第21話 海奈ちゃん、歌う
地元商店街の紹介動画撮影が終わると、宝耀さんに次なる仕事が舞い込むことになった。
その日、事務所が内側から崩壊しかねない、とんでもなく大きな声が響いた。
「マ、マジですかぁ!?」
「マジだよ、海奈お姉ちゃん」
社長の前で踊りだしかねないほど宝耀さんが舞い上がるのも無理はない。
「この前の商店街のPV撮りは、スタッフの評判よかったからね。もちろん商店街の人からのも。だから
PV撮りから2週間経ち、もちろんその間にも色々あり、いかにもアイドルらしい『歌』の仕事がやってきたのだった。
当然、宝耀さんは狂喜するわけで。
「ついにわたしの美声を世界に轟かせる日が来たんですね!」
早くも世界に打って出る青写真を描いていた。
「海奈さん、歌っていっても、地元メガネ店『メガ森メガネ』のテーマソングでしょう? しかも県内限定の、店内で流すだけの。音源化する予定もないのに、よくそんなに喜べるわね」
茶々を入れるかたちになったのが、事務所から出かける準備をしていた澤樫だった。
「こら、澤樫。宝耀さんがやる気になってるところに水を差すなよ」
澤樫が担当している本道さんは、ローカルアイドルの枠を超えたもっと大きな仕事をバンバンこなしているから、きっと感覚が麻痺しているのだろう。
「たとえどれだけ小さくても、仕事は仕事だからな?」
僕は先輩として、年長者として、ちょいと強めに澤樫に釘を刺す。
「そうだよ、
「先輩、社長まで……」
澤樫はあからさまにうろたえていた。上司と先輩からメッって言われちゃ、そりゃあね。
「ぶひひ! 大人なのに怒られるって、どーいう気持ちですか? どーいう気持ち?」
澤樫の目の前で反復横跳びを始める宝耀さんは完全にアイドルではなく悪役だった。煽る煽る。でも今回は澤樫も悪いからね。やり返されたって仕方がないよね。でも一番の煽りとして効いているのは言葉じゃなくて揺れまくっている胸だと思うんだ。
「ぐぬぬぬ……先輩といつも一緒だからって調子に乗らないでほしいわねえ……」
「サワガシ、気持ちはね、言葉にしないと伝わらないんだよ?」
片手を胸に添え、もう一方の空いた手を澤樫に向ける宝耀さんは慈母のごとき笑みを浮かべていた。もう本当に有頂天なんだなって思うよ。
「さあ、サワガシの悔しい気持ちを、わたしにオープン」
「ぬんっ!」
「ひんっ、痛っ!」
なんとまあ。澤樫め、宝耀さんの揺れる胸をビンタするという恐ろしい反撃に出た。女性同士だからこそできる暴挙だ。男がやったら単なるハード・セクハラである。
「ンモー! どうしてサワガシはすーぐわたしのおっぱいに暴力ふるうんですか!」
「ぷらぷらぷらぷら、デカすぎて邪魔なのよ! 献血のポスターに起用されて怒られればいいのに!」
「仮にポスターになったとして、わたしのわたしらしさに文句言う権利は誰にもありません~」
いきりたつ2人は、その場で手押し相撲を始める。
「うーん、ワタシはお姉ちゃん同士なかよししてほしいんだけどなー」
社長は、コインブラさんを頭に乗せながら、心配そうに二人を見つめる。
「社長。あれでも2人は、だいぶ仲良くなってはいるんですよ? 宝耀さんのトレーニングはもちろん、レッスンにも付き合ってくれてますし」
宝耀さんのトレーニングは継続されていて、今でも定期的にジムに通い、澤樫はトレーナーとして面倒を見てくれている。最近開始したレッスンだって、そうだ。澤樫がいてくれるおかげで、宝耀さんの歌唱やダンスのレベルはグッと上がってアイドルらしくなっていた。宝耀さんに歌のオファーが来たのだって、澤樫の貢献のおかげもあるはずだ。
「もうっ、そうやって浮かれポンチになって気を抜いてると痛い目見るんだから! 私もう行きます、ナガちゃんにはラジオの仕事があるんで!」
澤樫は、床に尻もちをついている宝耀さんを跨ぐようにして事務所の外へ出ていく。澤樫の方が小柄だけど、体育会系だけあって体幹が優れているから手押し相撲には有利だ。
「ラジオ?」
「
ローカルアイドルにあるまじき売れ方をしている本道さんは、15分程度の放送ながら、東京で週イチの番組を持っていた。録音放送で、時間帯は深夜だけれど、なかなか好評らしい。人気番組同士を繋ぐ時間帯に放送されるので、時間枠に恵まれているのも理由の一つとしてありそうだ。
「ぐぬぬ……ラジオ、うらやましい。わたしも顔が見えないのをいいことに芸能界の気に入らないヤツの悪口を好き勝手言いたいですよ」
「残念ながらラジオ番組を誤解している子にオファーは来ないと思うなぁ」
そもそも宝耀さんは悪口言うほど芸能界の人間と付き合いないでしょ。
「ていうかわたし、本道アイドルのことまだ見たことなんですけど。わたしに挨拶の一つもないなんて、先輩としてどうなんですかねえ?」
「どうも何も、本来は後輩の方から先輩に一言挨拶しておくべきなんだけどね」
これは僕の責任でもある。ただ、売れっ子の本道さんは東京での仕事が多く、ひよこオフィスではなく『パー・プロ』を拠点にしているから、なかなか機会に恵まれなかった。東京住みだしね。本道さんはもう完全に東京人だよ。『パー・プロ』とうちを往復しないといけない澤樫は大変そうだ。
