第37話 決裂
夜のことだ。
いつの間にか、以前よりずっと宝耀さんとの距離が近づいてしまっていた。
夕食会に誘われたのがキッカケだと思う。
それまでは、眠る時だけ宝耀さんに来てもらっていたのが、今では眠る時以外も当たり前のように僕の部屋にいる。僕の部屋で料理もすれば、トイレだって平気で使う。その上、僕のベッドを気に入ったのか、やたらと独占するようになっていた。ヒマさえあればそこでゴロゴロしている。猫がお気に入りのトイレスポットを見つけたようなものだろうか?
「おや? なんだかなめまわすような視線を感じましたよ?」
ごろんと寝返りを打って、顔の筋肉全部を弛緩させたような、にや~っとした笑みを浮かべる。
「うふふ、きょーしろさんったら。寝っ転がったわたしのふくらはぎにムラムラきちゃいました?」
「僕にそんなマニアックな趣味はないよ」
いくらかお金を持ったことで、宝耀さんの部屋着にもバリエーションが増えていて、この日はもこもこ素材のパーカーに脚がむき出しなショートパンツを穿いていた。寒くないのかな。だからこそふくらはぎが見えているわけだけれど、別に僕はそんなところに視線を送った覚えはない。
「あー、はいはい強がりはいいんでちゅよ~。きょーしろさんの本心はわかってまちゅからね~」
やたらと軽快な身のこなしでベッドから跳ね起きた宝耀さんは、口元をぺろぺろさせながら、ソファに座っている僕のそばまで寄ってくる。僕がソファのほぼ中央に座っていようと構わず座ったものだから、宝耀さんの左ももが僕の右ももに重なるようになってしまった。
「これだけ同じところにずっといたら、意識しちゃいますもんね」
「なにうぬぼれてんの」
「だって~。きょーしろさんは前にわたしの全力ファンで結婚したいくらい好きって言ってくれたじゃないですか~」
「いやそこまでは言ってないよ。マネージャーとして、全力で宝耀さんに味方するよって意味だったと思うんだけど……」
なんか宝耀さんは自分に都合よく解釈するところがあるよなぁ。
「だいたい、僕はマネージャーだからね。仕事上近くにいるのをいいことに、宝耀さんと付き合っちゃったり結婚しちゃったりしたら、少しずつ増えてる宝耀さんのファンを裏切ることになっちゃうでしょ」
「でも~、わたしのアイドル仲間が言うには、マネージャーと付き合っちゃうこともあるあるだって聞きましたよ?」
誰だ、余計な知識を付けさせたのは。
今の宝耀さんは、都会に知り合いのいないぼっちではなくなっていた。
宝耀さんがレッスンのために通っているスタジオには、他の事務所のアイドルや研修生も出入りしている。宝耀さんはやたらとコミュ力が高いから、別の事務所の人間だろうと関係なく仲良くなってしまったらしい。外部の人間と接触すると、僕が『枕』にしていることまでうっかり喋ってしまわないか心配になるけれど、仲間の存在は宝耀さんのメンタルに良い方に作用するはずだから、やめろとは言えなかった。
「そういうのは真に受けないの。その子たちだってどうせ誰かから聞いた噂を適当に流してるだけなんだから」
宝耀さんの言うこともなくはないのだが、ここで当のマネージャーである僕の口から肯定したら厄介極まりないことになる。
「とにかく、僕はちゃんとその辺の線引はしっかりするから。プロだからね」
「などと言いながらベッドへ向かうきょーしろさんなのでした。ふふっ、かしこまり☆」
「これは単に宝耀さんから離れたかっただけだよ……」
ていうか、ナニをかしこまったの。
そのつもりはなかったのに、宝耀さんに手出しをする気満載に見える行動を取ったようで恥ずかしくなった。宝耀さんは某ドラクエのパーティメンバーみたいに僕に張り付いていて、今更部屋の中のどこへ行こうと離れられそうにない雰囲気だった。トイレにすらついてきそうだ。
