第22話 海奈ちゃんと収録

 歌のレコーディング当日。

 録音用のスタジオは、海沿いにある小規模な場所だった。

 スタジオとして独立した建物ではなく、雑居ビルな見た目で、一階の弁当屋の下にある地下スタジオだ。

 なんでも、『パーフェクトプラン・プロダクション』と提携している音楽事務所があり、そこに所属しているバンドが所有するスタジオらしい。今日は特別に使わせてもらえることになったのだ。こういうことができるのも、社長と本道さんのおかげなのである。


「ふんふん、地下にスタジオがあるというからどんないかがわしい施設なのかと心配だったんですが、これはなかなかシャレオツですよ」


 宝耀さんは、礼拝堂みたいに静謐な雰囲気がある地下スタジオが気に入ったらしく、鼻息荒く建物の中を観察している。でも顔をサ◯スパークみたいにするのはやめなさいね。

 すでにスタッフは揃っていて、録音に向けて準備を始めていた。

 そろそろ宝耀さんには、スタジオ観光モードから切り替えてもらわないと。

 カーペットの上に伸びている何かしらの配線を踏まないように気をつけながら、四角い箱みたいな機材に腰掛けた宝耀さんのもとへ向かう。


「そんなことより宝耀さん、浮かれてばかりいるけど、ちゃんと歌えるの?」


 宝耀さんに与えられた歌の仕事は、思いの外本格的だった。社長から歌のお仕事のオファーが来ていると知った時は、僕も澤樫と同じく、ほとんどワンフレーズしかないような短い歌を歌うものと思って気楽に考えていたのだが、詞も曲も専業の人間に委託してつくった3分程度の長さがある本格的なポップミュージックだったのだ。しかもなかなかオシャレである。とてもじゃないが、デビューしたばかりのド新人には荷が重く思いんじゃ? と思えそうなデモ音源が届いたのだった。


「あたりまえじゃないですか。きょーしろさんだって、わたしが練習するところ見てたじゃないですかー」


 誰か見ていた方がやりやすいんですよねー、という理由で宝耀さんは僕の部屋までやってきて、僕のベッドに潜り込んで歌うという奇妙な方法で練習していた。そりゃうちの安アパートには防音の設備なんてないから、布団で音を防ぐのも手なんだろうけどさ。


「そうだけど、練習と本番は違うから」


 練習を聞く限り、宝耀さんの歌はそれなりに上手く聞こえた。元々声質はいいから、安定して声を出すことができれば下手と言われることはないはず。


「ですね。本番になった時のわたしはとんでもない力を発揮してしまいますから」


 相変わらず宝耀さんは自信家にもほどがあった。


「この調子でビッグになって、いずれは海外でのレコーディングも視野に入れちゃいますよねぇ」

「そんな大物アーティストみたいなこと、まずできないからね」

「むむん、アビーロード。世界的なわたしにぴったりなスタジオは、あそこにありますよ」

「聞きなさいよ」

「心配しないでください、きょーしろさんも一緒にアメリカに連れて行ってあげますから」

「アビーロードスタジオはイギリス……」

「うるさいですねえ。似たようなもんじゃないですか。どっちも外国人がいる国でしょうが」


 宝耀さんのとんでもなくアバウトな海外に対する認識に驚愕していると、レコーディングを始めるというアナウンスがあった。

 宝耀さんは一人で小さな個室へと入っていく。ガラス越しにブースの様子を見ることができた。

 ここから先は、僕は見守るのみだ。僕は音楽プロデューサーじゃないからね。せいぜい宝耀さんの暴走をコントロールするくらいしかすることがない。膨大なスイッチが貼り付いた板を操作しているエンジニアさんの仕事ぶりを拝見しながら宝耀さんを見守ることにする。

 本格的な歌を要求されたのは、期待の裏返しだ。ここでいい仕事をすれば、宝耀さんには更なるチャンスが生まれる。

 宝耀さんが熱心に練習していたのは直に見て知っていたし、本人が豪語するように本番でも力を発揮するタイプなので、たとえ思いの外本格的な歌を求められようとも、きっちりこなすだろうと軽く考えていたのだが……。

 宝耀さんは苦戦していた。

 音楽に関しては素人でも、担当するアイドルのレコーディングに何度も立ち会った身としては、これは明らかに劣勢を強いられている状態だった。

 何度も歌い直しを強いられる。この場には、歌唱を監督するプロデューサーがいて、その人からオーケーの返事がもらえずにいたのだった。

 いつも明るくて、あまり自身の苦悩や焦りを見せない宝耀さんですら、今は少し焦りを感じているように見えた。

 もしかしたら、本道さんのことを実は意識してしまっているのかもしれない。

 本道さんはちょっと別格の存在だから、ヘンに意識すれば自滅してしまうというのに、宝耀さんは面識がないからわからないのだろう。ライバルがいるのはいいことだけれど、現時点では本道さんと宝耀さんとでは差がありすぎて比べられないレベルだ。焦りを生むだけで、いいことはない。

