第31話 名前で呼んで

 この日の仕事はこれで終わりではなく、宝耀さんにはレッスンがあった。いい加減なように見えても、ほぼ毎日レッスンなりトレーニングなりをこなしていたのだった。

 僕は宝耀さんをレッスン用のスタジオまで連れて行かなければならない。車の用意をするために、事務所の外にあるささやかな駐車場へ向かう。

 本社から払い下げられた型落ちの乗用車の前まで来ると、小気味良いテンポで駆けてくる音がした。

 本道さんだった。

 一度見たら忘れられないような印象的で可憐な笑みを浮かべている。


「ごめんね、為田さん。私、海奈ちゃんと為田さんが何でもないってわかってたんだ。だって為田さんは海奈ちゃんのこと名字呼びだもんね。前は担当してる子は名前呼びだったのに。『家族も同然だから』って前に言ってたでしょ?」


 いつもと変わらない魅力的な笑みを浮かべているのだが、今の僕にはちょっとした悪魔に見えないこともなかった。


「為田さん、海奈ちゃんとまだあんまり仲良くないよね? 海奈ちゃんがどう思ってるかは知らないけど」


 本道さんの声音には、悪意めいたものは感じなかった。ただ、完璧な清楚系アイドルで、プロ意識も高い本道さんなだけに、本心がわかりにくいところがあった。


「まあ僕はともかく、宝耀さんからすれば僕はただのマネージャーだからね。あとご近所さん。それ以外のなにものでもないだろうね」


 納得してくれていなさそうな態度の本道さんは、助手席側の扉に背中を押し付けるように車に寄りかかった。


「まー、海奈ちゃんのことは実はどうでもいいんだけどね」


 にこにこしたままの本道さんの長い黒髪が、風で揺れる。


「私まで名字呼びにしちゃうことないと思うんだけどなぁ」


 本道さんは、寂しそうに見えた。


「前は『永澪』って呼んでくれてたのに」


 本道さんの視線がこちらに向かう。

 咎めるようでいて、どこか甘えているような、耐性のない男なら一瞬で恋に落ちてしまいそうな視線だった。

 このままじゃ余計なことを口にしてしまうのではないかと恐れを感じた時だった。


「きょーしろさん!」


 聞き慣れた大きな声が、過去のことを思い出しそうになる僕を現実に引き戻す。

 宝耀さんは、眉を10時10分の方向につり上げていた。


「ンバァ! この女ァ! きょーしろさんと2人きりで向かい合ってナニしようとしてたんだタココラァ!」

「ちょっと話をしてただけだよ、宝耀さん。それに2人きりじゃないって。向こうじゃ車がびゅんびゅん走ってるんだから」


 僕は、宝耀さんをなだめようとするのだが。


「吐いたツバ飲み込むなよコラァ!」

「どうして僕に怒りの矛先が向かうのさ……」

「なんかその女の味方しようとしたからですよぉ! わたしは噛ませ犬になるつもりはありませんですワン!」


 宝耀さんは、僕と本道さんの間に立ちふさがり、両手を広げる。


「別になんでもないから、海奈ちゃんは気にしなくていいんだよ? 私、海奈ちゃんと揉めたいわけじゃないから」


 本道さんはそれだけ言うと、こちらに手を振って、軽い身のこなしで事務所へと戻っていく。

 一方の宝耀さんは、しっしと手で追い払うものの、本道さんに変に絡んでいくことはなかった。

 よかった。揉め事になったら、僕は言わなくてもいいことまで宝耀さんに伝えないといけなくなったかもしれないから。


「きょーしろさん!」


 背中を向けていた宝耀さんは、背中を向けたまま体を反らせて僕を見る。顔面が重力に負けてアイドルにあるまじき顔つきになってるってば。


「都会には変な女が多いんですから、気をつけてくださいね!」


 体を反らせた変な女が僕を指差す。


「田舎から出てきて間もない宝耀さんに言われたくはないけど、心配してくれてありがとう」

「そうだ、わたしきょーしろさんに聞きたいことがあったんですよ」


 宝耀さんが、こちらに向き直る。


「水着っていうことはアレですよね、もちろんきょーしろさんもわたしの水着姿を見てしまうことになるわけですよね?」

「まあ、僕も撮影現場には立ち会うからね」

「そ、そうなるとついにきょーしろさんがわたしを『女』として見てしまうことになりますね!」


 両手を頬に当てた宝耀さんは、きゃっ、と謎の嬌声を上げる。


「どれだけ体に自信があるのか知らないけど、僕は大事な所属アイドル以外の何かとして見る気はないからね?」


 だいたい、ついさっき交際疑惑を弁明させられたばかりでしょうが。僕は危ない橋を渡る気はないんだよ。もちろん、『枕』になってくれていることについては、とても感謝しているけれどさ。


「また! そんなこと言って!」


 運転席に乗ろうとする僕の背中にくっついて、同じ扉から車に乗り込む宝耀さん。僕の膝の上をぬるぬると匍匐前進するようにして、助手席に向かった。


「わたしと毎晩のように体をくっつけて寝てしまってるんです。わたしに情が湧いたっておかしなことじゃありませんよウフフ」


 シートベルトでパイスラをさせながら、宝耀さんが言う。

 確かに僕は、宝耀さんに愛着を持っている。

 ちょっと変わった状況下でスカウトして、僕の不眠症を改善させてくれて、一緒に仕事をしていれば、もはや単なるその辺の女の子と同じように見ることはできない。

 けれど、宝耀さんを『女』として見ているかと言われると、そう言い切れなかった。社長から釘を差されるまでもなく、宝耀さんはうちの事務所の宝にして『商品』なのだから。

 ひょっとすると情が湧いているのは、宝耀さんの方なんじゃないかと思った。

 都会に一人で出てきた自分に仕事と部屋を与え、公私問わず一緒にいる。地元では年の近い異性との付き合いが希薄だったらしいから、僕相手でも免疫がないせいで意識してしまうことはあるかもしれない。


「きょーしろさんはわたしのことを意識していないってすーぐウソついちゃいますからねえ。そろそろ素直になっちゃった方がいいんじゃないですかねえ」

「やめて。運転中だから」


 図星を付かれたわけではなく、僕の脇腹をつんつんとつついてくるので事故に発展しそうで危なかった。

 仕事がやりやすくなるから、嫌われるよりはずっといいけれど、距離が近すぎるのも問題だ。

 ……僕は少し、宝耀さんとの付き合い方を考え直さないといけないのかもしれない。

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