妻の愛を勝ち取れ/20

 子供の悩み事を、相談されたのは今日が初めて。大先生でも、育児は大変なのかと勝手に判断するのだ、妻は。


「孔明さんでも落ち込むんですね」


 違和感を抱いた妻だったが、夫はこうやって巻いてしまうのである。


「そうかも〜?」


 可愛く小首を傾げると、漆黒の長い髪が、白いカーディガンの肩からさらっと落ち、屋根の上で絡み合う蛇のようにエロティックを連想させた。


 人のことが優先。

 愛する夫。

 彼が落ち込んでいる。


 大先生の手で、この条件は見事なまでに並べられ、孔明の凛々しい眉に、颯茄の顔はすっと近づいてゆく。青空を背景にして、自宅の屋根の上で、妻と夫の口づけの時間が迫る。


 自分でしたいと思ったように見せかけられて、そばにきた妻。


 夫は陽だまりみたいに微笑んで、彼女の頬に手を添え、瑠璃紺色の瞳とクルミ色のそれはすっと閉じれた。


 冷たい風が吹き抜けてゆく中で、触れた唇だけがやけに熱い。


 ――計算され尽くしたキス。


 漆黒の長い髪がリボンで結んだように、しばらく二人を優しく包み込んでいた。


 そうっと離れて、孔明は両膝を片腕で抱え、可愛く小首を傾げる。七十センチ違いの背丈。孔明の大きな手が、颯茄の髪を優しくなでてゆく。


「颯ちゃん、ボクのチュ〜好き〜?」

「す――!」


 つられて言いそうになって、颯茄は言葉を途中で止めた。


 好きは好きなのだ。どんな意味でも。ましてや、キスを好きと言ったら、愛していると同意義だろう。結婚しているのだから。駆け引きしている恋愛ではないのだから。


 こうして、大先生は二つの目的に近づいたのである。


「罠だったんですね……」


 妻は怒りはしない。自分の勉強不足だと思う。この夫の頭の中を理解したいと願うのだ。


 だがしかし、自分の普通の頭では紙に書いて、落ち着いて考えないと、どこでどんな罠が張られているのかわからないのである。


 下手をすれば、六重の策なんてことは、当たり前にあるのだ。


 自分の髪と妻の髪を混ぜて、つーっとすいている孔明は、春の陽だまりみたいに微笑む。


「そうかも〜?」


 いつも言っているから、口癖だと思ってしまいがちだが、颯茄はこの言葉の深意を知っている。


 ふんわりして、好青年で、間延びした言い方。わざとやっているのだ、この男は。人の警戒心を半減させる効果がある。相手が油断して、情報を漏洩させる可能性が上がるのだ。


 神の申し子、天才軍師とうたわれた男。


 話せば、少なからず相手に情報漏洩する。それは避けられない。だからこそ、他のことに引きつけておく罠が必要になるのだ。


 この男の手口は、相手が自分から望んだように見せかけて動かすこと。それを平然としてくる。通常、罠が仕掛けられていたとは気づかない。気づいたとしても、取り返しがつかなくなってからだ。


 百戦錬磨。反則と多くの人々に言わせるほどの頭脳で、見事なまでに勝ち取ってゆく。神をもうならせる男。完璧な男。


 だが、子供のことに関しては失敗する。そんな一面があったのかと、微笑ましくなるのだ。本気で凹んで、相談してきた。嘘ではないのだ、さっきの白のことは――


「……好きです」


 感情に流されない夫は、ここまで話した会話をデジタルに覚えている。その中から抜き取る、二十三個前の妻の話を。


 間延びした言い回しで、真意を隠す。帝国一の頭脳を持つ男は。


「あれ〜? 光に何か言われちゃったのかなぁ〜?」


 ここまでで、光命の話をしてきた夫は、全員で八人。何の警戒心もなく、颯茄はこう言ってしまった。


「え、どうしてわかるんですか?」


 認めたのと一緒である。


 大先生の頭脳はたった、0.1秒ではじき出していた――


 光命が見つかった順番は一番最初だった。

 彼は負けず嫌い。

 隠れんぼをするならば、見つからない場所に隠れるが可能性大。

 それが、一番最初に見つかっている。

 ――おかしい。

 彼はみんなが聞きたがっているという話を聞いている。

 彼は他人が優先。

 妻に夫たちに好きと言うようにと言った可能性大。

 妻の性格は素直で正直。

 自分に言ってきた。

 そうなると、ここまでの全員に言った――

 になる可能性が99.99%。


 孔明の頭の中の言葉が、ゆる〜っと伸びた語尾で夕風に乗る。


「事実から導いた可能性の話〜?」


 だが、妻も負けてはいなかった。颯茄はわざとらしく髪をかき上げて、ぎこちな言い方をする。


「え? 事実? 可能性? 何のことやらさっぱりで……」


 妻も情報漏洩をさけてみた。気絶してまで学んだ、理論だ。事実と可能性をどう使うかぐらい知っている。あとで落ち着いて考えればわかる。今はわからないが。


 頭のいい女が好きな孔明は、さっと颯茄を抱き寄せて、


「そういう颯ちゃん、ボク大好き――。ず〜っとチュ〜してたいくらいに〜!」


 エキゾチックな香の香りが、二人を屋根の上でそっと包み込んだ。


 頬に再びキスをされた時だった。二人の背後の真ん中に人影が立ったのは。


「こ〜う〜め〜い〜!」


 鋭利な刃物で一回ずつ体深くを抉り取るような言い方。颯茄は恐怖で、孔明は瞬発力で左右にパッと離れた。

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