第5話 タコスとホースライディング

ダラスの中心部を通り過ぎると、景色は一変した。トラックの窓から見えるのはどこまでも続く平らで黄土色の荒野、濃い緑色の低木、泥水の溜まった湿地、立ち焦げた灌木の群れ、それらを背景にしてあちこちで大きな金槌のような形をした油井のポンプジャックがゆっくりと上下して、オレンジ色に染まる夕焼け空に影を落としている。建物は見渡す限り一切無い。後ろを振り返っても、遠くにダラスのシティラインが小さく黒いレゴブロックのようにポツンと見えるだけ。東京生まれ育ちの僕には、こんなに何も無い風景は、広すぎてなんだか不安になる。空に飲み込まれてしまいそうだ。ずっと続く同じ様な景色に飽きてしまい僕もウトウトしていると、急に道がガタガタになった。目を擦って窓の外を見ると、ちょうど大きな鉄の門をくぐるところだった。門の上には〈☆RED CREEK RANCH☆〉と鋼でできたレタリングが施されている。トラックが門の中に入ると、ギギギと音を立てて門は自動的に閉まった。レッド・クリーク・ランチって書いてあったな。いくら僕でも、その位の単語は塾でやったから読める。ガタガタしていたのは、門の所にわざと作られた溝みたいなもののせいだった。道は美しく舗装されていて、まっすぐと大きなお屋敷に向かっている。辺りはもう薄暗くて、トラックのヘッドライトが道と正面を照らす以外は、まわりに何があるのかあまりわからなかった。大きなお屋敷の前を左に曲がると、そこには小さなキャビンがあった。テリーマンは、トラックをその前で止めると、早口でジョーに何かを言って、ドアを開き運転席から飛び降りた。そして僕らのスーツケースを軽々と持つと、キャビンの扉を開けて中に入った。

「ついたぞ。」

ジョーも車のドアを開けて、助手席から飛び降りた。

「このトラック、車高が高いからな、気をつけて降りろ。ここが俺たちのキャビンだ。」

半分寝ぼけた二郎の肩を揺さぶって起こすと、ジョーは僕らを小さなログハウスの中に案内した。テリーマンは、カウボーイブーツをゴトンゴトン言わせながら手を振ると、キャビンを出て行った。

「今、夕方の五時で、夕飯は七時の予定だって。あと二時間もあるから、まずはスーツケースを開けて、シャワー浴びたり着替えたりしたいだろ。このキャビンは俺たち三人の寝室ってことで、好きに使って良いって。案内するよ。」

ジョーはカウボーイブーツをドアの所に脱ぎ捨てると、スリッパに履き替えた。

「これだけは慣れないよな。俺、家の中では靴は履いていたくないんだよね。なんか床に外の泥とか耐えられないんだよ。」

「あはは、君にも日本人らしい所があるんだね。」

二郎はそう言うと、オニツカタイガーのスニーカーをドアの脇にきちんと揃えて置き、立派な皮の室内履きに履き替えた。僕は、母さんがトランクに入れてくれた百円ショップのスリッパに履き替えた。

「あ、そうだ。いくら室内でも、たまにスコーピオンが入ってきたり、毒蜘蛛がいたり、毒蛇に出会っちゃったりすることもあるから、裸足では歩くなよ。何かを踏みつけられるものを履いておけ。じゃあ、まず寝室から案内するぞ。」

今、随分サラリとすごい事を言ってのけたよな。サソリなんか実物を見た事ないし、毒蜘蛛やら毒ヘビなんて図鑑の中の生き物じゃなかったのか。僕はあまり深く考えないようにすることにした。最初の部屋には、壁際に立派なログで出来た二段ベッド、それと部屋の反対側にはシングルベッドがあった。

