妻の愛を勝ち取れ/3

  ――この男は夜空の星よりも、ずっと遠い自分の手の届かない存在だった。いつだって突き放すような冷たさで、冷静な水色の瞳はこっちへ向くことはなかった。


 惑星のまわりを回る軌道の違う、ふたつのほうき星のように、どこまでも遠く遠くすれ違い続け、生きてゆく。そう思っていた。


 それが、今はすぐそばに、しかも無防備でいる。神経質で負けず嫌いであるがゆえ、他人に醜態しゅうたいなど絶対にさらさない光命。今はロングブーツという武装をしているが、眠る時には素足になるのだ――


「ふふふっ。愛してます……」


 内緒のささやき。――のつもりだったが、


「えぇ、私も愛していますよ――」


 遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が、肩のそばで普通に返ってきた。


「あれ、起きてたんですか?」


 どこかずれているクルミ色の瞳の前で、長いまつ毛は動き、冷静な水色の瞳が下から上がってきて、まっすぐ向けられた。


「えぇ、先ほどから起きていましたよ」

「罠でしたか……」


 颯茄は貸していた肩を離した。だが、妻は知っている。この夫は誰かの幸せのために策を張るのであって、人を傷つけることは絶対にしないと。


 三十八センチの身長差を持って、妻と夫は見つめ合う。


「なぜ、あなたは他の方に愛していると言わないのですか?」


 策士の夫たちが気にしていたことだった。


 妻はそんなやり取りなど知らないが、今は問われている。答えなくてはいけない。しかし、言わないのには、きちんとした理由があったのだ。


「私はこういうことを言うタイプじゃないので……」


 これが颯茄の個性なのだ。変えなくてはいけない部分もあるだろう。だがこれは違う。譲ってしまったら、自分ではなくなる。


 軽々しく言うものなのかと、颯茄は思うのだ、いつも。他の人がどうとかではなく、自分はそう思う。女子力なしの颯茄。だから、夫全員が聞いていないになっているのだ。


 中性的なイメージなのに、肩幅はしっかりとある光命の腕がすうっと、颯茄の肩に回され、抱き寄せた。


「私はあなたに愛していると言われて、とても幸せな気持ちになりました。そちらを、彼らにも与えていただけませんか?」


 ピアノの下で。二人きりの部屋で。甘く見つめ合う妻と夫だった。いい雰囲気。だったが、罠の本質を知った、颯茄のあきれた顔で破壊された。


「光さんは相変わらず、他の人優先ですね」

「あなたもではありませんか?」


 即行返ってきた、言い返し。この夫もある意味、ひねくれている。素直にうなずかない。いや、認めたところなど見たことがない。本当は十五年しか生きていない二十三歳の子供な夫。


 だが、言っていることは筋が通っている。颯茄は素直に従った。


「わかりました。言います」

「約束です」

「はい」


 颯茄がうなずくと、ロイヤルブルーサファイアの十字がすっと近づいてきて、そっと閉じたまぶたの向こうで、男性にしては少し柔らかい唇が優しく甘く触れた。 


 ――高貴で優雅なキス。


 どこまでも二人きりの時間が過ぎていきそうだったが、ドアが開いた気配もなく、凛とした澄んだ儚げで丸みのある女性的だが、男性の声がふたりの間に忍び込んだ。


「見つけましたよ〜」


 唇の感触がなくなり、颯茄はパッと目を開けた。左側の窓の下で、月命が白いミニのチャイナドレスにも関わらず、片膝を立ててピアノの下をのぞき込んでいた。


 本能とは怖いもので、妻は反射的に動いてしまった。大理石の床に手を置き、かがんだ。下着も女装なのかと思って。


「気になる……」


 だが、どんなにかがんでも、うまい具合に太ももで隠れていて、残念ながらおがめなかった。


「あぁ〜!」


 妻のため息が夫二人の前で、盛大に床に降り積もった。いいだろう。夫の下着をのぞこうと、妻の特権である。


 そんなことを堂々としている颯茄。光命が手の甲を唇に当てながら、くすくす笑っている隣で、


「じゃあ、別のところに行かないと……」


 隠れ続けなければいけない颯茄は、すうっと消え去った。


 今度は夫二人きりの部屋になった。しかも、策士同士。


 光命はいつの間にかピアノの椅子に座っていた。磨き上げた黒に、マゼンダ色と紺の長い髪が映り込む。


「君は、彼女が一番最初に見つける可能性が高い場所に隠れましたね〜?」


 冷静な水色の瞳はついっと細められた――


 この男は、三百億年も生きている。自分はたかだか十五年だ。勝てるはずがない。経験値が絶対的に足りない。しかし、自身の夫である。多少なりとも、データは頭の中に入っている。だからこそ、この男の言動が、


 ――おかしいのだ。


 自分と同じ思考回路だが、この男に感情などと言うものはない。


 ――妻に好きと言ってほしい。


 その望みがないとは言えない。だが、この男が真っ先に言ってくる可能性は限りなくゼロに近かった。


 それなのに、事実として確定している。それならば、それが確定する可能性を探さないといけない。


 ここまでの思考時間、0.3秒。光命は問いかけには答えず、別の質問を返した。


「どなたに頼まれたのですか?」

「おや〜? 何のことですか〜?」


 人差し指はこめかみに突き立てられ、腕時計は、


 十四時四十七分十七秒――。


 さっきから二人の会話は疑問形だけ。情報漏洩を逃れる手だ。しかし、夫と夫だ。敵ではない。実は情報だったのだ。冷静な水色の瞳は、ニコニコの笑顔に向けられた。


「あなたが答えないということは、毎週、木曜日と日曜日に起きること……と関係するという可能性が99.99%」


 今日は日曜日。仕事が終わらなくて、遅れたなど嘘なのだ。月命は光命に近寄り、神経質な手をそっとつかんだ。女装教師とピアニスト。男二人の昼下がりの情事。


「うふふふっ。ですから、君にも協力していただきます〜」

「えぇ、構いませんよ」


 優雅に微笑むと、月命の手を乗せたまま、光命はピアノの鍵盤を弾き始めた。

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