第7話 教会と銀歯

僕はジョーが扉をバタンバタン言わせてキャビンに入ってくる音で目が覚めた。ジョーは寝室に入ると、カウボーイハットを自分のベッドの上に投げて、泥だらけのシャツを床に脱ぎ捨てた。

「あー、もうスゲー疲れた。ちょっとシャワー浴びてくるわ。」

寝ぼけて起き上がった僕と目が合ったジョーはそう言って、新しいTシャツと短パンを掴んで出て行った。ジョーが帰ってきた、ってことはそろそろ夕飯なのかな。僕はベッドから降りて伸びをすると壁にかかっている鳩時計を見た。ちょうど夕方の五時を過ぎた所。時差ボケでやっぱり怠いので、僕はキッチンに行って顔を洗った。僕が冷蔵庫の中を覗いていると、二郎も起きてきた。頭の後ろがワイルドな寝癖になっている。僕がペットボトルの水を飲みながら、頭の後ろ、髪すごいぞ、と手で合図すると、

「ああ、そろそろ切らないとな。ちょっと伸び過ぎてるよね。前髪なんかメガネにかかっちゃうし。僕にもお水パスしてくれる?」

と言ってテーブルの椅子に座った。僕はペットボトルの水を一本、二郎に渡した。

「いっそ、ジョーみたいに横側を刈り上げて、上の方ももっと短くしようかな、なんかかっこいいじゃん、男らしくて。ピーターもそんな感じだったし。よし、思い立ったが吉日。ジョーにバリカンが無いか聞いてくる。」

二郎は立ち上がりシャワールームに行くと、暫くしてバリカン片手に戻ってきた。ジョーもサッパリした様子で髪の毛をタオルで拭きながらキッチンに来ると、

「トント、水頂戴。」

と言って二郎の後ろに立った。

「よし、じゃあ刈るぞ。」

「うん、宜しく。君みたいなヘアカットにして。」

「姫はお前のミステリアスな感じが好きなんじゃないの?」

僕がニヤニヤしながら言うと、二郎はまた顔を真っ赤にした。

「バーカ。あいつはケイだったらなんだっていいんだよ。見た目に惚れたわけじゃなくて、こいつが何でも簡単に出来ちゃうけど鼻にかけない所が好きなんだってさ。どうせ髪切ったらそれはそれでカッコいいとか言って抱きつかれるぞ。」

ジョーが笑いながら言った。

「それよりトント、お前も髪だいぶ伸び過ぎだぞ。なんか東京じゃどいつもこいつも男のくせに目が隠れるくらい長い髪にしていて、うっとおしい。お前も刈ってやるから、並べ。なんか女々しく耳の脇の髪を撫でている男を見るとイライラするんだ。」

確かに、僕の耳も襟足も髪の毛ですっかり隠れている。こっちにいると暑いから切るのも悪くないかもしれない。

「じゃあ、インディアナ・ジョーンズの若い時のハリソン・フォードみたいにしてくれる?」

と僕が言うと、ジョーは大笑いして言った。

「そりゃあ無理だろ。ウルトラマンパワードのケイン・コスギはどうだ?」

「翔君は、アントマンのポール・ラッドみたいに見えるかもよ。」

髪を刈り終えた二郎が椅子から立ち上がり、肩から髪を払うと振り返って言った。いつも長めの髪と眼鏡で地味に見えた二郎は、サッカー選手のデイビッド・ベッカムみたいにキリッとしてカッコ良くなっていた。

「うわ、二郎、スゲーかっこいいよ。デイビッド・ベッカムみたいだ。ジョー、君、上手だね、髪切るの。」

僕が言うと、ジョーは二郎の頭を前からと横からと切り残しが無いかぐるりとチェックして、笑った。

「モデルがいいんだよ。ヘンリエッタが喜ぶな、こりゃあ。」

その後、僕もお揃いの髪型に切ってもらい、何だか久しぶりに頭がスースーした。小学一年生の時に、母さんが僕の髪を切ろうとして失敗して、仕方なく丸坊主にして以来。僕らは短パンにTシャツ姿で夕飯を食べにロッジに戻った。日が沈むと、辺りは急に涼しくなっていて、ゴルフカートで風を切って走ると、頭と首がちょっと寒く感じた。