僕はベッドに腰掛けると。
「……前々から思ってたんだけど、そうまで言うからには宝耀さんは僕のこと好きなの?」
「ちゅきちゅき~」
両手でピースサインをつくって、指先を動かしながら唇をちゅっちゅと鳴らしてくる。ご機嫌だな。
「そういうことじゃなくてさ、ほら、こう、本当に恋人にしたいとかそういう意味で」
自分でこういうことを言うのは、うぬぼれているようで恥ずかしかった。言動に奇妙なところはあるけれど、宝耀さんのスペックは高いわけで、仕事上の立場を抜きにして比べると、冴えないサラリーマンの僕では宝耀さんと釣り合わないのだから。
宝耀さんは、長い髪で口元を隠すようにしてクネクネ始めると。
「どうしよっかなぁ~。言っちゃおっかなぁ~」
やたらもったいぶり始める。
答えはこうだ! と明言しそうにない雰囲気だったけれど……どうも宝耀さんは、僕を憎からず思っているところがあるようだった。
ふやけた顔をしながらベッドであぐらをかいた宝耀さんは、僕の手を取って、ふるふる上下に振ったと思ったら、ハンマーロックで僕の自由を奪う。立ち上がりのがっぷり手四つからの腕の取り合いみたいなムーブを何故見せた。どうも暴力で制圧しようという気はなさそうだけど。
「聞きたいですか?」
「いや、いい」
答えを聞くのが怖い気持ちがあった。
「聞いてくださいよぉ~」
あっさり僕の腕を離した宝耀さんは、僕の膝にダイブしてくる。ちょうど、大きな胸が僕の両脚の間に挟み込まれるような格好になった。
「わたし、ドキドキを求めて田舎を出たトコあるんですよね」
宝耀さんはご機嫌な様子で、両足をパタパタさせている。脚に連動して、尻が柔らかそうにふるふる震えていた。見ないようにしないと……。
「今わたし、とってもドキドキしてるんですよー?」
マズい。めっちゃ体を反らせて見つめてくる宝耀さんの瞳に完全にハートマーク入っちゃってんよ、これ。
宝耀さん……もしかして、本当に僕のこと好きなんじゃ。
もっとマズいことには、僕にも決してまんざらではない気持ちがあるということ。
僕は、アイドルとガチ恋がしたくてマネージャーになったわけじゃない。
裏方として最大限のサポートをしたくて、マネージャーになったのだ。
もしかしたら、宝耀さんを傷つけることになるかもしれないけれど……どちらにせよ、僕はあまり長い間宝耀さんを『枕』にしてはいけなかったのだ。
引き返せなくなる前に、言わないといけない。
「――宝耀さん、僕はもう……宝耀さんに無理をさせないように決めたんだ」
「んふふ。どういうことですか?」
意味がわかっていない宝耀さんは、未だ夢見心地な表情をしていた。
「僕はもう、宝耀さんとは寝ない、って言ったんだ」
「おやおやなに言ってるんですか。おかしなことを。きょーしろさんはわたしがいないと眠れないって前から」
「……あれは、ウソだったんだ」
「ウソ?」
「実は、もう治ってるんだ。宝耀さんのおかげで」
実は、治ってなんかいない。宝耀さんがトレーニングやレッスンを受けている時、送迎用の車の中で何度か一人で寝てみようと試みたが、どれだけハードな仕事のあとでも、眠りが訪れる気配は一切なかった。
「僕は、もう大丈夫なんだよ。だから、宝耀さんに負担をかけることはもうないんだ。今日からは寝る時も一人で、部屋もできるだけ別々に」
ゆらり、と宝耀さんが体を起こす。
「まさかそれはマネージャー交代の前触れですか!?」
至近距離だったものだから、めっちゃ、ツバ飛んだ。
「違うよ……そうじゃなくてね」
「わーん、やっぱりあの女の方がいいんですね! 本道永澪アイドルに鞍替えするつもりなんだ!」