「寝室。俺、朝手伝いがあってすごい早起きしなきゃいけないから、シングルベッドで寝るからな。お前達が二段ベッドだぞ。」

ジョーはかぶっていた茶色いカウボーイハットをシングルベッドの上に投げた。

次はキッチン。壁は一面若草色で塗られ、天井に近いところにぐるりと一周、牛のパターンが施されている。僕の背丈より少し低い小さな冷蔵庫、電子レンジ、白い深いシンク、そして巨大なオーブンと電気コンロ。その脇には皿洗い機と大きなゴミ箱がある。

「食事は、三食ともロッジに行ってみんなと食べる。でも、おやつとか夜食とかはそこのバスケットと冷蔵庫に入っているから好きに食べなさいって、叔母さんが。」

古びた丸い木製のキッチンテーブルの上には、大きな藤編みのバスケットが置いてあり、コーンフレーク、ポテトチップ、ポップコーン、コーンチップとサルサの瓶、ビーフジャーキー、シリアルバー、バナナ、リンゴ、アボガド、キャンディ、缶入りバタークッキー、そしてアイラブ・テキサスの板チョコレートがドッサリ入っている。その真ん中には、ハート形のピンク色の紙に、WELCOME♡と手書きのメモがあった。

「ジョーの叔父様と叔母様、名前なんだっけ?」

二郎が冷蔵庫を開きながら聞いた。

「ランスと、ジャッキー。」

ジョーは大きなポテトチップの袋をバリバリと開けながら答えた。冷蔵庫の中には、僕の頭の大きさくらいある巨大な牛乳のボトル、オレンジジュース、そして水のペットボトルがぎっしり詰められている。冷凍庫を開けると、箱入りのピザ、アメリカンドッグ、ハンバーガー、そしてランドセルの半分くらいはありそうな巨大なアイスクリームの箱が入っていた。

「じゃあ、次はバスルーム。」

ジョーは手についた塩をジーンズのお尻で拭くと、廊下の向こう側を指差した。バスルームの壁は、鮮やかなオレンジ色で塗られていて、蔦の飾りで彩られた大きな鏡、そして金色の足のついた白い古めかしいバスタブ、それとトイレがあった。

「僕、先にシャワー浴びても良い?」

二郎は待ってましたとばかりに嬉しそうな声で言った。二郎は、さっさとシャワーを浴びると二段ベッドの上を陣取って寝てしまった。僕もスターウォーズのTシャツと短パンを持ってバスルームに行った。バスタブの中でシャワーを浴びるのは初めてだ。僕は床に水をこぼさないように、深いバスタブに座り込んで髪を洗った。トイレの後ろの壁には、絵が飾られている。アメリカ原住民の女の子の絵だ。褐色の肌、濃くて長い睫毛、真っ直ぐに腰まで伸びた黒髪に、色とりどりのヘアバンドをしている。赤と、青と、緑色のストライプが入った、黄色い織物のドレスを着て、大きな赤い花を口にくわえている。きりりと気が強そうな眼差しで、何かを睨んでいるみたい。綺麗だな、と僕は思った。


その後、僕もすっかりベッドで眠り込んでしまい、夕飯を逃した。けれど、時差のせいで二郎と僕は午前三時にはお腹が空いて目が覚めた。僕らは寝ているジョーを起こさないように、足音を立てずにコソコソと二人でキッチンに行った。窓の外はまだ真っ暗で、遮る物が何も無い空に無数の星が瞬いている。二郎と僕は、キッチンの電気をつけずにしばらく星空の美しさに見とれていた。真っ暗な空間に、クリスタルのようにキラキラと点がたくさん輝いている。この夜空は、一体どこまで続いているのだろう。

「静かだね。」

「東京じゃ、こうはいかないね。」

「うん、プラネタリウムみたいだ。」

「あれ、さそり座、じゃないかな。あんまり星は詳しくないんだけど。」

二郎は赤いメガネを上下させながら、目を細めて言った。ふと見ると、隣にあるロッジの明かりはもうついている。こんな時間から起きている人がいるのか、それとも夜更かししているのか。

