第17話 美ボディの果てに

 デビューに向けた体作りは3週間ほど続いた。

 澤樫指導の下、当初は軽い筋トレだけだったトレーニングメニューも、次第にバリエーションが増えていった。

 そんなある日の夜、僕の自宅で。


「あの……わたしってアイドルとしてデビューするんですよね? プロレスラーじゃないですよね? なんか入門テストに合格したヤングライオンみたいな気分なんですけど……?」


 プロテインが入ったシェーカーを片手に、宝耀さんは首をかしげた。


「もっとこう、アイドルになるならフツーはダンスとかお歌のレッスンをするものなんじゃないんですかねえ? わたし、サワガシと一緒にパンチやキックやタックルの練習ばっかりしてて完全にMMA出撃間近みたいになってるんですけど、だいじょうぶなんですか? 来週にはグローブはめてリングに立ってたりしませんよね? 水道橋限定のアイドルは嫌ですよ、わたし。あんなウインズがあるところ」


「うーん、その辺は社長の指示だからなぁ。社長にも考えがあるんだから、別に疑問に思うようなことはないと思うよ。ほら、ボクササイズってあるでしょ? それと似た感じの格闘技の体作りを利用したダイエット法なんじゃないかな」


「ちっ、この会社のケツをナメ続ける社畜めが」


「宝耀さん、もっと言葉を選ぼうよ……君はもう半分アイドルなんだから」


「きょーしろさんはいいですよ。わたしのトレーニングに付き合って、なんかシェイプアップされてちょっとだけ男らしくなってますし」


「えっ? 本当に?」


 そうだとしたら、嬉しいことだった。僕は背が低いし童顔だしヒゲも生えないしで、アラサーなのに全然男らしい見た目じゃないことがコンプレックスだったのだ。


「ですよ。まあわたしとしては、きょーしろさんを抱いた時にゴツゴツする感触が強めになってるんで、手放しで称賛できませんけどー」


「よーし、僕この調子でクリロナみたいになっちゃうぞ~」


「そんなレベルで極めるつもりなら、もうきょーしろさんと寝てあげません。ムキムキのきょーしろさんなんて、一緒に寝にくいにもほどがありますから。ソファか床で寝てください」


「あの、ここ僕の家なんだけど……? 家主なのにベッドが使えないなんてあんまりだ」


 そんなこと言うなら、宝耀さんだってトレーニングのせいでちょっと体の感触が変わって眠りにつく時間が以前より遅くなっちゃってるんだけどな、という反論はしないことにした。セクハラになりかねない。


「おやおや、きょーしろさんはもうお忘れなんですか? きょーしろさんはわたしの家探しを中止させてまで、『この家に残ってくれ』って懇願して来たんですよ? この家の真の家主は、もはやこのわたしだといってもいいくらいなんですが?」

「ぐぬぬ……そう言われると困る」


 宝耀さんの家探しは、ちょっと特殊な方向で落ち着いていた。

 僕は、以前よりずっと宝耀さんを必要とするようになっていた。

 眠るために、だ。

 しっかり眠って仕事に挑むと、寝ないでいた時よりずっと精力的に働くことができた。社長や澤樫も、僕の働きぶりが以前よりずっと良くなったと褒めてくれた。タクシードライバーの副業だって、もうやっていない。長い夜の時間を潰す必要がなくなったからだ。