「いや聞いて」
現場で関わる人間からは、よくも悪くも迫力がない、と言われる僕だけれど、極力迫力が出るように言った。そうでもしないと……伝わりそうになかったから。
「宝耀さん、僕は……アイドルと恋愛する気はないんだよ」
だって、そう覚悟してこの業界に入ったのだから。
もっとも、ドルオタ上がりでモテるわけでも楽しい人間なわけでもない僕がアイドルから気にかけられるとは思っていなかったし、実際そうだった。……とても特殊な宝耀さんを除いて。
「僕にできるのは、アイドルをサポートすることだけなんだ。それ以外は……できないよ」
不器用な僕には、あれもこれも器用に並行して何かをすることはできない。仕事場にいるアイドルとの恋愛に没頭しながらマネージャーをすることなんてできそうになかった。
「つまりわたしは……きょーしろさんにフラれたわけですか?」
「でも、僕は宝耀さんを人気アイドルにするために身を粉にして頑張るつもりだから」
「そんなおためごかしはいーんですよ……」
テレビから這い出てくる某貞子みたいに、にゅるんとベッドから降りる宝耀さん。
「失礼しちゃう! きょーしろさんは、初めからわたしの体目当てじゃなかったってことですよね!」
なんだか理不尽なキレ方をされてしまう。
一般の感覚では、逆なような気がするけれど……宝耀さんだからなぁ。あと、自分の胸をガンガン揉んで変なアピールしないで。
「もういいです。これからは、きょーしろさんのお望み通り、ドライでお金だけの関係でいてあげますよ」
宝耀さんはキッチンへと走り、何かを手に取った。
キラリと光る、包丁だった。
「さよなら、きょーしろさん」
包丁を手にした宝耀さんは、体から闘気のオーラが見えるくらい圧を出しながら、まっすぐ僕に突進して心の臓を一突きにする……ことはなく、包丁を雑にぶら下げたまま玄関へ去っていく。すーっ、と、流れるような動作で。
「えっ、刺さないの?」
何のために包丁を手にしたのか理解できない僕は、自分でも理解し難い反応をしてしまう。
「なっ、なんて物騒なこと言うんですか! これはわたしがここで料理するために持ってきたマイ包丁なので、回収して帰るだけです! もうどうせここでは料理しないんですから!」
なるほど。よかった、ヤンデレ化したわけじゃなくて。
「むしろ、わたしの方がきょーしろさんに言いたいですよ。『えっ、挿さないの?』って」
「下ネタはアイドルとしてNGだよ。どこで覚えてきたの」
「仲間が教えてくれました」
宝耀さんのアイドル仲間か。ろくでもないこと教えてくれちゃって。宝耀さんは田舎育ちの純粋な天真爛漫さが魅力なんだからあんまり変なこと教えないでほしいなぁ。ていうか同じアイドルの仲間とどんな会話してたの。
「友達の言うこと鵜呑みにしちゃダメ。公の場では絶対下ネタは言わないでね?」
「はーい、言いませーん、それくらいわかってまーす、ちんちん」
「あてつけのレベルよ」
「うんこ!」
「もう小学生レベルでしょそれ……」
「きょーしろさんが悪いんですからね!」
ぷんすかしながらそう言い放つと、バタン、と扉が閉まる。
まるで、蓋をされたような響きがあった。
こうして僕は、再び一人だけの空間で過ごすことになってしまった。
これでいい、これでいいんだ。
僕の社会人としての生活のためにも、宝耀さんのこれからのアイドルとしてのキャリアのためにも。
その後、僕は寝る支度をしてベッドに入るのだが。
案の定というべきか、いつまで経っても眠気が訪れることはなく、以前まで感じていた焦りだけではなく、大きくて深い寂しさにまで襲われてしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます