第14話 為田先輩と後輩ちゃん

 その翌日。週明けの月曜日だ。

 宝耀さんをアイドルにするための手続きをするべく、事務所に来ていた。

 宝耀さんと出会って以降、勤務時間中に事務所に来るのは初めてということになる。

 休日にはいなかった、社員が出勤していることになるわけで。


「あっ、先輩! おはようございます!」


 僕より先に出勤していた澤樫が、わざわざ立ち上がって頭を軽く下げる。

 相変わらず、いつでも過剰に元気、というフレーズが頭に浮かびそうな明るいヤツである。

 澤樫茅桜さわがしちおは僕より2つ年下の後輩だ。

 肩まで届く程度の長さの黒髪に、これまた真っ黒な瞳、そして、真っ黒なパンツスーツという暗黒まみれの格好をしているわりには、肌はきっちり白かった。

 とても見た目のいい子なのだが、小柄なわりには背筋がピンと伸びていて、死角から手を伸ばしても難なく跳ね除けそうな隙のないオーラがあった。

 それもそのはずで、格好や顔つきだけで判断すると女子力高そうな感じなのだけれど、実は高校も大学もスポーツ推薦で入学したという剛の者だ。だからといって血の気が多かったり喧嘩っ早かったりするわけではないんだけど、とにかくとても元気なのだった。


「その子が、新しくうちに入るっていう子ですか?」


 澤樫が険しい顔になる。資質を見極めようとしているのかもしれない。こういう時、澤樫は競技者として生きてきた時の真剣さが垣間見えるので、非体育会系の僕としてはちょっと怖く思える時がある。


「ちっす。スーパーアイドル海奈ちゃんですっ」


 だというのに、宝耀さんはとってもフランクだった。


「スーパーアイドル?」


 澤樫は、意見を求めるように社長に視線を向けた。


「らしいよ、お姉ちゃん。うちの事務所にお金の雨を降らせてくれるんだって」


 社長は、特に気にすることなく、書類が詰まったファイルを持ってこちらへやってくる。


「でも、その前に海奈お姉ちゃんには正式にうちの子になってもらわないとね」


 宝耀さんとの契約自体は、すんなりと済んだ。

 問題は、澤樫の方である。

 元気なこの体育会系の後輩は、どうも宝耀さんの資質を疑っているようなのだ。

 我らが小山内社長の判断で宝耀さんはアイドルになったわけで、ともすれば上司の手腕を疑うことになりかねないのだが……。


「海奈さん、どうしてあなたは先輩とそんなに密着してるのよ」


 思わぬ位置から、澤樫が突っついてくる。

 澤樫の言う通り、宝耀さんは事務所に入ってからというもの、ずっと僕から離れなかった。


「それはそこのおちびのせいです。わたしの性的指向を捻じ曲げられてはかないませんからね」


 社長の例のアイドル審査の方法については、もちろん澤樫だって知っている。


「関係ないわ。今すぐ、先輩から離れなさい」


 いつでも明るい後輩さんにしては珍しく、ずいぶん圧の強い物言いだった。僕もこんな澤樫、初めて目にするぞ。アイドルへの当たりが特別厳しいタイプでもないし、いったいどうしたんだ?


「えー? なんでですかー?」


 宝耀さんは一切気にしていないようで、僕の右腕を横に伸ばして逆上がりしそうな姿勢でじゃれている。まさかそのまま本当に逆上がりした勢いで僕の後頭部を床に叩きつけるつもりじゃないよね? そんな運命になるの、嫌だぞ。


「あ、アイドルだからよ! いつだって周りの目を気にしないとダメなんだから! 相手がマネージャーであっても、異性であることに変わりはないわ」


 それもそうだよな。澤樫の言う通りだ。まだデビューすらしていない宝耀さんにファンなんていないわけで、マスコミを警戒するのもおかしな話だけれど、今のうちからそういうクセを付けておいた方が、後々有利に働く気はする。

