第7話 眠りの仕組み
そして目を覚ました時。
「――えっ?」
僕は思わず、自分の目を疑ってしまった。
ベッドのそばに置いてあるデジタル時計の表示が、とうに始業の時刻になっていたからだ。
ていうか、昼。
「大遅刻じゃないか!」
大慌てでデジタル時計の隣に置いてあったスマホを手に取ると、後輩からのものと思しき着信のランプが爛々と点灯していた。
その時僕は、腕を伸ばす時に支えにしていた腕の先に、ベッドのものとは思えないくらい柔らかい感触があることに気づいた。
僕の手のひらが、宝耀さんの胸を鷲掴みにしていた。
そうだ、隣で寝ていたのだった。こうしちゃいられない。痴漢で立件される前に、一刻も早く手を離さなければ!
だが、宝耀さんを見下ろした時、僕は手のひらを離すわけにはいかない事情に気づいてしまう。
落ち着け。のんびりしている場合じゃないが、ここで頭を整理しないと更にヒドい事態になる。
昨日……ていうか今朝、僕は宝耀さんのおかげで、ちゃんと眠ることができた。
おかげで大遅刻だけれど、それはいい。いや、よくないけれど、上司から大目玉を食らうくらいで済む話だ。僕は日頃から真面目な社員として通っているし、今まで無遅刻無欠勤ノー有給取得の優良社畜だったから、一度くらいの遅刻なら社会人生活に支障は出ない。
問題は、宝耀さんのことだ。
この子……どうして裸なの?
下半身は掛け布団に覆われているからどうなっているかわからないけどさ、仰向けになっている上半身は完全に裸だ。だから僕は手のひらを胸元に押し続けなければいけなかった。だって手を離したらおっぱいがノーガードになってしまうから。
宝耀さんは、寝る時にちゃんと服を着ていたはずだ。
僕の意識がない間に、いったいナニがあったっていうんだ?
答えを出せないままでいると、宝耀さんは死者が復活するがごとく、腹筋の力だけでムクリと起き上がった。
「あ、きょーしろさん、おはよーございます」
半分閉じた目のまま、のんきに挨拶なんぞしてくる。
「おはようじゃないよ、ナニのんきなこと言ってるの」
こんな時こそ冷静に振る舞わないといけないのに、ついつい焦りが出てしまう。
「君、なんで裸なんだよ……」
もちろんこの時になると、僕は宝耀さんのおっぱいから手を離していたし、視線が顔から下に向かうことはなかった。
「あー、ホントですね」
うふふなんでだろ、と宝耀さんはまったく危機感を感じていない微笑みを浮かべる。
「ホントですね、じゃないよ。……もしかして僕、寝ている間にとんでもないことしなかった?」
「えー? きょーしろさんがですか? 記憶にございませんねえ……」
「そういう政治家みたいな先延ばし回答はいいからさ、どうにかがんばって思い出してよ!」
僕はすっかり会社のことなんてどうでもよくなっていて、無実を証明することに精一杯になっていた。
「あと、早くそれ隠して隠して」
宝耀さんが自分でやらないから、掛け布団で裸体を隠そうとするのだけれど、体を見ないようにしているせいで上手くいかない。幸い、掛け布団と間違えておっぱいを持ち上げてしまったり、乳首をつまんでしまうようなアクシデントはなかった。
「宝耀さん、どうして隠そうとしないの?」
「隠す必要のない立派な体をしている自負があるからでございます」
ドヤッ、て顔をするのだが、語尾がとんでもなくうざい。
「――だからきょーしろさんだって隠さないんですよね?」
その一言だけで、心臓が止まりそうになった。
「え? なんて?」
宝耀さんに指摘されて、気づいてしまう。
なんと、僕まで胸が丸出しだった。
さっきからどうも体がスースーするなぁ、とは思ったけれど……。
「あっ、でも下半身は無事だ」
これなら、一夜の過ちを起こした可能性は格段に減る。
だからといって、ゼロになったわけじゃない。
宝耀さんが半裸なのは事実なのだから。
「と、とにかく会社に連絡入れないと……出勤する前に……」
宝耀さんに真実を語る気配がない以上、とりあえずできることから片付けねばなるまい。
「出勤、ですか?」
上掛けにくるまってもこもこ状態になった宝耀さんが、丸くなった猫みたいな満たされた顔で言う。どこまでものんきな人だ。……まあ少なくとも、こんな表情をしているあたり、嫌われるようなヒドいことはしていなさそうだ。
「そうだよ、今日は事務所に行かないと……」
「きょーしろさんの事務所は土曜日も仕事なんですか?」
「そうだよ……ん?」
うちの事務所は週休2日を謳ってはいるけれど、月に1回だけ土曜日も休みになるというだけの話で、実質は日曜日だけが休みである。そもそも、僕の仕事は普通の会社員と違って休みなんてあってないようなものなので、一ヶ月に1日も休日が存在しない月があるのもザラだ。
今週の土曜日は出勤する必要のない日だったけれど……黒服のヤカラに囲まれた宝耀さんに遭遇したのは、木曜日の深夜であり、金曜日の早朝だった。
けれど、スマホのディスプレイは土曜日の正午を表示していた。
「金曜日……どこ行った?」
脂汗が浮かぶのを感じた。
「まー、きょーしろさんはほとんど一日中眠ってましたもんね~」
ふわわ、とあくびをしながら宝耀さんが言う。
遅刻どころのレベルじゃなかった。
まさかそんな長時間眠り込んでいたとは。
1日、会社をサボった。
社会人としてあるまじき大失態である。
出会ったばかりの女の子と淫行疑惑が浮上した上、無断欠勤までやらかしたことで、重傷クラスのダメージを負いそうになっていたのだが。
「わたしもきょーしろさんと同じくらい寝ちゃってたんですけど」
宝耀さんの一言は、絶望のどん底に差し込んだ一筋の光だった。
「宝耀さんも僕と同じくらい……」
ということは、淫行疑惑については、僕は完全にシロじゃない?