「お腹空いたね。でも、四時過ぎにはジョーも起きてきて、四時半にはロッジで朝ごはんだからね。」

「え?そんなに早いの?でもお腹空いたから、僕はとりあえずこのバナナでも食べようかな。」

僕は重たいオレンジジュースのボトルを冷蔵庫から取り出した。

「僕は、ビーフジャーキー。タンパク質が欲しい。」

二郎も大きなバスケットからビーフジャーキーの袋を取り出した。僕たちはとりあえず最初の食事を、オレンジジュースで乾杯した。


間も無くジョーもボサボサの頭で起きてきて、オレンジジュースを一杯一気飲みすると、言った。

「よし、支度するぞ。お前達の服も、ジャッキーが俺の従兄弟のお下がりをどっさり持ってきてくれた。トント、ローンレンジャーのサイドキックになるための修行開始だ。」

こうして、僕は青いチェックのヨレヨレのネルシャツにジーンズ、バックルに大きな星のついた革ベルト、そして古びた茶色のカウボーイブーツを履いた。二郎は何枚か選り好みをした後、古びた赤い縦ストライプのワイシャツ、色あせたジーンズ、バックルにテキサスの形が彫られた革ベルト、そして埃だらけの黒いカウボーイブーツを履いた。正面のドアを出る前に、ジョーは僕には茶色の、二郎には黒のカウボーイハットを投げてよこした。外に一歩出ると、まだ暗くて、空気もひんやりと冷たい。ザーッと辺りの草を鳴らして吹いてくる風は、土埃と動物と、ベーコンの匂いがした。ジョーは僕らをキャビンの前に停められていたゴルフカートに乗せると言った。

「まだ車は運転できないから、俺たちの足は、このゴルフカートだからな。」

「ベーコンのいい匂いがするね。朝食が楽しみだなあ。」

二郎はお腹をさすりながらニコニコして言った。

「アメリカの牧場で食べる朝食は大好きなんだ。」

母屋のロッジは平屋のお屋敷で、中央に両開きの玄関があり、ドアには自転車のタイヤの大きさくらいの立派なリースが二つぶら下がっている。もちろんその花輪のリースの真ん中にはテキサス州の形をした板に、I♡TEXASと赤い文字で書かれている。ジョーが扉をノックすると、姫が元気よく扉を開けて、二郎に飛びついた。

「ケイ、アイ・ミスチュー!嬉しい、ジャッキーに紹介するね!」

二郎はそのまま姫に手を引かれて、あっという間に家の奥に消えていった。ジョーはカウボーイハットを脱ぎ、呆れた表情をして両手を宙にあげると、僕を見て首を左右に振った。

「ごめんな、ヘンリエッタは本当にケイが大好きなんだ。まあ兄から言わせると、グレゴリーよりは、ケイの方がいいな。ちょっと変な奴だけど。」

そう言って僕にウインクをした。ダイニングルームは天井がとても高くて、蛍光灯の電球がまっすぐに二列並んだモダンなシャンデリアが四つ、テーブルを囲むようにぶら下がっている。テーブルは巨木の一枚板で出来た十二人掛けの立派なもので、中央にターコイズブルーと黄色の長細い織物がかけてある。その上に、ガラスのコップとオレンジジュースのジャグ、ミルク、水が並べてある。

「ソゥ、ユーアー、トント!」

トント?!ジョーの奴、僕の名前はトントって皆に紹介しているのか?そう思って振り返ると、キッチンから飛び出してきた大きな影にムギュッと抱きしめられた。柔らかい弾力のあるお腹に、すごい幅のある腰は、とても僕の腕は回りそうにない。むしろ、僕の顔は暖かくて逞しい腕とお腹の間で押しつぶされそうだった。僕が驚いて見上げると、黄色いバンダナを頭に巻いた赤毛のお姉さんがニカッと笑っている。そうして、早口でジョーに何か言って、大声で笑った。ふと見ると、二郎は姫と一緒に大きなお皿を持って、テリーマンに朝ご飯を盛ってもらっている。