夕飯は、夕方に帰ってきた皆は昼のハンバーガー、昼にハンバーガーを食べてしまった僕たちは、ターキーサンドイッチとポテトチップス。朝、昼、晩とパンだと、何だかやっぱり白米が恋しくなってきた。明日はご飯が食べられますように、と食前のお祈りの時間に僕は心の中で祈った。食卓を見回したけれど、あの女の子はいない。姫に聞いたところによると、ぐっすりよく眠っているからとりあえず時々様子を見て、今晩はひたすら寝かせるそうだ。

「そういえば、ジョー、昼間の仕事はどうだったの?迷子の子牛たち、見つかった?」

僕はレモネードを一気飲みすると言った。

「ああ、小さめの二頭は、泥沼にはまって抜け出せなくなっていたんだ。それで、小さいって言っても、とても人間が素手で掴んで引き出せるようなサイズじゃないから、首に縄をかけて、それをトラックの後ろにつないで引っ張り上げたんだ。先週降った雨で出来た泥沼だったんだけど、意外に深くてさ、首まで埋まっちゃっていたから、早く気がつかなかったら死んでたよ。」

「それでドロドロで帰ってきたんだ。」

二郎は姫の熱い視線に赤くなりながら必死に会話に参加している。

「ジャッキーおばさんも、あんたたちは髪短い方が男らしくて良いって!」

姫はポテトチップを頬張りながらニコニコした。もちろん、その片腕は二郎の腕にしっかり絡めてある。まだ四年生なのにこの猛アタック、つくづく二郎も大変だ。僕は、インディアンの女の子の事が気になった。明日になったら話せるかな。

「それで、残りの三頭は?」

姫が身を乗り出してジョーに聞いた。

「あ、それはランディとトマスに聞いて。僕はランスおじさんを手伝っていたから、知らない。でも、見つかったらしいよ。牛泥棒とかじゃなくて良かった、って言っていたから。」

「そう言えば、翔君、明日は日曜日だから、皆と朝、教会に行くことになっているからね。翔君は、おじいちゃんが牧師さんって言っていたっけ?じゃあ慣れているかな。」

二郎がレモネードのお代わりをコップに注ぎながら言った。

「えー、いや、おじいちゃんは北海道だから、一度も行ったことないよ。どんな格好して行けば良い?」

「いつも学校に行くような格好で平気だよ。俺たちはスーツ着ていくけどな。どうせ持ってないだろ?」

ジョーは僕の肩に腕を回すと言った。確かに、七五三の写真は着物だったし、スーツなんて一着も持っていない、と思う。東京に帰ったら母さんに聞いてみよう。


翌朝、ジョーは白地に紺のピンストライプのスーツに赤いネクタイ、二郎は灰色の三ピーススーツに白いシャツ、水色と黄緑のストライプの蝶ネクタイ姿で現れた。その上、姫はウエディングにでも出席するみたいなレースがふわふわと段になった水色のドレスを着ているし、テリーマンも茶色いスーツに赤いネクタイ、カウボーイハットで皆とてもビシッと決めている。僕は、普通の白いポロシャツにチノパン。テキサスの教会ってそんなに着飾って行く場所なのか。ジャッキーさんは、インディアンの女の子の面倒を見なきゃいけないので、家に残ることにした。朝食は全員シリアルで手軽に済ませると、僕たちはテリーマンの巨大な紺のトラックにぞろぞろ乗り込んだ。高速道路を大型トラックと競争するように、すごいスピードで十五分程走った後、青空と草原以外は何も無い荒野にポツンと走る真っ直ぐな道を五分程進むと、突然その街は現れた。西部劇から飛び出してきたような古い街並み。一直線に伸びた広い大通り。その両脇に立ち並ぶ、一続きの煉瓦造りの建物達は店舗ごとに違う色に塗り分けられていて、黄土色、灰色、深緑、くすんだ赤、黄色、と古ぼけた賑やかさがある。階段状に三角やお城の城壁のように高くされた店のファサードには、アンティークとか、GOD BLESS TEXASとか、大きくメガネの絵が描かれていたりする。教会は、その街の中心部に建っていた。古い映画館を改造したもので、外から見ると一九〇〇年代前半のアール・デコなシアターそのものだった。クリーム色の煉瓦造りの建物で、中央に黒い陶器のタイルでタワーが描かれ、両端からタワーの中央に伸びるように、青と赤のタイルで直線の装飾が施されている。入り口の上には、赤い枠で囲まれた、一文字ずつアルファベットをはめ込んでメッセージが書ける、古びた白い掲示板があり、黒いレタリングでこう書かれていた。

「SUNDAY CHURCH 10AM, 11AM, 6PM.