 けれど、澤樫は妙に焦っているように見えた。これまた珍しいな。スポーツで精神力が鍛えられているからか、あまり動揺するイメージはなかったんだけど。


「ごめんなんですけど、わたしはわたしであることを誇っているので、周りの目なんて気にしたことないんですよねぇ」


 デビュー前のくせにやたらと大物風を吹かせる宝耀さんだった。


「なっ! プロ意識が足りないんじゃない? 契約した以上、あなたの体はあなただけのものじゃないんだからね」


 澤樫が言う。

 アイドルになれば注意しないといけないことが増えるのは、僕からも宝耀さんに伝えていたことだ。体型のこととか。

 ただ、ちょっとだけ言い方がキツいかなぁ、とは思った。

 宝耀さんも聞き分けの良いタイプじゃないから、これは揉めちゃうかもなぁ、どうフォローしよう、と考えていた時だった。


「確かに、わたしだけの体じゃないかもしれませんね」


 言われたことを素直に受け止めるなんて、精神的な成長の跡が見えるぞ、と喜びかけたのもつかの間。


「きょーしろさんのものでもありますので」


 真っ先に凍りついたのは、きっと僕だ。

 なにせ、僕の不眠症の件と、不適切なその解決策が同時に暴露される可能性が急浮上したからだ。

 特に口止めはしなかったけれど、宝耀さんの良識とか羞恥心でどうにかなるものと思い込んでいたのだが……。

 所属アイドルを快眠できる『枕』扱いしているなんてことが知られたら、僕はこの業界で生きていけなくなるかもしれない。


「ななな! どういうことよ!?」


 澤樫は真っ赤だった。


「おやぁ。なにやらあなたは誤解しているご様子……」


 にやぁ、と宝耀さんはいやらしく笑った。


「きょーしろさんはわたしのマネージャーですよ? アイドルのサポートをする、いわば影であり、一心同体といっても過言じゃあありません。つまりそういうことです。他意なんてないんですけどねえ」


 煽られたかたちの澤樫には悪いけれど、僕はほっとしていた。

 いくら宝耀さんでも、僕が秘密にしてほしいことまで口にはしないよね。

 ただ、問題は澤樫の方だ。


「それじゃあ私がいやらしいこと考えてたみたいじゃない!」


 ムキーッ、と憤慨した。

 澤樫は元気なことの反動で、キレやすいのが玉に瑕だ。まあ、社会人として著しく問題になりそうなキレ方こそしないけれど、フォローがちょっとめんどくさくなる時はある。


「えー? そうじゃないんですかー? じゃあどうして顔面真っ赤っか閣下になっちゃってたんですか? いやらし恥ずかし澤樫さん?」


 マウントを取ったと考えている宝耀さんはご機嫌に見えた。なにその最後のキャッチフレーズみたいなの。


「宝耀さん、それ以上揉め事を大きくしようとしないの」


 かといって、後輩のフォローをしないわけにはいかないのが、先輩という名の兄貴分である。

 澤樫には悪いけれど、宝耀さんが煽るだけにとどめてくれて安堵していた。『わたしはきょーしろさんの肉枕です!』などと放言されていたら僕は社会的に死んでいただろうから。


「澤樫は別のアイドルの子メインでマネージャーやってるけど、だからって宝耀さんを全然サポートしないってわけじゃないからね。仲良くしてよ」

「むむっ、この女もきょーしろさんと同じくマネージャーだったんですか?」


 宝耀さんが噛み付いてくる。


「そうだよ、なんだと思ってたの」

「てっきりきょーしろさんの熱狂的ストーカーかと」

「どうしてストーカーから先輩呼ばわりされないといけないのさ」


 そもそも僕はストーカーから付きまとわれるほど熱烈に好かれるような容姿も人格もしていないぞ。


「そうよ! どうして私が先輩のストーカーなんてしないといけないの! 言いがかりも大概にしてほしいわね!」


 澤樫が言った。声がデフォルトでデカいから、4人だけの事務所にはよく響く。


「あ、でも……そういえばお前、僕と小学校から大学まで同じトコだったよな?」


 歳が2つ離れているから、中学と高校は1年間しか同じではなかったけれど、学年が違うわりに交流は盛んだった思い出がある。


「あっれ~。それってアレじゃないですか? 『ちゅきちゅき大ちゅきな先輩と一緒にいた~い』なんて考えてなーんにも変わらないまま大学までずるずるいっちゃったパターンですよね?」


 いいこと聞きました、というゲスな笑みを浮かべて、宝耀さんはまたも澤樫をいじくり倒そうとする。


「働くトコまで同じなんて、やっぱりストーカーじゃないですか。思った以上にコアなきょーしろさんファンに遭遇してわたしはドン引きですよ」

「違うの! 先輩とはたまたま、ホントにグーゼン同じところに進学したり就職したりしただけなの! だいたい、そんなキモいことするわけないじゃない!」


 澤樫が宝耀さんに急接近する。そうなると、宝耀さんがくっついているから僕のすぐ横に来ることにもなるわけで、僕は2人の女子に挟まれるかたちになった。


「そうそう。ただの腐れ縁ってヤツだよね。だいたい、澤樫は硬派だから、ストーカーなんてするタイプじゃないよ」

「そうよ、先輩の言う通り、ただの腐れ縁なんだからー……」


 ストーカー疑惑は晴れたというのに、澤樫の声のトーンはずいぶんとダウンしていた。

 すると、宝耀さんがそーっと僕の耳元に唇を近づけてくる。


「きょーしろさん、この女、きょーしろさんのことが好きですよ。とんでもない野郎です、ウソまでついて気持ちをごまかしてやがりますよ。拷問して本音を聞き出しちゃいましょうヨ」

