第36話 言えたこと、言えないこと
宝耀さんは、ふざけているのか本気なのかわからない制御不能ノーリミットなところがあるわりには、本番になるとしっかり仕事をするタイプである。
クリスマスライブという目標ができたおかげか、それを想定したレッスンにも熱が入るようになっていた。
そんなある日、ひよこスタジオで昼休みを取っていると。
「――どうですか、先輩。あの問題児の方は?」
コーヒーの入ったカップを手にして、澤樫が現れた。
「宝耀さんなら問題ないよ。いつもみたいにきっちり仕上げてくるだろ」
澤樫からすると、問題児なんだろうけどね。自分がマネージャーをしているアイドルとバチバチに揉めに来るわけだし。
「そうですね。海奈さんは変なところでしっかりしたところがありますからね」
わざわざ嫌味を言いに来たわけではないようだ。
澤樫は今でも予定が空いていればトレーニングに付き合ってくれているから、宝耀さんをちゃんと評価だってしているのだろう。
「先輩は、海奈さんみたいに手がかかる子のマネージャーが合っているのかもしれませんね」
澤樫は、片手に持っていたカップをこちらに手渡してくる。なんだ、それ僕にくれる用だったのか。1人で2杯飲むのかと思っちゃったぞ。
「今の方が、先輩は元気そうですから」
「僕は前から元気だろ?」
「いーえ。海奈さんが来る前は、たまに暗い顔してましたよ」
暗い顔……まさか、ふと木乃実のことを思い出してしまっていた時に、そんな顔をしていたのだろうか?
澤樫はどこか寂しそうだった。
そういえば、澤樫は木乃実のことを知らないのだ。
澤樫は、木乃実と入れ替わりのタイミングでひよこオフィスにやってきた。腐れ縁だから、僕が社会人になっても澤樫とは交流があったけれど、木乃実のことは話していなかった。仕事のことを部外者に話すわけにはいかなかったから。
「まあ、澤樫からすれば元気なく見えてたとしても、今は元気なんだから何も心配することないだろ」
心配をかけたくなくて、僕は言った。
澤樫は納得いかない顔をしている。
「……社長もナガちゃんも知っているのに、私だけ知らないのは仲間はずれにされている感じがするんですが」
どうも澤樫は、千田木乃実が不本意なかたちで去ったことを知っているようだ。
木乃実のことは、調べようと思えばすぐに調べられる。仲が良い本道さんから木乃実のことを聞いていたっておかしくはない。
……だとしたら、隠しいても、しょうがないか。
それに、今の澤樫は大学生だった頃と違って、この業界で働いている人間だ。今後のために知っておいてもらうのもアリかもしれない。
「……澤樫がうちに来る前、僕が上手くサポートできなかったせいで、担当していた子が芸能界に見切りをつけて地元に帰った。それだけの話だよ」
よくあることだ。よくあることすぎて、それ以上語りたくないくらいに。
地元に帰った木乃実が幸せになったと聞いたこともなければ、不幸になったという話も聞かない。すべては終わったことだ。木乃実は人が良くて賢かったから、別にアイドルや芸能人じゃなくても幸せにやっていけているはずだ。
だから、誰も気にするような話じゃないのだ。
プロに徹しきれていない僕だったからこそ、ここまで引きずってしまっているわけで――
「でも、先輩はそのことを今も気にしているんですよね? なんか、なんでもない風を装っていますけど」
まるで胸の内を読んだみたいに、澤樫が言った。
「先輩」
澤樫が距離を詰めてくる。僕は追い詰められるように後退した結果、自分のデスクに乗り上げるようなかたちになってしまった。
この時間、オフィス内には僕と澤樫以外誰もいなかった。社長は営業周り中で、宝耀さんはレッスンで、本道さんは本社のある東京へ行っていた。
つまり、2人きりの状況だ。
澤樫と2人きりでいるなんて今更意識のしようがないって話なのだが、いつになく真剣な表情で見上げてくるこの後輩は、やたらと瞳が熱っぽくなっているように見えた。
「私は、もう学生でも、子供でもありません」
「お、おう、そうだな……」
なんだこの迫力は……圧倒的武力を誇っている剛の者を前にしているからという理由ではない得体の知れない圧力を感じる……。
「先輩がどう思っているか知りませんが、今の私なら、先輩の力になれます……!」
澤樫は開いた僕の両脚の間に手を差し込むようにして身を乗り出す。
顔が近い。
ちょっとでも首を前に傾ければ、唇に触れられそうな距離だ。
武闘派なせいでたまに忘れてしまいそうになるけれど、澤樫はとても顔立ちの整っている子だった。日頃からアイドルを見慣れていてもそう思ってしまうくらいに。
「先輩に何かあったら……私が先輩を守ります。だからこれからは、なんでも相談してください」
とんでもなく男前な発言が、後輩から飛び出した。
「先輩の悩みは、私の悩みも同然ですから!」
「お、おう、ありがとう……」
その熱気に思わず圧倒されてしまった僕は、それしか言うことができなかった。
先輩としての威厳、ゼロだった。
澤樫だって頼もしく成長しているのだ、と感慨にふけった途端。
澤樫の顔色が、急激に赤くなり始めた。
「わ、私が言いたかったのはそれだけです! ……ずっと、先輩はどうして思い悩んでいる時があるのかわからなかったので……言うチャンスがありませんでした」
背中を向けて、澤樫が言った。
「だから、先輩が言ってくれて嬉しかったです。同じ事務所の仲間ですから……!」
そして澤樫は、本道さんの仕事があるからという理由で、事務所を出ていった。
一人になった事務所で、僕は思う。
澤樫はああ言ってくれたけれど、僕には言えないことがまだあった。
それは不眠症のことで、そしてその解消手段として、信頼を失いかねない変態的な方法を取っていること。
澤樫が、ああいう嬉しい言葉をかけてくれたあとだから、余計に口に出しづらかった。
澤樫は同じ事務所の仲間として信頼してくれているみたいだけれど、僕だけみんなを信用しきれていないみたいで、モヤモヤがいっそう募った。
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