 LOST? TRY G.P.S. (GOD’S PLAN OF SALVATION) ACTS 16:31」

僕はトラックから降りると、しばらくその掲示板を腕を組んだまま見上げていた。すると、後ろから肩をトントンと軽く叩かれた。振り返ると、僕よりほんの少しだけ背の高い老夫婦が、ニコニコしながら立っていた。僕は扉の前に突っ立ていたから邪魔だったのかなと思い、軽くお辞儀をすると一歩下がった。おじいさんは赤いワイシャツの上に、革紐に銀製の星がついたボロタイをして、黒のジーンズ、そして両脇が高く跳ね上がった白いカウボーイハットを被っている。おばあさんは、お揃いの赤いワイシャツに、くるぶしまである民族衣装っぽい黒いロングスカートを履いて、腰まである長い髪は二つのお下げ髪に結われている。二人とも色黒で、顔に深いシワが沢山刻まれている。おじいさんは、右手を僕に差し出して言った。

「ハロー、ニホンジン?」

僕は驚いて握手をすると、

「あ、はい。」

と言った。するとおばあさんが、

「コニチワ、トーキョー、スンデマシタ。」

と言って微笑んだ。僕はこんな荒野のど真ん中で、まさか日本語で話しかけられるとは思っていなかったので逆にドギマギしてしまった。

「あ、僕も、東京です。翔って言います。」

僕がまたお辞儀をすると、おじいさんは明るくハッハッハ、と笑ってお辞儀を返してくれた。

「ドゾ、ヨロシク。シルバートゥース、デス。ギンノ、ハ。」

そう言って口を開いて銀歯を指差して笑った。僕は、思い切って看板を指差して、聞いてみた。

「アー、ウァッツ ザ、ミーニング?ディス、サイン?」

おじいさんは眉毛を上げて、眩しそうに看板を見上げると言った。

「ジーザス、アナタノ、ハート、ノック、シテマス。カミサマ、アナタ、アイシテマス。」

そしてゴツゴツした震える指で天を差してから、自分の心臓の辺りに両手でハートの形を作ると、僕の胸元を軽くつつき、そしてお祈りするように手を合わせた。その後、腕時計を指差すと、親指で入り口を示しながら、

「レッツ、ゴー。」

と言った。シルバートゥース夫妻は、腕を絡めてゆっくりと歩いて建物に入った。建物内部は白、黒、赤の三色でモダンな内装に改築されている。正面の受付デスクには小太りの金髪のおばさんたちが二人座って、楽しそうにおしゃべりしている。その両脇に礼拝堂に続く二つの大きな扉がある。僕が皆はどこだろうと思いキョロキョロしていると、入り口のすぐ脇にある男子トイレからジョーが出てきて言った。

「おい、どこ行ったかと思ったぞ。ハイ、グッモーニン、ミスター アンド ミセス シルバートゥース。なんだ、丁度紹介しようと思っていたんだ。もう話したのか?」

僕が頷くと、二郎が礼拝堂の入り口から何か慌てた様子で顔を出した。

「あれ、どこ行ってたの翔君、いきなり消えちゃうからどうしたかと思ったよ。ねえ、ジョー、今、牧師さんにピアニストが休みだから、代わりに弾いてくれって頼まれちゃったんだけど、ちょっといつもの礼拝の様子のユーチューブ映像とかないかな。いつもどんなノリで弾いているのかを確認してからじゃないと、弾きづらいからさ。」