僕も彼女も、ほぼ1日中寝ていたわけだから。その間に何もしようがない。僕は不眠症だけれど、夢遊病の気はないのだ。
「この際念の為聞いておくけど、僕、君になんかいやらしいことしなかった?」
無実を確定させたくて直接訊ねてしまう。
「いやらしいこと?」
きゅ~っ、と赤色が首から顔へ染まっていく宝耀さん。
「あばば、ありませんよそんなことっ!」
急におぼこい反応をしないでくれるかなぁ、とツッコミたかったのだが、宝耀さんはちょっと感性が他の人と違うし、きっと羞恥を感じるポイントも違うのだろう。
「こ、これはぜんぜんそういう意味じゃないんですからねっ! ほーら、ズボンだってはいてますし、パンツもこのとーり!」
「いやいい、わかったから、ズボン下ろさなくていいよ」
掛け布団で上半身を覆ったままの宝耀さんが、仰向けに転がって両足を天井に突き上げ、そのままスウェットパンツを下ろそうとしたので、僕は大急ぎで静止した。ちなみにスウェットは僕の私物だ。さては僕が寝ているのをいいことに棚から引っ張り出して勝手に着たな。
「……ん? じゃあなんで僕は上半身裸なんだ?」
今は秋の終わりで気温が下がっているし、暑いから、という理由で脱ぎ捨てるはずがない。
ついでにいえば、宝耀さんも何故裸なのか?
「それはですね、きょーしろさんが、起きちゃいそうになっちゃったからですよ」
「いや起こそうよ。おかげで僕、無断欠勤だよ?」
「でも、ずっと寝れなかったんですよね?」
「それはそうなんだけど……」
「わたし、なんか気づいちゃったことあるんですよ~」
未だ釈然としない僕を尻目に、宝耀さんは太陽の如き明るさを見せ、ちょっと待ってくださいね、と言って、ベッドの下に落ちていたらしいスウェット(これも僕のだ)を着たと思ったら。
「えいっ」
僕をぎゅっと抱きしめた。
僕の顔面に、生地越しのおっぱいを押し付けるようにして、だ。
その瞬間、今朝……いや、昨日の朝に味わった感覚と同じものが訪れる。
頭に浮かぶ映像に脈絡がなくなっていき、そして……。
スヤァ……。
「――きょーしろさん、起きてください」
気がつくと、目の前に宝耀さんの顔があった。
アイドルにスカウトしたのは間違いなかったと確信できる整った顔立ちに見とれている場合じゃない。
「ハッ! 僕はまた寝て……」
「だいじょうぶです。10分しか経ってないですから」
「……どういうこと? 僕は君のその胸……いや、抱きしめられた瞬間に睡魔が襲ってきて」
「そうなんですよー。なんかきょーしろさん、わたしに抱かれると寝れちゃうっぽいですよ?」
大きな胸を張って、宝耀さんはフンス、と雄々しく鼻息を吐いた。
「ちなみに、わたしが服着てない状態で同じことすると、そういう仮眠レベルのじゃなくて、ぐっすり寝れちゃうっぽいです。昨日1日使って試しましたんで」
「僕の体を使って何してくれてんの」
そういう場合は一旦起こして僕の了解をちゃんと得てよね。
ていうか、裸のままで抱きしめるなんて随分思い切ったことするんだな……まあそのへんは宝耀さんクオリティか。
「じゃあ僕がなぜか上半身裸だったのも、そっちの方が睡眠効果がアップするから?」
「いーえ、それはわたしがきょーしろさんの少年ボディにムラッとして勝手にひん剥いたからです。ここは声を大にして言わせていただきやすヘヘッ」
「いや一番気にしないといけないとこでしょ。声を大にしなくていいからね。恥じて」
「でもぉ、わたしの田舎にはほどよいお年頃の少年ボディの持ち主さんなんて身近にいなかったんですよぉ~。だから物珍しくてぇ~」
半泣きですがりついてくる宝耀さん。宝耀さん発の情報だけだと、彼女の地元がとんでもない魔境に思えてくるなぁ。あと、物珍しさで成人男性をひん剥かないで。
けれどこれで、宝耀さんが上半身だけ裸だった理由がわかったし、淫行疑惑も晴れた。
「まあ、心配してくれてありがとう。でもごめんね、そんな格好で僕を抱きしめるなんてヤだったでしょ?」
人命救助のような感覚とはいえ、十代の女の子の裸体を犠牲にするようなことをしてしまった責任を感じる。
「だって、きょーしろさんはずっと寝れなかったんですよね? 起きっぱじゃぜったいどこかで病気になっちゃってたじゃないですか。……だから、きょーしろさんが寝れるなら、そうさせてあげたいって思って……」
理解し難い部分がある宝耀さんだけれど、僕の身を案じてくれる優しい心だって持っているのだ。
スカウトした側の責任としてしっかり面倒を見るつもりだったけれど、一層注意深く見守らないといけなくなったみたいだ。
とにかく、無断欠勤を代償にしてわかったことは。
どうやら僕は、宝耀海奈さん(18)のおっぱいに顔面を押し付けていれば、眠れるようだ。
……なんだそりゃ。
ますます自分の身に起きている異変のことがわからなくなった。
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