第16話 トレーニング・モンタージュ

 本来ならプロのトレーナーに任せるべきなのだろうが、あいにくうちには潤沢な資金はない。

 トレーナー役を任された澤樫は、初心者の宝耀さんのためなのか、初めにフロアの隅にあるダンベルのコーナーへやってきた。


「大事なのは重量よりフォームと呼吸よ。無理しないで自分が持ち上げられる重量を使って、こう――」


 澤樫は、専用の台に乗ったダンベルを手にして、宝耀さんに手本を見せるのだが。


「女子がムキムキアピールしてどうするんですか」


 今にも鼻をほじりそうなくらい気の抜けた顔で、突如宝耀さんは煽るようなことを口にした。


「……えっ?」


 これには澤樫もあっけにとられるしかなかったようだ。今日の目的を全否定だもんね。


「宝耀さん。澤樫は学生の頃から優秀なアスリートだったんだ。こんな男子小学生の体重くらいありそうなダンベルを持ち上げることくらいぜんぜん大したことじゃないんだよ」

「でも、こんな重りをホイホイ持ち上げるメスゴリラ、女としてどうですか? こんなウホウホ調子に乗って怪力アピールする女に、きょーしろさんはきゅんきゅんできちゃうんですか?」

「うーん、そこできゅんきゅんできるのはけっこうマニアックな趣味じゃないかなぁ。少なくとも僕は違うよ。でも今は女としてどうかとか関係ないでしょ。ちゃんと澤樫のやることをよく見て――」

「ああっ!」


 突如、澤樫がダンベルを放り出す。


「ま、間違ったわ! 私が普段使っているのはこんな生涯かかっても持ち上げられなさそうな重いダンベルじゃないもの!」


 とんでもなく茶番めいた仕草で、澤樫がその場に崩れ落ちる。


「私が使えるのは、この一番軽い1キログラムのダンベルだけだわ!」


 澤樫は、よろよろと体を起こし、台の端に乗った軽いダンベルを手に取る。


「う、うーん、私の細腕じゃこれが限界……きゃっ」


 一番軽いはずのダンベル一個を、澤樫は両手で持ち上げようとするのだが、叶わずドスンとマットが敷かれた床に落としてしまう。


「こんな重いの……ムキムキメスゴリラじゃない私には、無理ね!」


 無理ね! のところでどういうわけか僕に視線を送ってくる。……うーん、本当に?

 この急変っぷり。そして茶番。いったい何が後輩の身に起きているのか、理解できなかった。


「なんですかこのオンナは。そこらのアイドルよりずっとあざといですよ。いっそこの人がアイドルになればいいんじゃないですかねえ」


 宝耀さんは、死んだ目で澤樫を見下ろしていた。


「ま。恋に臆病なバカ女は放っておいて。わたしも別にマッチョになりたいわけじゃないので一番軽い1キロでトライしますか。なんか体を鍛えすぎると頭がおかしくなることは目の前の某サワガシで証明されてしまったわけですし」


 いつになく辛辣な宝耀さんは、軽いらしいダンベルをそれぞれ手に取る。


「これがわたしが持ち上げられる、無理のない重さですよ」


 宝耀さんは背すじを伸ばし、反動を使うことなく腕の力だけでダンベルを持ち上げていく。

 澤樫相手にキツいことを言うわりには、宝耀さんはしっかり澤樫のやり方を見ていたようだ。先程澤樫が見せてくれた動作とまったく同じだった。

 いや、一箇所だけ、違うところがあった。


「ふんっ、ぬんっ」


 腕を持ち上げるたびに躍動する、胸である。

 大胸筋……いや、おっぱいが歩いていた。

 まるで勇者一行の前に現れたスライムのごとく。


「ばぁぁぁ~、やっぱり慣れないことはするもんじゃないですね。頭の中で◯ッキーのテーマを流してもこれが限界ですよー」


 疲労したらしい宝耀さんは、いかにもダルそうな顔をして、前屈みの姿勢になってダンベルを床に置いてしまう。


「あっ」

「ん? きょーしろさん、なんですか。名残惜しそうな顔して」

「え? いやぁ、その軽さだともっとできたんじゃないかって気がしたんだ」


 マズい。おっぱいを凝視していたことがバレたら、大問題だ。僕はあくまでマネージャーなんだ。大事な『商品』をいやらしい目で見たらいけない。

 それに、僕が宝耀さんを性的対象として見るようになってしまったら、もう『枕』になってくれなくなってしまうかもしれない。


「先輩?」


 怨念のこもったような声が背後から聞こえ、振り返ると修羅の顔をした澤樫が暗黒のオーラを発して立っていた。


「やっぱり、おっぱいがいいんですね……先輩はおっぱいにしか興味がないから私にも興味がないんですね」


 澤樫は真面目な子だ。そんな子がやたらとおっぱいを連呼するものだから、それ以外の言葉が一切頭に入ってこなかった。


「そんなことないから。僕はちゃんと、お前が教えたフォームを守っているかどうかの確認を……」


 どうしよう。完全に劣勢に立たされてしまったぞ。

 宝耀さんも、頑張って真面目にトレーニングしているのにエロい目で見てしまった僕にドン引きだろうな……。

 と思っていたら。


「んふっ、きょーしろさんっ」


 とんでもなくご機嫌な顔で、わざわざ腰を屈めて僕を見上げてくる。

 これは……下手に怒るよりずっと不気味だ。何を考えているのかわからないのだから。


「そんなにお好きなら、補助してくれませんか?」


 宝耀さんは、件のおっぱいを指差して微笑む。ちなみにダンベルは持ったままなので、親指で指していた。


「えっ? 補助って……? どういうこと?」

「トレーニングで重い器具を持ち上げるには、補助の人が必要って聞いたことがあります」

「ああ、重い器具を落として事故にならないように支える人がいた方がいいって言うよね。でも、それが?」

「ご存知の通り、わたしは某サワガシと違って大きいので、持ち上げる時にぶるんぶるん動いて気が散るんですよね」

「えっ……まさか……」

「はっ!」


 宝耀さんが、ダンベルを持った両手を上げる。


 おっぱいが重力に逆らって上昇した。


「ささっ、きょーしろさん、今です! おっぱいに手を添えてください! 今なら触り放題ですヨ!」


 何故か僕におっぱいを触らせたがる宝耀さんの意図が完璧に謎なのだけれど、僕は、『ダンベルを持ち上げている宝耀さんの負担を減らさなきゃ』という謎の使命感に突き動かされ、宝耀さんの胸に向かって腕を伸ばそうとする。

 これも大事なアイドルのためだ。


「よ、よぉし!」

「よぉし、じゃないでしょうが!」


 澤樫が僕の手を手刀で撃ち落とす。

 折れたかと思えるくらいの衝撃に、僕は思わず腕を下げてしまった。


「だいたい、どこの筋肉に効かせようとしてるのよ!」

「しーていえば18筋ですかね。サワガシ、邪魔しないでください」

「邪魔するわよ。真面目にトレーニングしようとしないんだから!」


 澤樫の怒りの矛先は当然こちらにも向かう。


「先輩も、ふざけたいだけなら、私もう帰りますからね? 暇じゃないんですから」

「わ、悪い。真面目にやるから、考え直してくれ」


 僕は必死だった。トレーニングができなければ、社長の指示をこなせなくなる。宝耀さんはまだ研修生の段階だ。アイドルになる前に見切りをつけられてしまうかもしれない。

 後輩相手だろうと、頭を下げないといけない時がある。


「もう少しだけ付き合ってくれ。お前がいないとダメなんだ」


 そう言ってからしばらく返事がなかったのだが、澤樫がいるはずの位置から何やらきゅんきゅん妙な音が鳴った気がした。


「しぇ、しぇんぱい……? 今……なんて?」


 なんだろう……澤樫のこの、乙女モード。滅多に見かけたことなんだけど、大丈夫かな?


「こらっサワガシ! チョロイン気取りでわたしのきょーしろさんで勝手にラブコメ初めないでもらいますかっ!?」

「でも、今、付き合ってくれって……先輩が」

「トレーニングにね?」


 僕は言った。


「あっ、ソウデスカ、デスヨネ」


 すんっ、と急に表情を無にした澤樫。


「ジャ、ハヤクトレーニングにモドリマショか」

「澤樫、なんでちょっとキレてるの?」

「キレちゃいないですよ」


 次はこっちです、と言って、澤樫は1人でさっさとジムの奥へ行ってしまう。


「澤樫……いったいどうしたんだ?」

「きょーしろさん、それ、本気かい?」


 訝しがる僕の脇から、宝耀さんがひょこっと顔を出す。


「哀れな女、サワガシ……わたしちょっと同情しちゃいましたよ。今日だけは、サワガシの言うことちゃんと聞いてあげましょうかね」


 そう言って、宝耀さんは澤樫のあとをついていく。

 揉めていたはずの2人が、よくわからないうちに和解ムードに突入していた。

 女の人は、不思議だ……。

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