVバギーを見つけると二人は後を追った。けれど、相手が銃を持っているかどうかがわからない。オーナーが無線で警察を呼ぶ傍、テリーマンはバギーになるべく近づき、男が銃を構えていない事を確認した。牛追い用のロープを男の首にかけて引き摺り下ろしてやろうかとも思ったけれど、アミトラが怪我をしたらいけない。そこでテリーマンとオーナーは二人でバギーを挟み込むように馬を走らせ、そそり立つ岩壁の前に追い詰めた。行く場所を失った男はバギーを降りると、小さなナイフをアミトラの喉に突きつけて脅そうとしたけれど、二人が銃を構えているのを見て、諦めてアミトラを手放した。バギーの男は覆面を取ると、まだ未成年のメキシコ人の少年だった。


「ギャングの手下なんだろうね、その少年達は。」

二郎が二枚目のペパロニピザを食べながら言った。

「未来が無いよな、悪い奴らに利用されて生きているって。」

ジョーの言葉に、姫が怒ったように返した。

「でも、自分達が好きでやっているわけじゃないんじゃない?簡単にアミトラを返してくれた事を見れば、嫌々、言われた通りにしていただけなんだと思う。言う事聞かないと殺されちゃうとか。だって、アミトラだってそういう人生だったわけでしょ?知らないうちに取引されて、悪い大人達に翻弄されて成長していくなんて、可哀想。」

アミトラはテリーマンの隣に座って、何事も無かったかのようにコーラをすすっている。

「ランス叔父さん、アミトラを養子にするって話、うまく行くといいね。」

僕たちは二郎の言葉に黙って頷くと、静かにピザを食べた。その夜、僕はなかなか寝付けなかった。もちろん、巨大な脂っこいピザを調子に乗って二枚も食べたのと、普段は炭酸飲料を飲まない僕がコーラを一本飲み干したせいもある。でも、僕の首を閉めようとしていた無表情の少年の眼差しや、銃を構えて緊張していたジョーの真剣な横顔、怯えた姫の震えとか、あんな事があったのにまるで免疫があるみたいに平然としていたアミトラのどこか冷めた態度が忘れられなかった。僕は水を飲むためにベッドルームを出た。暗い静かな家の中で、皆の小さな寝息やいびきが響いている。タイル張りの床が、薄いスリッパ越しにひんやりと冷たい。窓から月の光が差し込んでいて、窓の周りだけ柔らかい青いあかりに包まれている。キッチンに行くと、窓辺に人影があったので僕はドキリとして足を停めた。カーテンを半分めくって月を見上げていたのはアミトラだった。夕飯の時と同じ様な無表情で月を見上げている。少し寂しげなその瞳はむしろ、何かを睨んでいるようにも見えた。僕の気配に気づいてアミトラは振り返った。乾ききっていない濡れた黒髪と、黒い大きな瞳に反射したあかりが、暗闇に浮かぶ星のように輝いている。

「眠れないの?あー、ノー・スリープ?」

僕は自分の心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかという位ドキドキしながら、冷蔵庫から水のボトルを取り出して聞いた。アミトラは窓辺に佇んだまま、うつむいて首を横に振った。

「何か飲む?えっと、ウォン サム ウォーター?レモネード?」

僕がボトルを指差して見せると、アミトラは少し微笑んで頷いた。僕は彼女が星を見ていたいのかもしれないと思い、キッチンにあった木のベンチを窓際に置いた。アミトラはサンキュー、と呟くとベンチに座り、隣の席をポンポンと叩きながら僕を見た。これは多分、一緒に座ろうと言っているんだろうな。窓際に座って空を見上げると、僕は星の数に息を呑んだ。これが天の川っていうやつかもしれない。レッド・クリーク・ランチで見た星空よりも、さらに圧倒的で、数が増えている気がした。

