第五章 家族の形 9

 櫻子は自分の部屋にこもって毎日のように自分を奮い立たせようとしていた。


 しかし、そうしようとすればするほど何故か涙が溢れてくるのだ。


 今までも何度もくじけそうな時はあった。その度に自分を奮い立たせてくれたのがファンの存在だった。しかし、今回ばかりは違った。その大事なファンの存在が櫻子を苦しめていたからだ。仕事を続けていく気力を失い、やめてしまおうかと考えていた。


 ふと、扉の隙間から差し入れられた便せんに視線が止まった。


 おそらくファンからの励ましの手紙だろうと思われるが、今の櫻子にはそれを受け止める自信が無かった。


 力なく横たわっていたベットから起き上がり、フワフワとした足取りで扉に近付きその便せんを拾い上げた。


 差し出し人の名前を見て少し驚いた。そこには『田中竜一』と力強い文字で書かれていた。


 もう既に封の開けられている封筒から中の紙をそっと取り出した。


 櫻子宛てに届く郵便物は、本人に渡す前に、危険が無いか必ずスタッフが確認するルールになっているが、その内容を確認した上で、母は、この手紙を読んで考えろと言ったのだ。


 櫻子は少し汚れていた眼鏡を拭いてからかけ直し、ゆっくりと読み始めた。


 



 倉ノ下櫻子様。あの事件の後、体調を崩されていると聞き、いても立ってもいられず、この手紙を書くことにしました。


 今回の事件では、私達警察の不手際のせいで、あなたに多大な迷惑をおかけしたこと、深く反省しております。


 そんな警察の人間である私がこのようなことを言うのはおこがましいのですが、そこはあなたの一ファンが言っていることだと、寛大な心で受け止めて頂けたら幸いです。


 私自身の話からでご迷惑でしょうが、そこから伝えたいと思います。


 私が警察官になった目的は、父の命を奪った犯人をどうしても自分の手で捕まえたいと思ったことがきっかけでした。


 わたしの父は優秀な警察官でしたが、ある事件の捜査中に命を落としました。父の命を奪った事件の詳細はお話しませんが、犯人はまだ捕まっておりません。


 父を亡くしてから、私の母は生きる気力を失ったかのように床に伏せるようになりました。私が警察官になってからは拍車をかけるように衰弱していきました。病院のベットに横たわったまま、ほとんど話すことも無くなり、私は仕事の忙しさにかまけて、ほとんど見舞いに行くことも無くなっていました。


 そんな時、捜査中の私の携帯に電話がかかってきました。


 その電話は母が入院していた病院からで、母が亡くなったというものでした。仕事のせいにして一ヶ月近くも見舞いに行っていなかった私が、久方ぶりに見た母の姿は痩せ細り悲しげなものでした。


 私は自分のため、そして母の為にも、父の命を奪った犯人を捕まえるべく警察官になった筈だったのに、結局そのことが母を苦しめていたのだということを後から知りました。


 母の世話をしてくれていた看護師の方から聞いた話によると、母は警察官になった私が、父のようにいつか職務中に命を落とすのではないかと、そんなことばかり心配していたと。父の敵など取らなくていいから、普通のサラリーマンにでもなって平和に暮らして欲しかったと。それを聞いた私は今まで自分がやってきたことが全て無意味なものに思えました。


 母が亡くなって半年程たったある日、母の遺品を整理していた私は一通の便せんを見つけました。その宛名には私の名前が書かれていて、私は慌てて封を切り中身を確認しました。


 中身はこのようなものでした。


『 竜一へ


 あなたが警察官になると言った時、私は正直生きた心地がしませんでした。あなたの性格からして、いつか言い出すのでは無いかと毎日不安に思っていたからです。


 あなたは本当に優しい子です。そして、その強い正義感は父親譲りでしょう。


 確かにお父さんの命を奪った犯罪者は許せないし、私も憎しみが無いわけではありません。


 でも、あなたの人生を恨みや復讐のような感情で過ごして欲しくない。あなたの優しさはもっと有意義なことに使って欲しいというのが私の願いです』


 この手紙を読んで私はこれからどうしていいのか本当に分からなくなりました。


 父どころか母まで亡くしてしまった自分が生きていく目的はもう父を殺した犯人を捕まえることだけだと考えていたのに、母はそのようなことは望んでいない。


 その時の私は正に迷走状態でした。




 そんな時、あなたに出会いました。

 

 テレビの画面の中でにこやかに歌うあなたを最初は何気なく見ていたのです。


 あなたが突然涙を流しながら歌い出したのです。


 歌い終わった後、その番組の司会者は困惑気味にあなたに涙の理由を尋ねました。


「先日、私の一番の友人が長い闘病生活の末、亡くなりました。私が歌うようになったきっかけは彼女でした。彼女は私の歌声を聞くと元気が出ると言ってくれました。それから私は彼女の病気が少しでも良い方向に向かうようにと、ずっと心を込めて歌ってきました。その願いも届かず、彼女は亡くなりました。私は歌う理由を失いました。でも彼女が亡くなる直前に書き残してくれていたメーセージを読んで再び歌う理由を貰いました。その手紙には『あなたの歌声のおかげで私の人生は素晴らしいものでした。これからもあなたの歌声でたくさんの人を幸せにしてね』と書かれていました。彼女の為にも泣いていられませんね」


 この言葉に私は生きる方向性を教えて頂きました。


 母は確かに警察官になった私の身を案じてはいたが、警察官になったことを批判していたのではない。むしろ、父の背中を追いかけた息子を誇りに思ってくれていたのではないか。


 なら、父と同じように多くの人を助ける為に働けばいいではないか。なんて単純なことに気が付かなかったのか。


 及川さんも何も無かった人生をあなたの歌によって救われたと言っていました。


 大の男二人があなたの歌声に救われたのです。


 及川さんは自分のしたことによって、あなたが歌えなくなったと知ったら悲しむと思います。


 わがままだとは承知しておりますが、どうか、あのまぶしい笑顔で素晴らしい歌声を聞かせて頂きたい。ファン一同、焦らずお待ちしております。


                         田中竜一



 櫻子はあふれ出る涙でしっかりと文章を読むことができなかった。


 眼鏡を外して何度も涙を拭い、眼鏡をかけ直して読もうとするが、また涙があふれた。


 その涙は先程まで流していたものとは違う温かい涙だった。

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