第41話 邪道アイドルとのたわむれ

 宝耀さんを迎えの車に放り込むと、助手席の彼女はアイドルにあるまじきしかめっ面をした。


「すんすん。あの女の匂いがしますねぇ……」

「どうしたのさ、急に」


 車をバックさせながら、僕は言う。


「きょーしろさん。わたしの席に、あの女を乗せましたね? 人間に化けた鬼のにおいがしますよ」

「あの女じゃなくて本道さんね。あと正真正銘人間だから。ちょっと昼にね、そこに座ったよ。街のカフェまで行ったんだ」

「まっ! きょーしろさんったら悪びれもなく!」


 口をフグにして、太鼓のように拳を打ち付けてくる。痛い痛い、変なところでトレーニングの成果出ちゃってるよ。


「なんなの。別にやましいことしてたわけじゃなくて、大事なアイドルの気分転換に付き合っただけだよ。業務の一環みたいなものだから」

「さてはわたしの特等席だけでは飽き足らず、きょーしろさんにも乗ったのでは!?」

「ちょっ、なにしてんの!?」


 車道に出る前に、僕は車を急停止しなければいけなかった。だってこの子、僕の股間に顔面をダイブさせるんだもの。シートベルトを外して体を伸ばしてきたから、発車させるわけにはいかない。


「すんすん……すんすんすんすん!」

「とんでもない勢いで嗅いでるのなんで!?」

「イカさんのにおいはしないようですね……」

「目的変わっちゃってるでしょうが。もうやめてよ」


 またこの子はアイドル仲間からろくでもないムダ知識を教わってきたな。


「わたしがんばってたんでずよぉ~。ぞれなのにきょーじろさんは~どーじてわたしをほったらかして遊んでるんですが~」


 股間から顔を離してくれたものの、今度は僕の膝にすがりついたまま、おいおい泣き始める。


「うんうん、宝耀さんが頑張ってるのはわかってるから……」


 宝耀さんも、根を詰めすぎているのかもしれない。こんな情緒不安定な姿、初めて見る。自惚れになりそうだけれど、ひょっとしたらここ最近僕と会う機会が激減しているのも精神状態に影響している可能性がある。いくらスタジオへ行けばアイドル仲間がいるとはいえ、彼女たちは仲間であると同時にライバルだ。僕はマネージャーの立場として、気分良く仕事をしてもらうべく、宝耀さんをもり立て続けてきたのだから、今の状況を不満に思うことも多いはずだ。

 宝耀さんにとってはライバルな本道さんと親しくすることで、疎外感を覚えてしまっているのだろう。

 僕は、一旦車を運転させることを諦め、宝耀さんをなだめることに専念するべく路肩に駐車する。


「ほらほら宝耀さん、泣かないで。宝耀さんの取り柄は明るいことだよ。これでも舐めて元気出して」


 僕は偶然ポケットに入っていた飴玉を宝耀さんに渡す。


「ぐすんぐすん、飴ちゃんなんかでわたしの機嫌が治るとでも?」

「めっちゃくちゃ口開けて待ってるじゃん」

「ぐすんぐすん……さて、これからあなたは手を使うことなくわたしに飴玉を食べさせなければいけません」

「なんで急にとんち合戦始まったの。あんまりいらないっぽいから、これはあとであげるね」

「ちょ、待てヨ!」


 僕が飴玉をポケットに入れ直そうとすると、宝耀さんは突如大物俳優の風格を出した。


「口移しすればすぐ食べさせられるでしょうが!」

「でしょうが! じゃないよ。どうして大事な所属アイドルに口移しで飴玉食べさせないといけないの。実質キスするようなもんでしょ。僕マネージャーでいられなくなっちゃうよ」

「おや? それならもうきょーしろさんはとっくにマネージャーでいられなくなってますね?」

「さっきまで涙目だったのによく180度違うニヤニヤ顔できるよね。……確かに、宝耀さんを『枕』にしてた僕がマネージャーでい続けてるのもおかしな話かもだけどさ」

「違いますよぉ。そんな些細なことじゃありません」


 嫌な予感しかしない笑みを浮かべた宝耀さんは、唇をちゅっちゅと鳴らして。


「きょーしろさんが寝ている間、わたしはなんだってできるんですよね」

「まさか……いや、ウソでしょ? いくら宝耀さんだってそんな恐れ知らずの無法行為しないはず……」

「ふふふ……ウソかどうか、現場を見ていないきょーしろさんには証明しようがありませんよ。真実を知っているのはわたしだけで、わたしは本当のことしか言ってません」

「ば、バカな……」


 宝耀さんを『枕』にすることで快適な眠りに落ちてしまう僕は、途中でふと目が覚めてしまうようなことはない。その間は、宝耀さんの無法状態が始まるわけで、僕には抵抗しようがない。そういえば、初めて宝耀さんと寝てしまった時は、半裸にひん剥かれていたのを思い出した。

 こいつ……やりかねないぞ。

 けれど、抵抗しようがないのなら、僕に罪はない。

 だから僕は、アイドルとしての宝耀さんの価値を貶めるようなことはしていない。

 ていうか、宝耀さんはそれでいいのかって疑問はあるけれど……。どういうわけか僕を好きでいてくれるらしいけれど、そんな初キスでいいのか。

 キス止まりだよね? と訊ねたい気持ちはぐっと抑える。それ以上のことをしていたとしたら、これほど恐ろしいことはないから。宝耀さんは未成年だし、誰かと付き合ったこともないっぽいから、そこまで思い切ったことをしていないと思いたいけれど。