「まさかぁ。僕は長年澤樫のこと見てるけど、そんな素振りなんて全然なかったよ。バレンタインに義理チョコすらもらったことないしね」

「ふ、ふん! 先輩にそんなことするくらいなら自分で食べるもの! 毎年チョコの味が甘いはずなのに苦かったわ!」

「ほらね、澤樫は僕をちゃんと先輩として認識しているかどうかすら怪しいんだよ」


 だから付き合いが長いのに、未だに僕はイキり散らかさないといけないわけ。これが長年の信頼関係で結ばれているのなら、別に自分を大きくみせようとすることもないんだけどね。


「私、先輩を先輩として見てませんから!」

「ね? 先輩を先輩じゃなくて人間以下の家畜か何かだと思っているんだ」

「……きょーしろさん、この女、羞恥に震えるメスの顔でモノを言ってますよ。その解釈はないんじゃないですかねえ……」


 どういうわけか、宝耀さんが矛先を僕に向けてくる。

 何故?


「まあまあ、落ち着いて、お姉ちゃんたち」


 荒れそうな場を収めたのは、社長だった。

 部下と所属アイドルが揉めているという呆れるべき光景を目の当たりにしているというのに、どこかおもしろそうにニヤニヤしていた。何があろうと一切表情を変えることのない鉄の男ことコインブラさんまでどこか愉快そうに見える。


「ちょうどいいね。海奈お姉ちゃんはこれから研修生としてトレーニングが必要なの。茅桜お姉ちゃん、ちょっと面倒見てあげてくれる?」

「きょーしろさんがお世話してくれるんじゃないんですか?」

「なっ、この子……さっきからずっと思ってたけど、先輩を下の名前で……私だってまだ呼んだことないのに!」

「まあ、職場の先輩を下の名前で呼ぶのはちょっとご法度だよね」


 職場はもちろん、プライベートでも、僕は澤樫から『先輩』としか呼ばれた覚えがなかった。ひょっとしたら僕のフルネームを覚えていない可能性すらある。


「仲良しな方が、みんな一緒のチームとして動くのに都合がいいんだよね。茅桜お姉ちゃんはスポーツジムでインストラクターのアルバイトしてたこともあるし、教えるのにうってつけでしょ」

「……あのう、社長。私もナガちゃんを放っておくわけにはいかないのですが?」

「ちょっとだけ時間を割いてくれればそれでいいよ」


 社長の命令とあらば、とばかりに、澤樫はそれ以上意見を言わなかった。


「むむっ! なんか他のオンナのにおいがするワードが聞こえましたよ?」


 宝耀さんの頭頂部の髪が一束になってピンと立っていた。そんな機能が。


「他の女って。本道永玲さんね。澤樫がマネージャーしてるアイドルだよ。ひよこオフィスどころか『パー・プロ』含めてもいい感じなくらい売れてる子なんだ」

「いい感じに売れてる子がナンバー2なら、この事務所も安泰ですね。まああとのことはナンバー1のわたしに任せてくださいよ。本道永玲アイドル、おつかれさまでした」

「まだデビューすらしてないのにその自信はすごいね」

「のんきなこと言ってますけど、きょーしろさんは後輩さんに負けてることになるんですからね? もっと危機感を持つべきですよ」


 逆に諭されてしまった。


「海奈さん、いったいいつから先輩があなたのマネージャーしかしないと誤解していたのかしら?」


 澤樫がドヤ顔で介入してくる。


「あっれ。きょーしろさん、まさかわたし以外のオンナを?」

「だから。僕は宝耀さんメインのマネージャーだけど、場合によっては本道さんのサポートもするんだよ」


 小さい事務所だからね。スケジュールに合わせてフレキシブルに対応しないといけない時もある。


「ちょっと前までメインでマネージャーしてる子がいたんだけど、今は宝耀さん1人だから。放置するようなことにはならないよ」


 僕は言った。


「ならいいです。わたしは可愛がられて育てられたので、放置されるととってもめんどくさい子になっちゃうんですよね!」


 今もわりとめんどくさいよ、とは大人のモラルで口にできなかった。


「あっ、また先輩にくっつく!」


 僕を背後から抱きしめ……もとい、両腕でクラッチして今にもジャーマンしそうな姿勢になる宝耀さんに対し、澤樫が両肩を掴んで引っ剥がそうとする。僕の命の危機を察してくれたみたい。ありがとう。


「ふふふ、お姉ちゃんとお兄ちゃんが仲良くしてくれるの見てるとワタシも嬉しくなっちゃうな~」


 一人だけ遠巻きに眺めている社長がのんきに微笑む。

 うーん、仲が良い、とは一体なんぞや、なんて深く考えちゃいそうになるよね。

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