 仕事人間の僕としては、充実した眠りを与えてくれる宝耀さんを手放したくなくなっていた。

 だから宝耀さんは今、僕と同じアパートの、隣の部屋に住んでいた。

 四六時中同じ部屋にいたら同棲になってしまうので、眠る時だけ僕の部屋に来てもらうことになっている。

 アイドルとマネージャーが隣人になることを、社長は反対しなかった。


『かなりデンジャーな状況みたいだけどー、京志郎お兄ちゃんならだいじょうぶかなぁ』


 僕の日頃の行いのおかげか、寛大な対応をしてくれたのだった。ちなみに僕の住むアパートは、社長の紹介で入居したので、宝耀さんの時も手続きはかんたんに済んだ。


『ええっ!? 社長、認めちゃっていいんですか? 後々スキャンダルになりますよ! マネージャーとアイドルがお隣さん同士だなんて!』


 まあ、澤樫は反対していたけれど。どうも僕は澤樫からはあまり信用されていないみたい。宝耀さんに何か手出しをするんじゃないかと心配しているのだ。

 もちろん僕は、社長の信頼を裏切ることなんてしない、と心に決めているから、澤樫が懸念するようなことにはならない。


「……ここに残ってくれたことは感謝してるよ。せっかく近くにいるんだから、宝耀さんが人気アイドルになれるように全力を尽くすつもりだし」

「きょーしろさんは本当にわたしに夢中なんですね。他の子には目もくれずわたしだけですか。それはそれで重いんですけど」

「……いや、前はいたんだけどね。辞めちゃったから今は宝耀さんだけなんだよ」

「逃げられたんですね。ご愁傷さまです。添い寝を強要してくるマネージャーに耐えきれなくなったんでしょうね」

「あの時は普通に寝れてたんだよ」


 そうだ、たしかに僕は、あの頃は普通に眠ることができていたのだ。


「じゃあもしかしたら、わたしの前のオンナが辞めてなかったらわたしたちは出会ってなかったかもですね」


 宝耀さんが言った。


「そうだね。眠れなくて運転手をやっていたから、宝耀さんと会えたわけだしね」


 宝耀さんは、プロテインが入っていたシェーカーを台所でじゃばじゃば洗い終えると。


「トレーニングの習慣ができたせいで、寝る前に軽い筋トレをしないと落ち着かない体質になってしまいましたよ。もー、わたしの体、この先いったいどーなっちゃうの~?」

「安心して。身長高いと筋肉付きにくいらしいから」

「それじゃ微塵も安心できねーんですヨ! いずれやってくるムキムキビッグバンへのカウントダウンを阻止する理由に何らなってないじゃないですか~」

「じゃあやめる? もう社長が満足できる程度に絞れてる気がするし、筋肉ついちゃうほどトレーニングする必要はないと思うし」


 宝耀さんの体はムキムキというほどではなく、触ったら筋肉の存在を感じられる程度のほどよい体つきをしていた。水泳選手のような柔軟性のあるしなやかなボディになっていたのだった。


「……ぬぬう、それはそれで、せっかく鍛えた筋肉ちゃんがどこかへ消え去ってしまう悲しみがあるといいますか」

「そっか。別れはいつだって辛いもんね」

「んぬー、まさか格闘技のUチューブチャンネルを盛んに拝見していたのが仇になるとは……」

「体を鍛えたい願望が潜在的にあったってことだよね」


 すっかり筋トレにハマってしまった様子の宝耀さんは、自重トレーニングを開始しようとする。


「きょーしろさん、腹筋をするので脚を抑えててくださいよ」


 はいはい、と僕は、脚を曲げて座った宝耀さんの足首にまたがるかたちになる。ここ最近は毎晩のように宝耀さんのトレーニングのサポートをしているのですっかり慣れた。


「ふんっ、ふんっ」


 宝耀さんが上半身を起こすたびに、姿勢の都合上顔が近づくことになる。

 僕は、プロとして宝耀さんのサポートをするマネージャーなわけで、私情を入れ込むのはマズいと思っていた。

 けれど、宝耀さんは見た目のいい女の子なので、顔が間近に迫ると心拍数が上がってしまう。枕になってもらう時のように、『これはあくまで不眠の治療行為なんだからね!』という言い訳ができないから余計にそう感じる。

 宝耀さんに悪いけれど、ここは僕の保身と宝耀さんの身の安全のために汚れ役になってもらわないといけない。


「あんまり汗はかかないでね。汗臭い子と寝るのはちょっと……」


「アイドルやぞ! しかもきょーしろさんのためにやってることやぞ! きょーしろさんの主観描写でわたしの体臭が疑いもなくキツイものになってしまうんですから発言に気をつけてくださいよ! 柑橘系とか青りんごの匂いとか言って!」


「でもほら、汗じゃないにしても、宝耀さん最近動物性のタンパク質たくさん取っちゃってるし……」


「やめてよぉ、ガチ臭キャラにしようとするのやめてくれヨぉ……アイドルになるために素直に言うこと聞いてあげたのにこの仕打ちよぉ……」


「いや大丈夫だよ、ちゃんといい匂いするから半泣きにならないで」


 僕は、上半身を起こした宝耀さんの頭をなでた。半泣きになりながらも腹筋を継続するなんて、トレーニーの鑑だ。


「そういえば宝耀さんの髪、ピンク色が抜けてきてるね」

「そうなんですよー、先っぽがどんどん黒くなってきちゃって。わたしのチャームポイントが消えていっちゃう」


 毛先だけピンクなのもそれはそれでパンキッシュに思えるのだが。


「近いうちに染め直しますよー。髪の毛だけでも派手にしとかないと、素朴フェイスの田舎者だってナメられちゃいますからね!」


 宝耀さんを自信家と思っていたから、顔立ちを気にしていたのは意外だった。同じ部屋で寝起きする都合上、僕はノーメイクの宝耀さんの顔だって知っていたけれど、別に見た目だけで田舎出身とわかるような顔立ちはしていないと思う。

 そんな時だ。

 僕の仕事用スマホに、社長から着信があったのは。

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