「あー、ヘンリエッタに聞いてみて。友達がスマホを持っているんじゃ無いかな。」

二郎は、あ、そう、というと足早に姫を探しに行ってしまった。

「あの人達、シルバートゥースさん、日本語で話しかけられてびっくりしちゃった。」

僕が言うと、ジョーは白い歯をニカッと見せて言った。

「そうなんだよ、じいさんの方は太平洋戦争中に活躍した、伝説のコードトーカーだ。今、もう八十九歳。奥さんの方は十歳下だったから、七十九歳かな。ナバホ暗号部隊の隊員だったんだぞ。知ってるか?ナバホ語を基にして作られた特別の暗号通信をしてアメリカの勝利に一役買った、ナバホ族のインディアンだ。戦後しばらく東京で仕事をしていたんだって。昔は日本語もペラペラだったらしいよ。今日、礼拝の後、ご夫婦で家に来てくださる。家で保護している女の子と話せる人達は、知り合いにはシルバートゥースさん達しか思いつかなかった。もっと聞きたいなあ、日本でどんな仕事をしていたのか。」

ジョーの目が興奮してキラキラ輝いている。ジョーは戦争とか銃とか政治とかの話をするのが大好きだ。母親がアメリカ人のカウガールで、父親が日本人の企業マンだから、戦争の話とかするときはどっちの視点から物事を見るのかがいつも気になるんだけど、どっちの味方とかそういう感情は特に無くて、色んな角度から世界の歴史を話してくれる。

「お、もう始まるぞ。席につこう。」

ジョーは僕の肩に腕を回すと中央のあたりの席を指差した。礼拝堂の中は、古い劇場そのままに小豆色の古ぼけたベルベッド貼りの椅子が、緩やかな弧を描いて並んでいる。座席は半分くらい埋まっているから、ざっと百人以上は集まっていると思う。こんな荒野の只中の田舎町で、日曜の朝にこれだけの人が集まっている事に僕はびっくりした。男性陣は子供から老人まで皆スーツか、カウボーイルックで、女性達は皆素敵なカジュアルドレスか、ブラウスにスラックスといった涼しそうな格好をしている。皆大きな声で楽しげにおしゃべりしていて、とても和やかな雰囲気。僕はジョーと前から五列目の真ん中辺りに座った。二階席まである高い天井は、最近の防音壁に作り変えられているけれど、舞台を囲むように作られた装飾はアール・デコ独特の扇がたくさん積まれたようなパターンで黒と金に彩られている。