「翔君、見て、ビスケット、グレービー、ベーコン、エッグキャセロール、ハッシュポテト、タコス。どれも美味しいんだよ、全部試してみてよ。」

二郎の目が輝いている。そういえば、いろんな国の料理を食べるのが大好きなんだよな、二郎は。姫のお皿には、二郎が「タコス」って呼んでいたものが四つ乗っかっている。

「トント、タコスって食べたことある?朝ご飯はこれに限るのよ。テキサスのタコスは最高よ。」

姫はそう言って、手の平サイズの丸い平たいパンみたいなものの上に、刻んだトマト、アボガド、キューブステーキ、スクランブルエッグ、玉ねぎ、さらにサワークリームとサルサをどっさりトッピングした。

「ここにね、ライムをたっぷり絞るの。」

そう言って、両手でそれを半分に折り曲げ、中身がこぼれないように斜め上を向きながら一口かじった。

「こら、ヘンリエッタ。行儀が悪いぞ。テーブルについてからだろ。ジャッキーは厳しいんだから、忘れるなよ。」

僕らの他には誰も日本語がわからないから、こういう時は便利だ。その代わり、英語がわからないのは僕だけか…、もっと勉強しよう。僕は、とりあえず全部お皿に一通りのせてもらって、ジョーの隣に座った。テリーマンとジャッキーさん、それと高校生くらいの男子が三人、全員座席につくと、テリーマンが立ち上がって、皆はお皿の前で頭を少し下げて目を閉じた。テリーマンが早口で何かを言った後、アーメン、というと、皆もアーメン、と言って食べ始めた。これは、『紅の豚』でピッコロ社の社長がやっていた、食事の前のお祈りってやつか!僕はなんだか本場の習慣に仲間入りしたようで心が高まった。僕はまず、熱々で湯気が立っているビスケットとグレービーを味見してみた。ケンタッキー・フライドチキンのビスケットのもっとふんわりしたものに、胡椒の効いたクリームソースがたっぷりかかっている感じ。塩味とバターの味が、こってりと舌にまとわりつく。カリカリの分厚いベーコンはとっても塩辛いけれど、クセになる歯ごたえ。エッグキャセロールというやつは、マッシュルームとソーセージが、チーズと一緒に卵とじになっているようなもので、結構油っこい。どれも高タンパク高カロリーで一日の肉体労働のための力がつきそうだ。唯一ちょっと苦手だったのが、姫の一押しのタコス。二郎曰く、この薄くて丸いパンみたいのはトウモロコシ粉を焼いたもの。ちょっと歯ごたえがあってザラザラしていてトウモロコシの皮を噛んでしまったような不思議な味がした。僕は生玉ねぎの味とシャリシャリした歯ざわりが苦手だったので、玉ねぎを横にどけて、ともかく一生懸命完食した。よそのお家で出された食事は残しちゃいけません、そういう母さんの声が聞こえてきそうだったからだ。

「そうだ、紹介しておく。あっちに座っているのが、右からピーター、ランディ、それとトマス。十九歳、十八歳、十二歳。」

皆テリーマンみたいに背が高くて、肩幅ががっちりしていて、筋肉モリモリで強そうだ。

「トマスって、僕と一歳しか違わないなんて、すごく大人っぽいね。」

僕はベーコンを齧りながら、横目で見た。ジャッキーさんと同じような赤毛で、横は短く刈り上げられていて、上の方は巻き毛がくるくるしている。首がすごく太い。体重も六十キロは軽く超えていそう。僕がそう言うと、ジョーは笑って言った。