「マイホーム、モア ビューティフル。」

アミトラは夜空を指差して言った。僕は頷いた。

「トゥモロー、ユーシー。」

そう言ってアミトラは僕の肩に頭をもたれかけると、目を閉じて寝てしまった。アミトラの長い髪から甘いシャンプーの香りがする。女の子っていうのは良い匂いがする生き物なのだ。なんでこんな所で寝ちゃうんだろう、と思ったけれどスヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てているので動かさないでおこうと思った。僕はベッドにお姫様抱っこで連れて行けるほど筋肉もないし。寝ている人の頭っていうのは、思ったよりも重いんだ。僕はベンチの背もたれにもたれ掛かると、ゆっくりアミトラの頭を僕の肩から膝に移動させた。その拍子にばさっと顔にかかってしまった長い前髪を、僕はそおっと彼女の耳にかけた。色んな事があって、とても疲れているに違いない。僕は暫く月明かりの下で宝石みたいに輝いているアミトラの睫毛とか頬を眺めていたけれど、僕も自分の重たい瞼に耐えることが出来なくて、そのまま眠ってしまった。


 翌朝目が覚めると、僕はベンチに一人で寝転んでいた。二郎が僕の顔を覗き込んで、

「おはよう翔君。こんな所で寝ていたの?はい、朝ごはん。」

と言ってハムサンドイッチと紙パックのオレンジジュースをくれた。

「あ、ありがとう。いててて、なんか腕が痺れてる。うん、星を見ていたんだ。なんか寝られなくて。凄かったよ、天の川。でもそのうち寝ちゃったみたい。あれ、今何時?」

「今、まだ朝の四時半。皆順番にシャワーを浴びている。五時過ぎには出発するってさ。翔君は昨夜シャワーを浴びているから支度も早いよね?」

「うん、ジョーは?」

「ジョーとランス叔父さんは馬達をトレーラーに乗せている所。」

二郎はテキパキと部屋を片付けている。僕も痺れた右腕を二、三回振ると、起き上がってベンチを元の位置に戻した。その時ジョーがドアを開けて入ってきた。

「おはようトント、準備はできているか?今日も八時間くらいかかるけど、モアブに到着するぞ。そうしたら、知り合いが持っているゲストハウスに泊めてもらえることになっているからな。今日の景色はすごいぞ。楽しみにしとけ。もう準備ができているスーツケースはドアの脇に置いといて。順番にトラックに積むから。」

僕はベッドからシーツと枕カバーを外して、指定の洗濯物用バスケットに投げ入れた。


確かに、この日のドライブは見たことのない景色が約七時間続いた。基本的に、山道を走り続けたのだけれど、山といってもやっぱり高い木は皆無で、そそり立つ岩山の間を走り抜けていく、そういう感じだった。休憩所は皆無で、途中キューバという半分廃れたような村で、インディアンのオーナーが経営する小さなコンビニエンスストアに立ち寄った以外は、四時間走った所にあるファーミントンという街まで、岩山以外何も目にしなかった。ファーミントンの街は山間のちょっとしたリゾート地で、大きなチェーンのホテルがいくつもあった。でも、街の雰囲気はどちらかというとメキシコというか、インディアンの街という風情。店の軒下に掲げられているサインがインカ王国の印みたいなやつだったり、トーテムポールがそこ此処に立っていたりする。標高が高いせいか、車に積んであった水のペットボトルやポテトチップの袋がパンパンに膨らんでいる。僕が一つ不思議に思ったのは、道中何もない所に、突然高級ホテルみたいなカジノが現れる事。インディアン達はギャンブル好きっていう話は聞いたことがあったけれど、本当にこんなに何もない山中に、突然カジノだけが現れるというのはちょっと異様な風景だった。しかも、どこを見回したって家なんて一軒も無かったのに、カジノの駐車場は案外混んでいる。この客はどこから来た人たちなのか。結構遠くからもギャンブルのためだけに来るのかもしれない。