「あれ、皆は?」

僕が周りを見回しながら聞くと、ジョーは舞台の上を指差した。二郎がグランドピアノ、テリーマンは聖書を片手に三人のおじさん達と舞台上の椅子に座っている。姫は一番前の席で同じ歳くらいの女の子達と一緒にいて、二郎を指差しながら嬉しそうに騒いでいる。きっと、『あれ私のジャパニーズ・ボーイフレンド』とか言っちゃってるんだろうな。テリーマンが席を立ち、教壇にやってきた。ニコニコしながら相変わらずの早口で挨拶をすると、周りの人たちが皆立ち上がった。二郎はテリーマンのリードに合わせてノリ良く『アメージング・グレース』を弾き始めた。こんなに有名な曲なら僕でも知っている。聖歌の本を持って、老若男女声を合わせて歌うのは初めてだ。二郎は微笑みながら嬉しそうにピアノを弾いていて、僕もそれを聞きながら、ピアノと大勢の声が一つになるのはとても美しいなぁと思った。賛美歌、って言うくらいだから、これは神様に捧げている賛美なのだ。そういえば昔、牧師のおじいちゃんが、天国では天使達が神様に向かって絶え間なく『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』って、賛美しているんだって言っていた。僕の貧相な想像力でも、雲の上で光がバァーっと射していて、天使達がものすごい眩しい光の周りに集まってひれ伏している神々しいシーンを思い描いていた。今こうやって色んな声が集まって、心がぽかぽか暖かいのも、同じ『光』を感じているからなんじゃないだろうか。横を見ると、ジョーは歌を覚えているらしくて、本も持たずにニコニコしながら歌っているし、前方の席ではハンカチで涙を拭いているお婆さんもいる。舞台の上で二郎はテリーマンの指示に頷きながらピアノを弾きつつ余裕で英語で返事をしたりしていて、本当にカッコいい。何曲か聖歌を歌った後、牧師さんが新約聖書から天国についての話をした。当然僕には聞き取れないから、ジョーが通訳してくれて、すごく良くわかった。ずっと、自分の<悪い行い>と<良い行い>が天秤に掛かっていて、悪い方が多かったら地獄に落とされちゃうんじゃないか、と漠然と思っていたけど、そうじゃないらしい。人間を創造された神様は僕らの心の中まで見透かしていてご存知だ。残念なことに、最初の人間のアダムが神様の命令に背いてはじめて<罪>を犯して、楽園から追い出されてしまって以来、アダムとイブから生まれた全ての人間達は、その<罪>の遺伝子を持って生まれてくるようになってしまった。だから、そんな人間が<聖なる>神様のいる天国に行くには、神様の正しさを自分たちの<罪>に覆いかぶせてもらわなくちゃいけない。そしてその罪とは、<聖なる生贄>によってのみ許されるもので、神の御子であるイエス・キリストが十字架にかかって死ぬことによって、人間達の<罪の身代わり>として、罪の代償を支払われた。こうして人間と神の橋渡しをして下さったそうだ。自分の聖なる命を、罪深い人間達の身代わりに捧げて下さった、これが、<偉大な神の愛>というやつなのだ。イエス・キリストって、今までなんとなく十字架の上で苦しそうにしている人、っていうイメージがあったのだけど、神様ご自身が地上にやって来た姿で、だから人を蘇らせる奇跡とかを地上で見せる事ができたわけだ。僕がいつも考えていた、なんでイエス・キリストを信じると天国に行けるっていう言い方をするんだろう、って心にモヤモヤしていた疑問が、霧が晴れるようにサーっと理解できて、すごく嬉しかった。まさに、目からウロコが落ちた。考えてみれば、母方のおじいちゃんは牧師、父方のおじいちゃんは神官だったら、僕ももっと神様について考えるべきなのは当然じゃないか。二郎もジョーも、口を揃えて信仰を持っていない奴は世界で通用しない、って言うし。それが二人の親の受け売りだとすると、確かにどちらの親御さん達も世界の舞台で大活躍している。だから、説得力がある。でも、僕の東京の生活は学校と塾と映画と本で埋まっている。言ってみれば、世俗的な事で満足した僕の心は、天の事など考えようともしなかった。教会の入り口でシルバートゥースさんに小突かれた心臓が、熱を持ってドキドキしていて、僕はそっと両手で自分の鼓動を感じた。


キャビンに戻ると、僕達はまずTシャツ短パン姿に戻った。そしていつものように三人でゴルフカートを飛ばしてロッジに向かった。丁度、シルバートゥース夫妻が到着した所で、ジョーはゴルフカートから飛び降りると素早く走っていって、彼らのために扉を開けた。僕らがキッチンに入ると、あの少女がカウンター席に座ってレモネードを飲んでいた。よく日焼けした細い腕と首。キリッとした濃い眉毛、長い睫毛の真っ黒で大きな瞳、丸くて小さな鼻に赤くて薄い唇。二本の長いお下げ髪は腰の辺りで揺れている。会った時に着ていた民族衣装ではなくて、姫の赤と白のストライプのワンピースを着ていて、ガラリと印象が変わっている。僕らがシルバートゥース夫妻をキッチンに通すと、少女は驚いたように目を丸くした後、高いバーチェアから飛び降りて言った。

「ヤハアテ」

シルバートゥース夫妻も、彼女を見て微笑むと、

「サッチ ア サプライズ トゥ スィー ア ナバホ ヒア!」

と言って頷いた。昼食はポットロースト、ビスケット、マカロニサラダとデザートはチョコレートブラウニーズだった。シルバートゥース夫妻は、少女からナバホ語で話を聞くと、それをいちいち英語で説明してくれて、それを二郎が僕に日本語で話してくれた。その内容を要約するとこのようになる。

 