「そんなことないよ。子供っぽいよ、末っ子だしな。わがまま言い放題。まあ見た目だけは大人かもな。」

朝食が終わると、皆さっさとテーブルを立ち外に行ってしまった。窓の外を見ると、辺りはまだ薄暗い。

「こんなに暗いのに、もう仕事を始めるの?」

僕はキッチンにある、ターコイズ色のドレープが掛かった大きな窓から外を眺めるとジョーに聞いた。真っ黒な地平線の向こうが、かすかにオレンジ色に染まり始めている。建物も、山も無いから、地平線が一直線に視界の端から端まで伸びている。

「そうだよ、夏はね。昼間は暑すぎて、牛も人間も機嫌が悪くなるから、暑くなる前に仕事を終わらせなきゃいけないんだ。今日は、乗馬が得意なヘンリエッタとケイは叔父さんについて行って仕事の見学をする予定。トント、お前はまず、俺が馬の乗り方を教えてやる。」

玄関を出ると、いつの間にか辺りは明るくなっていて、かすみがかった薄い水色の空に、ほのかなピンク色の雲が輝いている。ゴルフカートに乗ってエンジンをかけると、獣臭い生暖かい空気に、砂埃がもうもうと舞い上がった。昨夜は暗くて何も見えなかったけど、レッド・クリーク・ランチは本当に何にも無いところにポツンと立っている。見渡す限りの草原は、時に緩やかな丘を作りながらどこまでも続いているようだ。ジョーはキャビンの裏側に回ると、細い砂利道をガタガタと進んだ。

「ここからは見えないけど、あの丘を越えると、川がある。普段はそんなに水がないけど、嵐とかで沢山雨が降ると、赤土の土壌が水に溶け出して、川が赤く見えるから、レッド・クリークって言うんだ。お前が馬に乗れるようになったら、見に行こうな。」

しばらくすると、紅葉色の木造建築が見えてきた。平らな牧草地の真ん中に、白い木の柵に囲まれて、どっしりと構えたその馬小屋は小学校の体育館くらいの大きさはある。僕らは手作りっぽい白い木造のゲートの前でゴルフカートを降りた。そのゲートは案外重たくて、力一杯押すとギギギと音を立てて開いた。刈りたての草の甘くて湿った匂いがする。柵の中には、背中の位置が僕の背丈くらいの、小ぶりの亜麻色の馬が繋がれていた。ジョーは馬の立髪と首を優しく撫でると言った。

「トント、これはデイジー。今週ここにいる間、お前が乗る馬だ。大人しくて、言うことを良く聞くいい馬だよ。ほら、挨拶しろ。まずは友達になるんだ。」

本物の馬に近づくなんて、初めての経験だ。僕は頷くと、ドキドキしながらとりあえずジョーがやっていたみたいに、恐る恐る首を撫でてみた。鋼のような力の塊に、きめ細やかな織物の絨毯が貼られているみたいな、不思議な感触。近づくと甘い藁の匂いがして、硬くて柔らかくて暖かい。大きくて、優しい顔。真っ黒な丸い瞳に長い睫毛。一体どこを見つめているんだろう。

「せっかくだから、鞍を乗せるところから教えるから。まずはこのブラシで、こういう風に、円を描くように、毛並みを整えてあげて。」

ジョーは短い毛の靴磨きみたいな大きなブラシで、デイジーの首と胴体をくるくると撫でると、ブラシを僕に手渡した。僕もブラシをくるくるさせてみたけれど、思ったように円が描けない。撫でてあげているというより、たまにブラシが絨毯にぶつかっているような感覚。力加減がわからない。時々、馬の耳がピクリと動く度に、こっちがビックリする。

「なんか、本当にジッとしているんだね、馬って。」

「まあ、デイジーは特におとなしいかな。いつも健気に言うこと聞いてくれる。可愛いだろ。次は、爪の裏の泥とか石をチェックするぞ。これは俺がやるから、見ていて。」

ジョーは馬の足首を掴んで軽く持ち上げると、小さな釘抜きみたいな形をした道具でサッサと蹄の下に挟まっている小石や泥を取り除いた。

「これ、きちんと掃除してあげないと、馬だって足が痛くなったり、走りにくかったりするんだ。怪我をしたら大変だからね。」

時折、デイジーは尻尾を大きく振って、飛んでくる蝿を追い払っている。その度にくしゃみをするようにブルブルと鼻を鳴らす。白い立髪が、吹いてくる風にのんびり揺られている。