 録音を担当しているスタッフも、このままではいけないと考えたのだろう。

 一旦休憩ということになる。仕切り直しの休憩だ。

 個室から出てきた宝耀さんは、もちろん納得のいく顔をしていなかった。通路にあるソファに座って、むすっとした顔で腕を組んでふんぞり返っている。


「宝耀さん、アイドルアイドル」


 宝耀さんの気持ちを切り替えるつもりで、冷えっ冷えの缶ジュースを頬に当てる。


「ぶひゃっ、冷てえっ」

「驚き方よ……」


 もっと可愛らしい反応をしてくれるものとばかり思っていたよ。


「きょーしろさんがいじわるするからですよっ!」

「よかれと思ってやったんだけど、怒らせちゃったのならごめんね」

「べつに怒ってはいないんですけどー」


 宝耀さんは缶ジュースのプルトップを引っ張る。飲み口から、ぷしゅっ、という炭酸の弾ける音がして、爽やかな匂いが広がった。

 宝耀さんは、個室の中にいた時のような焦りのある表情をしていなかった。怒っていないというのは本当なのだろう。

 僕もマネージャーとして、何かできることをしなければ。レコーディングを成功させる義務がある。


「宝耀さん、なにか僕にできることはある? こういうところが上手くいかない気がする、って思ったことは言ってくれていいんだよ?」


 苦境を打破する手助けができるように、僕は踏み込んだ質問をする。ただし、慎重にならないと。宝耀さんってけっこう人からアレコレ言われるの嫌がるところあるからね。社長からダイエットを命じられた時もそうだけど。


「ひょっとしたら、これが新人への洗礼ってヤツなのかもしれません……」


 缶をソファの傍らに置いた宝耀さんは、腕を組んでうむむとうなり始めてしまう。


「それはないんじゃないかな。みんな、宝耀さんに意地悪するつもりでやってる顔はしてないけど? ほら」


 僕は、録音ブースの中にいるプロデューサーとエンジニアの姿を指差す。

 声は聞こえなくても、真剣に話し合いをしている姿から、決して意地悪だなんてくだらないことで宝耀さんに何度も歌い直しを頼んでいるわけじゃないことが伝わってくる。少しでもクオリティの高いものを作ろうとする職人の顔をしていた。


「ぐぬぅ、やっぱりわたしの力不足ですか、そうですか……」


 んむー、と言いながら、宝耀さんは頭を抱えて背中を丸めてかたつむりみたいになってしまう。


「僕は、宝耀さんは思っていたよりずっといい声で歌ってたと思うけどね。もしかしたら、プロデューサーに届かせるための何かがちょっとだけ足りないのかもしれないね」


 あくまで僕は、宝耀さんが自信を失くしてしまわないように努める。自信を失って萎縮するようなことがあったら、成功はますます遠のいてしまうのだから。


「うーん、あっ」


 何かに気づいたような顔をした宝耀さんが、顔を上げる。


「わたし、お魚じゃないんですよ!」

「いや、見ればわかるけど……?」


 急に妙なことを言い出し始めるので、僕は戸惑ってしまう。興奮のあまり顔を近づけてきたせいもある。


「ここ、水槽っぽいじゃないですか! 水族館の!」


 宝耀さんが指差す方向から考えるに、どうやら録音ブースのことを言っているらしい。

 確かに、アクリルガラスで仕切られている姿は、水族館にありそうな大きな水槽に見えなくもないけれど。


「こんな水槽の中のお魚さんみたいにされた状態で、まともに歌えるわけないじゃないですかー。泳ぐならともかく!」


 どうも宝耀さんは、技術的な問題ではなく、気持ちの問題でNGを出しまくっていたらしい。アイドルだって歌のプロには違いないけれど、歌手とは違う魅力が必要だ。その1つがパッションというか、バイブスである。たとえメガネ店内で流す予定のものだろうが、手を抜いた制作物を表に出すのはプロとしてやってはいけないことだ。


「でも、ぜったいここで歌わないといけないんですよね?」

「そうだね、機材がそっちにあるし、余計な音が入らないような仕組みになっているんだろうし……あっ」

「あっ、ってなんですか?」

「じゃあ、アイドルがよくやるような、ライブっぽい感じになれば、宝耀さんのテンションも爆上がりするかな?」

「そりゃわたしは生まれついてのスターですから、お客さんがいて誰かに注目されているのを感じられればまた違う気持ちで歌えると思いますけど」

「よし、わかった」

「んもー、さっきからなんなんですか、ひとりでわかったような気になって! わたしにも教えてくださいよー!」


 宝耀さんが僕の肩を掴んでぐらぐら揺らしてくる。


「任せて。僕が宝耀さんをアイドルにしてあげるから!」


 脳が揺れる中、僕は言った。


「えっ? ええっ? もうアイドルなんですけどー?」

「僕は宝耀さんのファン第1号で、ガチオタなんだ!」


 自分に言い聞かせるように僕は言った。宝耀さんは戸惑っているのか、黙ってしまう。

 僕は、思いついたアイディアを伝えるために、肩にへばりつく宝耀さんを引っ張りながら、録音ブースの中へ向かった。

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