  少女の名前は、アミトラ。虹のような、という意味だそうだ。現在九歳で、出身はユタ州のモアブという町の近くにある、インディアン・リザベーション。母親は彼女が赤ん坊のうちに病気で亡くなり、父親は酒とギャンブル中毒で更生施設に送られた。五歳までは叔母の家で育てられたけれど、叔母が結婚して引っ越してしまったためにリザベーション内の孤児院に入れられた。その後、八歳の誕生日にテキサスの里親に引き取られる事が決まり、ダラスの郊外に住み始めた。しかしそこは、保護精神の元に里親業務をしているのではなく、あくまでも政府からの補助金目当ての場所だった。アミトラの他にも三人の女の里子が住んでいて、四畳程の狭い部屋に二台の二段ベッドがあり、そこに四人で寝かされた。毎日、麻の栽培、収穫、織物などの過酷な内職をやらされて、学校にも行かせてもらえない日々が続いていた。他の少女達はアミトラよりも年上で、十六歳、十五歳、十二歳だった。三人ともアミトラと同じようにインディアンで、部族は違ったけれど、コミュニケーションは取れた。アミトラが英語をあまり話せないのは、里親を装った闇の麻業者が、その方が都合が良いからという理由でわざと教えなかったらしい。一日の仕事は、朝食後の麻の刈り取り、糸を作る工程の手伝い、染色、そして織物と曜日によって色々だった。施設に引き取られてから半年程たったある朝、十六歳の少女が忽然と消えていた。いつも世話係として色々手伝ってくれたその少女が、どこを探してもいなかった。十五歳の少女はその理由を知っていたらしく、アミトラともう一人の少女に、ともかく機会を狙ってここから逃げるように、と教えた。それから二週間後、十五歳の少女もある朝突然いなくなった。アミトラはそれまで過酷な労働はあるにせよ、一日三回まともな食事にありつけて、シャワーや清潔なベッドがある生活を苦には思っていなかった。父親がギャンブルでろくに家に戻らず、近所のコンビニエンスストアの従業員から売れ残りのサンドイッチを恵んでもらったりして、なんとか生き伸びていた頃よりはずっとマシだと感じていた。けれど、年上の二人が忽然と理由も告げずに消えてしまい、残された二人は怖くなった。その施設を仕切っていたのは、小太りの他部族のインディアンのおばさんで、眉間にいつも深い皺を寄せ、目の下から頬にかけて細長い三角形の黒い刺青が入っていた。彼女は様々な色の重たそうなパワーストーンを首飾りと腕輪にして、毎晩“月のスピリット”と対話をしていた。一度、夜中に彼女の部屋の前を通りかかった時、薄暗い月明かりの下で、大きなクリスタルの前に細いろうそくを灯して何かブツブツ言っている様子を見て、背筋がゾッとした事がある。とても大きな暗い影がその部屋に満ちているような感じがしたからだ。それから三日後、明け方にキコキコと古い自転車を漕ぐような不思議な物音がしたので目が覚めた。時計を見るとまだ午前三時半だった。隣のベッドを見ると、誰もいない。部屋にはアミトラ一人になっていて、扉には外側から鍵がかけられていた。騒いで見つかっても怖いので、アミトラはそっとカーテンの端から窓の外をのぞいた。巨大な満月の明るい夜だった。星はいつものように空一面を覆うように輝いていた。音のする方を覗くと、十二歳のルームメートが車椅子に乗せられて大型のバンに積み込まれているところだった。彼女は寝ているようだった。聞こえていたのは、車椅子の車輪が軋む音だったのだ。トラックは静かに後ろの扉を閉めると、音も立てずに出発して行った。こうやって、他の二人も知らないうちに消えていったんだ、と思った。十五歳の少女が真剣な眼差しで言った、『早く逃げるのよ。』という言葉が頭の中で鳴り響いた。その日の朝、アミトラは何事も無かったように朝食を食べ、麻の収穫に畑に出た。アミトラよりも背が高く伸びた麻畑は、姿を隠してしまうのにちょうどよかった。細い裏道に面した、ひっそりとした荒野にその畑はあったので、車が通ることなど滅多と無かった。でもその日は違った。小型のピックアップトラックが、沢山の藁のブロックを積んで目の前に停まっていた。アミトラはためらわずに垣根をくぐると、トラックの荷台に忍び込んで藁の間に隠れた。タバコを吸っていた運転手はアミトラには気付かずに、すぐに出発した。このトラックがどこまで行くのかも、どちらの方向に進んでいるのかもわからなかったけれど、ともかく施設から脱出出来ればなんとかなるかもしれないと思った。朝の三時半から起きていたせいか、トラックの揺れと藁の甘い香りが心地良くて眠ってしまった。太陽の光がジリジリと後頭部を焼く感覚で目が覚めた。軽トラックはガソリンスタンドの駐車場に停まっていた。そっと藁の間から覗くと、運転手の姿は車内に無かった。太陽は南中を過ぎていたけれど、まだ日の入りには遠い位置にある。きっと午後二時半くらいだろう。アミトラは思った。このトラックがリザベーションまで行ってくれれば、孤児院に帰れるけれど、ここがどこかわからない。少なくとも四時間半は走ったはずだ。アミトラはとりあえず荷台から飛び降りた。お腹もペコペコだったけれど、ここで誰かに見つかったら、施設に連れ戻されてしまうかもしれない。その時、運転手が戻って来て、乗っていた軽トラックはあっという間に去ってしまった。アミトラはガソリンスタンドの隣にあったコンビニエンス・ストアの裏手に回ると、牧場の柵らしきものを乗り越えて、人のいなさそうな方向に向かって走った。しばらくすると、水が少しだけ流れる川があった。真っ赤な土壌に大雨でできた水の跡のような、川。迷子になったら、川をたどって戻ってくるんだよ、小さい頃父親に言われた言葉を思い出し、ともかく川上へ進んでみよう、そう思った。喉も渇いていたけれど、川の水は赤土でドロドロしていて、とても飲めそうにない。ひたすら歩き続けて夕陽が沈みそうになった頃、小さなため池を見つけた。アミトラは顔を洗い、水を飲んだけれど、お腹が空き過ぎてもう一歩も歩けない気がした。どこか寝転がれる所がないかと見回すと、ため池の裏に小さな小屋のようなものがあった。屋根もあり、ベッドになりそうな木材もあったので、そこで一晩を過ごす事にした。狼とかが出ませんように、リザベーションにたどり着けますように、そう手を合わせて祈ってから眠った。次に目を開けた時、小さな車で揺られていて、東洋人の男の子が心配そうに顔を覗き込んでいた。