「スーン、マイホーム。」

アミトラはトラックを降りると、うーんと背伸びをして言った。僕たちはファーミントンの街で休憩のために博物館の駐車場に車を停めた。太陽の光が、とても強い。というか、太陽が近い。イカロスの翼だって溶けそうな感じだ。サングラスを持っていない僕は、少し目が痛くなりそうなくらい、光が明るい。無料の小さな恐竜博物館だったので、僕達は気晴らしに中に入って涼みながらブラブラした。東京だったらなんて事はない、学校帰りの気晴らしみたいなものだけど、こんなに周りが岩山のみの、コンビニエンスストアだって車で三時間に一つしかないような場所ではとても特別なオアシスに感じた。なんでもこの辺りでは恐竜の化石がたくさん見つかっているらしい。ここには大きなティラノサウルスの化石標本のレプリカが飾られていた。アミトラは昨日よりもずっと嬉しそうにご機嫌にしている。この間まで闇の麻業者にこき使われていたようにはとても見えない。人は見た目で判断してはいけない、というのは、ぱっと見からじゃあその人がどんな苦労をしているかとか、どんな悲しみが心に溢れているかがわからないからだと思う。笑っているからといって恵まれて幸せに生きてきたとは限らないのだ。ファーミントンの街を出発すると、いよいよインディアンリザベーションの村が見えてきた。岩山の高台の上に、少し平坦になった場所があり、そこにナバホ族のインディアンだけが住む村がある。そして、そのすぐ外には、やっぱり巨大なカジノがそびえ立つ。アミトラのお父さんは、あそこでお酒とギャンブルに溺れていたんだろうか、僕が窓の外を見ながらそんなことを漠然と考えていると、窓際に座っていたアミトラの頬を水滴がツーっと伝い落ちた。今日の彼女は笑ったり泣いたり、くるくると表情が変わる。言葉が通じれば、もっと話が聞けるのにな、僕はちょっと残念に思った。すると、アミトラは僕の袖を引っ張り、村の入り口を指差した。

「マイ・ホーム。」

彼女は頬の涙を手のひらで拭うと笑って僕に言った。僕は何て返事をすれば良いかわからなかったので、微笑んで頷いた。そこが故郷でも、僕みたいに母さんが美味しいご飯を用意して待ってくれているわけでも、父さんが一緒にゲームしようって誘ってくれるわけでもない。それでも、自分が生まれた場所は、<マイホーム>で、涙が出るくらい帰ってきたことが嬉しいんだろうか。


モアブの街では、また全く違う風景が待ち受けていた。突然、辺りは赤い岩一色になった。今までの、灰色の岩石に濃い緑色の乾いた草が生えている様子から、岩の色が赤土色に変わり、道は断層がむき出しになった切り通しの間をくねくねと走っていく。時間はちょうど昼を過ぎた頃で、真っ青な空には雲一つなく、赤い岩と青い空の境界線がくっきりとコントラストを描き、それが延々と波のように続いてゆく。道の遥か先まで、同じような絶壁の赤い岩はそびえ立ち、遠くの方は霧に浮かぶ蜃気楼のように少しもやがかかって見えた。

「モアブに着いたぞ。すごいだろう。」

ジョーが振り返って言った。

「この街は、アウトドアマニアの観光名所で、砂漠みたいなところをジープで走るツアーとか、マウンテンバイクでこの赤土の岩の尾根を走るクレイジーな連中とか、カヌーで急流を落ちていくのを楽しむ人とかが世界中から集まってくる。ロデオは昨日から始まってるんだけど、ヘンリエッタと二郎が出場するパジェントは明日。楽しみだな。」

テリーマンはトラックを大きな教会の駐車場に停めた。

「ここ、知り合いの牧師さんの教会。ゲストハウスがあるから、今日はそこに泊まるよ。」

僕はトラックを降りると、あまりの眩しさと気温の高さに立ちくらみがした。二郎が僕の腕を掴むと、

「翔君、大丈夫?車酔いした?ここは標高も高いから、慣れないと気分が悪くなる人もいるんだ。」

と言って、僕に肩を貸してくれた。

「うん、しばらくつかまっていれば大丈夫だと思う。暑いね、太陽に焼かれる感じがする。」

腕に当たる日光は、僕の肌をジリジリと焦がしている。吹き付ける風は乾いていて、相変わらずドライヤーに吹かれているみたいだ。後頭部をトンカチでガツンとやられたような突然の頭痛がしたので、僕が口元を押さえて目をつぶっていると、

「ほら、こういう時のための、カウボーイハットだ。」

そう言ってジョーがカウボーイハットを僕の頭に乗せた。

「トントも初めての事ばっかりで疲れたんじゃない?今日は一人ずつベッドもあるし、ゆっくり休みなよ。ここまで来て具合悪くなったらつまんないでしょ。」

姫がレモネードを差し出してくれた。僕はその言葉に甘えて、とりあえず昼寝をする事にした。

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