No.36:怒っていいんだよ!


 魔が差す時というのは、いつもこんな時だろう。



「雪奈みたいな子供だったら、俺は可愛がられたのかな?」



「えっ?」

 雪奈は少し驚いた様子で俺を見た。


 半分夢心地の世界。

 俺の口は止まらない。

 ダムから水が漏れていくような感覚だ。


「中学に入ってからかな。オヤジの会社が大変になってリストラされたことがきっかけだったんだけど、俺の両親が揉め始めたんだ」


「うん」


「その時母さんが、かなり荒れてな。料理も掃除も洗濯も、一切やらなくなった。パートには出ていたんだけど、頻繁に酔っぱらって夜遅く帰ってくるようになったんだ」


「そうだったんだね」


「でも俺はこういう性格だろ? 理屈に合わないことには、はっきり言わないと気が済まない」


「うん」


「なんで遅くまで酒飲んで帰ってくるんだ? なんで俺の弁当を作ってくれなくなったんだ? 家を散らかしたままでいいのか?って」


「……」


「よく母さんと衝突したな。でも俺は理屈で、母さんは感情で話すから、話がかみ合うことはなかった。母さんは正論で正面から言われるのが、一番嫌いだったみたいだ。だから答えに窮した母さんによく言われたよ……」




『本当に可愛くないわね! あんたなんか、産まなきゃよかった!』




「売り言葉に買い言葉、ってことは分かってる。でも俺は生んでくれって頼んだ覚えはない。生まれてきちゃいけなかったのか? 生きちゃいけないのか? そもそも俺を生んだのはあんたたちだろ? あんたたちがお互い好きになったんだろ? その結果がこれか? だったら初めから好きになんてなるなよ。そんな不毛なことするんじゃねえ。俺はただの犠牲者なのか? そんなんだったら……って、あれ、雪奈?」


「ぐすっ」


 ヤバい!

 俺は今、何を喋っていた?

 頭の中にまだ霞がかかっている。

 起きろ! 脳みそを叩き起こせ!


「ひどいよ」


 雪奈は泣いていた。

 顔をゆがめて泣いていた。

 涙がぽろぽろぽろぽろと、次から次へと流れ落ちていく。


「そんなのひどいよ! 浩介君は、こんなに優しいのに! こんなに正しいのに! こんなに人の気持ちがわかるのに!」


「えーと、雪奈?」


 ダメだ。一度バグり始めた雪奈は、なかなか止められない。


「生きていいに決まってるじゃない! 生まれてきてよかったに決まってるじゃない! 生まれてこなかったら、私は浩介君に会えなかったんだよ! ひなだって葵だって牧瀬くんだって、浩介君に会えなかったんだよ!」


 雪奈は涙を流し続けている。

 いつもの可憐さは消え、顔をくしゃくしゃにして泣いている。

 怒っている。


「浩介君はいつだって私を助けてくれた! 手を引っ張って、一緒に逃げてくれた! 勉強だって、教えてくれた! 努力したんだなって、褒めてくれた! わたしの事、可愛いって言ってくれた! 浴衣が似合うって、言ってくれた! こんなに、こんなに素敵な男の子なのに! 生きていいに決まってるじゃない!」


 もはや魂の叫びだ。

 そんな彼女を、何故か俺はちょっと俯瞰して見ていた。

 なんでこの子は、こんなに怒っているんだろうと。


「浩介君、なんでそんなに冷静でいられるの!? 怒っていいんだよ! 泣き叫んでいいんだよ! ばかやろうって! こんなに理不尽なことないだろって! ふざけるなって! 馬鹿にするなって! いい加減にしろって! そんなの、そんなの、絶対におかしいよ!」


 ついに雪奈は「うわーーん」と赤ん坊のように泣き出してしまった。

 目は壊れた蛇口のように。

 口は壊れたサイレンのように。

 バグった雪奈は、そのまま収まる気配がなかった。


「雪奈」


 俺はゆっくり彼女の頭の上に手を乗せた。

 一瞬雪奈の体がピクッとしたが、彼女はそのまま泣き続けた。

 俺はゆっくり頭を撫でた。


 俺は彼女が何故泣いているのか、いまひとつピンとこなかった。

 でもひょっとしたら、彼女は。


 俺のために泣いてくれていて、

 俺のために怒ってくれていて、

 俺の代わりに泣いてくれていて、

 俺の代わりに怒ってくれている。


 そう思うと、俺は今まで感じたことのない、どうしようもなく暖かい気持ちに包まれた。

 心の中で使っていなかった冷たい暖炉に、雪奈が火をともしてまきをくべてくれたような。


 雪奈が肯定してくれた。

 俺のすべてを肯定してくれた。

 生まれてきてよかったんだと。

 生きていてよかったんだと。

 俺はそれが最高に嬉しかったんだ。


 泣き止む気配のない雪奈の頭を、俺はずっと撫で続けた。

 自分のためじゃなく、人のために怒って泣いている。

 そんな目の前の生き物が、おれは愛おしくて愛おしくてたまらなかった。

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