「そんなにビクビクするな。お前、ペットも飼った事ないって言ったっけ?慣れれば怖くないから。」

やっぱり僕が怯え腰なのは、ジョーにはバレバレだった。

「うん、綺麗だね。なんか、力の塊っていうか、触ったら、分厚い皮膚と毛皮の感触とか、命ってすごいなあって」。

「そうだな、乗ると、本当に気持ちいいぞ。じゃあ鞍の取り付け方を見せてやるからな。」

ジョーはいつになく爽やかな笑顔で言った。

「なんか、東京にいる時より、楽しそうだね、ジョー。」

「あはは、そうかな?まあこっちは自由の国だから、やりたいようにやっていていいし。なんか東京は窮屈なんだよな。父さんも仕事で偉くなったらしくて、そうすると、子供の俺たちもそれなりに立ち振る舞わなきゃいけないだろ。でも、嫌いじゃないぞ。お前やケイみたいな面白い友達も出来たし。」

ジョーはテキパキと説明をしながら鞍を取り付けた。

「さあ、乗るよ。まずは見て。いいか、こうして左手で手綱を掴んで、馬の左側に立つ。左足を鐙に入れて、足の力で飛び上がれ。腕で鞍を手前に引っ張ったらダメだぞ。」

そう言うと、ジョーはおとぎ話の王子様みたいに、ひらりと簡単に馬に飛び乗った。

「乗り方の基本だけ説明する。左手で手綱をこうして持って、右手はフリーにしておくんだ。カウボーイは、右手でロープを投げたりするだろ?速さは四種類、ウォーク、ジョグ、ロープ、ギャロップだ。お前はとりあえずゆっくり歩ければいいから。一つやっちゃいけないのは、怖がって馬の胴体を足で蹴ったりギュってする事。そうすると、もっと早くっていう意味の指令になる。走り出しちゃったら困るからな。口でキスするみたいにチュッチュって音を立てるのも、早く走れ、っていう意味だから、気をつけて。何か間違えたと思って舌打ちとかしたらダメだぞ。馬に左に行ってもらいたい時は、押し手綱の右側を優しく押す。右に行ってもらいたい時は、反対に左側をちょっと触る。いいね。止まるときは、ウォーア、って言いながら優しく手綱を引っ張って。馬は敏感だから、どれも力づくでやらない様に。優しく、コミュニケーションするんだ。じゃあ、そこで見ていて。」

カウボーイハットを右手でかぶり直すと、ジョーは颯爽と馬を走らせ、柵の内側を一周して戻ってきたところで、馬を停めた。

「よし、トント、お前の番だ。降りる時は、登った時と反対の動作。左側の足を鐙に残して、ゆっくり回って、右足が着地してから、左足を外す。オーケー?」

僕は恐る恐る馬の左側に立った、けれど、とても鐙に足が届かない。そういえば、ジョーは僕より足が十五センチ位長い。

「あ、そっか。身長が足りないな。ちょっと待って。」

ジョーは小さな木製の踏み台を持ってきてくれた。

「これで届くだろ。俺が手綱を持っているから、ともかくよじ登れ。」

なんだか足がつりそうな気がしたけど、僕は思い切って右足をあげて、馬の背中に這いつくばるような格好でなんとか座ることができた。その時、砂埃を上げながら颯爽とすごいスピードでカウボーイが現れた。よく見ると、二郎だ。二郎は右手でカウボーイハットを取って挨拶すると、ウォーア、と言って僕たちの目の前、柵の反対側で馬をとめた。