「それ、翔くんの事だよね。」

二郎はレモネードをストローですすりながら僕を横目で見た。

「よっぽど顔を近づけて見ていたんじゃないの。」

ジョーがニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んだ。

「いやあ、可愛いなあ、と思って、つい。」

僕は首の後ろとほっぺたが熱くなるのを感じた。

「あら、トントも赤くなったりするんだ。」

姫がブラウニーを配りながら僕の席の後ろを通って言った。

「キャビンのシャワールームに飾ってあった絵の、民族衣装を着た女の子が飛び出してきたみたいだと思ったんだ。それで、睫毛が長いなあと、なんかじっと見ちゃった、というか。ともかく、もう元気そうで良かったね。」

すると、ジョーが僕と二郎の肩を抱いて言った。

「そこで、だ。ランス叔父さんとも話したんだけど、ユタ州のモアブでロデオ大会がある。そこにビジネスで行くついで、と言うことで彼女を故郷に連れて行ってやることにしようと思う。実はランスとジャッキーは、子供が男の子三人だから女の子を養子にしようか、って言う話をしている所だったらしい。そこでこの娘が現れた。でも、なんか色々問題がありそうだから、一度彼女の出身地の孤児院に行って、きちんと調べたいんだって。だから、みんなで行くぞ。もちろん、ジャッキーと息子達三人はこっちの仕事をしていないといけないから、叔父さんと、俺たち四人がこの娘をリザベーションまで連れて行こう、って言うことになってる。面白そうだろ?」

ジョーの鼻息が荒い。と言うことは、何か特別な場所に行くって言うことなのだろうか。僕がジョーを訝しげに眺めていると、二郎が嬉しそうに言った。

「モアブに行かれるの?それはすごいな。翔君、モアブっていうのは、絶景なことで有名な場所なんだ。グランドキャニオンの始まりの場所、って言われていて、真っ赤な岩が連なって、谷やアーチを形成している。それはもう、一生に一度の冒険だよ。」

二郎に言われると、俄然説得力がある。

「そうなんだ、いいね、冒険クラブらしくなって来たね。」

僕もなんだかワクワクして、ブラウニーを力一杯頬張った。

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