「そんなわけで、今更1回や100回たいした違いはありません。ほーら、その飴玉をわたしの口にインしてくださいヨ。マウス・トゥ・マウスでね!」

「……それ、男女逆だったらとんでもないことなんだけど」


 頭を抱えて、僕は言う。


「きょーしろさんがわたしに要求するなら問題ですけど、逆なんですから問題ありませんよ。だって、美少女の側からお顔平凡男にお願いするんですよ? 顔面格差があるんですから、きょーしろさんにはささやかな幸福が訪れるってことでなんの問題もないですよ」


 問題あるよ。僕の自尊心が傷つくよ。事実だから文句言いにくいけどさ。

 こうなった時の宝耀さんは何を言っても聞かないんだ。

 それに……飴玉の口移し程度で機嫌を直してくれるのなら、安いものだ。このチャンスにすがるしかない。

 今の僕は、覚醒状態が続いて頭があまり回らないのだ。あれこれいろんな手段を考えることなんてできやしない。

 これも、ひよこオフィスの人間として、絶対にクリスマスライブを成功させるためだ。


「……いいけど、絶対、誰にも言わないでね?」

「わかりました。言いませんよ。絶対、絶対ですよ?」

「フリじゃないんだよなぁ」


 僕は、ダッシュボードを開くと、眠気覚まし用に常備しているフリスクを取り出して口に放った。

 僕はおっさんだからね。若い子と顔を接近させる時のためのせめてものマナーだ。


「えっ? ちょっ、なに本気感出してるんですか! そんなガチでやられると恥ずかしくなっちゃいますよ!」

「えー、でも臭くない?」

「臭くないですよ。なんできょーしろさんはへんなとここだわってネガティブなんですか。毎晩一緒におねんねした仲でしょうが、今更においなんて気にしませんよ。それにわたし、きょーしろさんのにおい、好きですよ?」

「そ、そう? じゃあ……」


 妙な肯定感を覚えた僕は、フリスクではなく飴玉を口にくわえる。

 ホント、宝耀さんって変なこと考えつくよなぁ。

 でもこれで宝耀さんは機嫌を直してくれるわけで、『枕』をやめてもらってからずっとギクシャクしていた生活を終わらせられると思うと、むしろ提案してくれてよかったとすら思える。

 僕は、極力フロントガラスから覗き見られることのないように最大限の注意を払って、餌を放り込まれるのを待つひな鳥みたいな宝耀さんに向けて顔を近づける。

 間近で見たのは初めてではないというのに緊張してしまう。社長も、宝耀さん本人も、顔の造り自体は素朴と言っているのだけれど、とんでもない。僕からすれば整っていて、美少女アイドルの面目を保つには十分に思えた。

 飴玉付きの唇が宝耀さんのそれに触れようかという時、突如僕の唇は進路を変えた。

 宝耀さんの腕が僕の首に絡みついてきたせいで、僕は体勢を崩してしまう。背中をシートにくっつけていた宝耀さんにもたれかかるようになった。僕の顔はそのまま彼女の胸元へ向かっている。

 あっ、この体勢は……。


「ほらぁ、やっぱりきょーしろさんはまだぜーんぜん治ってないじゃないですかぁ」


 僕の耳元で、宝耀さんの声がとろけそうなくらい甘く響く。

 宝耀さんは、運転席側に足を伸ばすかたちで、助手席に横になっていた。こんな時に限って膝丈のスカートを穿いているから、白くて長い脚が僕の両脇に伸びるかたちになっていてやたらと煽情的だった。おまけに、おっぱいの大きな人が着たらマズいことになるリブニットの黒い服を着ているせいで、僕の目の前にわかりやすく盛り上がった2つの山が急接近していた。

 傍から見ればとんでもなく刺激的な体勢だったのだが、僕の顎先が宝耀さんの胸元に刺さっているせいで、体中の力が緩んでいて、抵抗できなくなっていた。

 これまで『枕』になってくれていた体勢のまま、宝耀さんが言う。


「きょーしろさん、めちゃくちゃ疲れてましたもんね。近くで見たらわかっちゃいますよ」


 僕は宝耀さんから見破られるくらい疲弊していたっていうのか。

 宝耀さんの胸元の感触がするせいで、意識がどんどん遠のき、代わりにやすらぎが訪れていた。


「僕まだ仕事残ってるんだけど……」

「仕事なんて、あとでもできるじゃないですか」


 宝耀さんが、ぐいっと腕に力を入れて、僕を抱きしめるかたちになったことで、僕は宝耀さんの胸元……いや、おっぱいに顔を押し付けることになった。


「……外から見られたら……どうするの……大スキャンダルだよ……」


 心配することはたくさんあるのだけれど、もはや感じなれた温かみや安心する匂いや感触のせいで意識がどんどん遠のいていく。


「きょーしろさんが眠ったあとに後部座席に移動するんで安心してくださいよ。誰にも見られませんってば」


 宝耀さんの胸が大きいせいで、全力で胸元に押し付けられると呼吸が苦しくなってしまうのだけれど、僕の頭をなでるなどしてほどよい力加減にしてくれた。そのせいで眠気が加速するわけだけど。

 久しぶりに訪れた眠気のおかげで、もはや細かい懸念は消え失せ、あとは起きているであろう宝耀さん任せにするしかないというギャンブル状態のまま、僕は久々の快適な眠りについたのだった。

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