「ジョー、交代だ。」

そう言うと、二郎はヒラリと馬を降りつつ、さらに柵まで越えて僕らの前に飛び降りた。そうして、手早く乗っていた馬の手綱を柵にとめると言った。

「子牛がなぜか五頭も行方不明になっている。迷子か、泥棒か、とりあえずまだわからないから、皆で全力をあげて探している。君の助けも必要だから呼んで来いって。姫はジャッキーを手伝いにロッジに戻った。翔君には、僕が馬の手ほどきをしておくから、行ってきて。」

「それは大変だ。サンキュー、じゃあ、後はよろしく。」

そう言うと、ジョーは血相を変えて、柵の上に足をかけると、そこから馬の背中に飛び移って、あっという間に砂埃と共に消えていった。僕は、といえば、小さくて大人しい、可愛いデイジーの上に座って、ポカンとしていた。かっこいいな、こいつら。

「どう?馬の背中に座る気分は?」

二郎はカウボーイハットを脱いで額の汗を袖口で拭くと、にっこりと笑顔で言った。

「あ、うん、なんか背が高くなった気分。」

「あはは、確かに。じゃあ、歩いてみようか。初めてだったよね?僕が手綱を引っ張って一緒に歩くから、心配しないで。翔君は、とりあえず今日は馬に乗る感覚を楽しんでみて。」

そう言うと、二郎は手綱を持ってゆっくりと馬を誘導した。馬が一歩ずつ踏み出すたびに、僕の体もリズム良く揺れる。僕は鞍のホーンにつかまって馬の耳がピクピク動くのと立髪の揺れる様子を眺めた。

「慣れてきたら、もっと前方とか、遠くの景色を見てごらん。姿勢が良くなるから。」

必死にホーンにつかまって、背を丸めて強張っていた僕に、二郎は優しく言った。人を決して馬鹿にしない、こういうところが姫が大ファンになった理由だろうな、と僕は思った。

「二郎は、随分慣れているね。馬。小さい頃から乗っていたの?」

「ああ、まあ、乗馬をはじめたのは五歳かな。小学校低学年の時は馬術の競技とかやろうかと思ったけど、他にやりたい事があったから、やっぱり趣味にとどめておくことにしたんだ。でも、叔父さんの乗馬クラブをしょっちゅう手伝っているから、お客さんと一緒に歩くとか、そういうのは得意だよ。」

「今朝は、どこに行っていたの?」

青い空を眺めながらゆらゆら揺れるのは気持ちがいい。

「あ、朝食の後?今日は、キャトル・ドライブって言って、牛の大群を、一つの牧草地から、別の牧草地に移動する日だったんだ。だから、姫と一緒に見学に行ったのだけど、始める前に早速行方不明の牛達がいることに気づいて、しばらくは皆と壊れた柵がないかとか、変なトラックが侵入した轍が無いかとか、辺りを見回ったけれど、取り立てて変な様子もなくてね。動物もたまに溝や泥にはまって動けなくなっていたり、崖に落ちていたりするし、あと、狼に襲われた可能性だってある。もっときちんと調べないといけないから、ひとまず今日は行方不明の牛達の捜索の日、っていうことになったんだ。」

「へー、なんだか大変そうだね。どうやって探すのかなあ。」

「さあ、僕はカウボーイじゃないからなあ。夜、ジョーに何をしたのか聞いてみようね。どう、馬の背中、ちょっとは慣れてきた?」

暫くの間、僕らは柵の中を他愛のない話をしながらぐるぐると回った。二郎は腕時計を見ると、

「あ、そろそろロッジに行かないと。他にも仕事があるから手伝って、って言われているんだ。この馬に、餌と水をあげたら、行こうね。はい、じゃあこの階段のところで降りてみよう。」

僕がもたもたと降りると、二郎はデイジーを柵で囲まれた牧草地にある餌場に連れて行った。

「さあ、ロッジに行こうか。」

二郎はゴルフカートのエンジンをかけると、勢いよくアクセルを踏み込んだ。

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