「本道さんと顔合わせた時は、あんまり失礼なことぶっこまないでね?」
「ふぅん。お高くまとまりやがってですよ」
「こら、宝耀さん。アイドル、アイドル。ケッ、って顔しちゃダメ。歌のお仕事が来たんだから、がんばって本道さんを追い抜けるようにしなきゃ」
「ふぅぅん。まあ、あっちはラジオでこっちは歌。アイドルとして、どちらがやることをやっているかは明白なんで、ちょっとは大目に見てあげますか」
態度だけは大女優のノリで、宝耀さんが足を組み替える。いつの間にか、澤樫のデスクに尻を乗せていた。
「ちなみに
社長の膝に乗ったコインブラさんの両手には、それぞれCDが3枚ずつ携えてあった。それ、どういう理屈で貼り付いてるの、なんてツッコミはヤボだ。コインブラさんは社長の手足となって動くことができる謎生物だから。
「はぁん? そんなプラスチックの円盤、出すだけなら誰だってできますよ? だいたい、うちの実家じゃCDなんて前時代的な遺物はただのカラスよけだったんですけどねぇ」
余裕ぶる宝耀さんだけれど、こめかみがピクついていた。だから宝耀さん、アイドルアイドル。
「それがねー、永玲お姉ちゃんのCDはオリコウランクにもチャートインしちゃったんだよね~。ワタシがここを立ち上げて以来の快挙なんだよ」
社長はとっても嬉しそうだ。そりゃそうだ。本道さんのおかげで、本社の本流としてエリートコースを歩んでいた社長が突如としてアイドル部門を立ち上げるという、当時は誰もが疑問視していた選択が間違いではないと証明したのだから。
「チャートインは一週だけでしたけど、今週のトップテンとして音楽番組でMVが流れたのはデカかったですよね。ほんの数秒の顔出しでも全国レベルで本道さんの顔がだいぶ認知されましたし」
その時の活躍が、ラジオ番組を受け持つことにも繋がっているわけで。
「そーそ。あの時は、うちの娘が運動会で1位取った時よりコーフンしちゃったよね。おかーさん失格、失格」
社長が言った。このビジュアルのせいで誤解されがちだが、社長は家庭持ちである。
「本道さんのおかげで、本社の人がうちに協力的になってくれたとこありますよね。もちろん社長のお力も多分にあると思いますけど」
「うーん、そこは永玲お姉ちゃんのおかげだよね。ワタシはアウトサイダーだから、ワタシだけじゃみんな協力してくれなかったよー」
社長も嬉しそうだった。
この場で唯一、不機嫌極まりない人物がいて。
「そんなもの、そんなものぉ! わたしは認めませんよ!」
ぷるぷるし始めた宝耀さんは、お尻にバネでもついているのかという勢いで澤樫のデスクから飛び降りると、涙目になりながら。
「他になんにもやることのないキモオタさんの大量買いによる汚いランクインに決まってるでしょうがぁ!」
「…………」
「痛っ……ばぁぁぁぁ! きょーしろさんがわたしをぶったぁ!」
宝耀さんが被害者ぶって騒ぎ始めるけど、僕は宝耀さんの脳天にチョップをしたことを謝る気はない。社長も表情こそ変えていないけれど、僕の行動を咎める気はないらしい。
「宝耀さん。今の発言を撤回するか、ここで生を終えるか、どちらか選んでいいよ?」
「えっ、えぇぇぇ、どうしていきなりそんな究極の選択を迫られるんですかぁ?」
「はよ」
「……さ、さっきの発言は間違いです、ごめんなさいでしたぁ」
宝耀さんは、素直に頭を下げた。
「ははっ、なるほどなぁ。宝耀さんみたいなおつむの持ち主でも、さすがに『死』は選ばないかぁ」
「なっ! どうしたんですか、きょーしろさん! たらし系サイコパスみたいな不気味な笑顔してますけどっ!? 『じゃ、ちょっと死んでもらおうかな』なんて言って今にもナイフを突き刺す5秒前って顔じゃないですか!」
「海奈お姉ちゃん。ファンの『好き』の伝え方はそれぞれなんだよ。CDをたくさん買ってくれるのだって、好きの伝え方のうち。アイドルはファンがいてくれないとアイドルになれないんだからね? そんなファンをないがしろにするようなこと言うなんて、京志郎お兄ちゃんが怒ってもしょうがないことなんだよ?」
社長から諭されたことで、宝耀さんは今度こそトーンダウンした。やっぱり社長の言葉は刺さるなぁ。
「え~? でもー、きょーしろさんからはそれだけにとどまらない強い思いを感じちゃったんですけど~」
「だまりなさいよ。さっさと仕事に行くよ?」
僕は宝耀さんの腕を掴んで引っ張る。この日は、レッスンと軽い営業のお仕事があった。
「ひーん、今日のきょーしろさんはなんか怖いんですがー! これはきょーしろさんの中の悪の人格こと愚零闘狂死郎が目覚めているに違いありませんよ! 顔をこすればペイントが取れていつもの素顔に、素顔に~」
なぜか必死で僕の顔を手のひらで擦ってくる鬱陶しい宝耀さんを引きずるようにして、駐車場へ向かう。
宝耀さんのアイドルとしての今後を心配して怒ったというのもあるのだけれど、多少は私情も入っていた。
だって、僕もかつてはCDを始めとするグッズの購入で、推しへの愛を表明するタイプの人種だったのだから。
なんだか、ずーっと昔のことのような気がするけれど。
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