第1話 不眠男、『枕』を拾う
「――眠れないからです」
そう答えた時、デスクを挟んで目の前に座る男は怪訝そうな顔をした。
「眠れない?」
「そうなんです。……目を閉じても、全然眠気が訪れなくて。それがずっと続いている状態でして」
そう答えても、男は特に興味もなさそうにしていて、手元の履歴書とにらめっこをし続けていた。
「ま、オレは医者じゃねえから、そんな相談されても困るんだけどな」
あんたが聞いたんじゃないか、と反論したかったけれど、ここで揉めてはせっかくのチャンスが無駄になってしまう。相手はこれから僕の上司になるかもしれない男だ。心証を悪くしてはマズい。
男は面接官で、僕は仕事を求めてこのタクシー会社へやってきた立場だった。
僕は無職ではない。昼間はフルタイムの会社員として働きすぎるほど働いている。別に優秀でもなければ、高級取りでもないけれど、今の仕事には満足していた。
だから、面接官の男が、「どうしてわざわざ真夜中も働こうと思ったの? 君、昼間の仕事もしてるんだろ?」と聞いてきたのも理解できないことではなかった。
「うーん、はいはい、変わった理由だけど素行に問題はなさそうだ。運転も得意らしいしな。眠れないなら、運転中に居眠りして事故ることもないだろ」
険しい顔で履歴書と僕を見比べていた男から、緊張感が抜けていく。
「よし。わかった。早速明日から働きに来てくれ。この前、急に辞めたヤツが出てね、うちも早いところ戦力になれるヤツが欲しかったんだ。君は真面目そうだしな、期待してるよ」
無事、採用と相成ったようだ。
時間さえ合うのならタクシー運転手にこだわることもなかったのだけれど、必要とされれば嬉しくなってしまうものだ。
「ありがとうございます! 僕は学生時代から真面目なだけが取り柄でしたから。遅刻は絶対にしません」
「それは社会人として最低限のマナーだろ」
男は笑った。
どうやら、初対面の印象ほどにはとっつきにくい相手ではないらしい。
「じゃあ、明日からよろしくな、『
男と握手を交わす。
こうして僕は、ダブルワークのタクシードライバーになった。
★
その夜は雨が降っていた。
都会の街は、夜になると一層治安が悪くなるように見えた。
僕が普段立ち寄らない華やかな一帯だから、余計にそう思うのかもしれない。
雨のせいでフロントガラスが滲み、夜の明かりがボヤける中、ワイパーのおかげで現れた一瞬のクリアな世界に、異様な光景が映っていた。
女の子が、複数の男に囲まれて、路地の奥に連れ込まれそうになっていたのだ。
明らかに犯罪の臭いがする光景だったが、いくら治安が悪いと言っても、ここは日本だ。近くの駅前には交番がある。騒ぎになれば警官が飛んでくるだろう。
ちょうど、タクシーを求める客が現れた。僕は僕の仕事をしないといけない。まさか仕事にありついて一週間もしないうちにクビになるわけにもいかない。
僕は徐行して車を路肩に寄せると、後部座席の扉を開く。
ほろ酔いの会社員らしき男が、足元をふらつかせながら乗り込もうとする。
そんな最中でも、僕の意識は路地に向かってしまう。
僕は何を考えているんだ?
何かしようったって、できるわけがないだろ。
格闘技の心得があるわけでもない。
スポーツの類は、小学校時代の週1のクラブ活動で向いていないと見切りをつけている。
おまけに僕は平均身長未満の小柄な男だ。
複数の大人の男と対峙するには条件が悪すぎる。
……何時だろうとちっとも眠くならないのは、ひょっとしたらアドレナリンが出まくっているせいなのかもしれない。
だからこんな思い切った行動にだって出てしまうのだろう。
「お客さん、ごめんなさい!」
僕は、お客が乗り込む直前で、アクセルを思い切り踏み込んでハンドルを切ると、女の子が消えた路地へ向かって突進した。
周囲の中華料理屋のせいか、やたらと油くさそうな路地にたどり着く。
桃色の目立つ髪色の女の子が、複数の黒服男に詰め寄られていた。
まだ無事なようだけれど、のんびりしていられるような状況でもない。
僕は、ドリフトする勢いで路地に車を横付けすると、後部座席の扉を開く。
「君、乗って!」
女の子に向けて、大声を出す。
僕の存在に気づいた女の子は、首を縦に振ると。
黒服男から一刻も早く離れるべく走ってくる……ようなことはなく、テコテコとのんきな足取りでこちらへ向かってきた。
「ちょっ、なんで歩いてんの!?」
これには流石に驚愕するしかなかった。
「早く乗って!」
急かすように、もう一度声をかけてしまう。
「あのー、わたしぜんぜんお金持ってなくてぇ」
やたらと間延びした、緊張感のない声。
申し訳無さそうな顔で、片手を後頭部にやりながらヘコヘコする女の子。
こんな時に、所持金の心配なんてしている場合か。
なんだ、この緊張感のなさは……?
ひょっとしたら僕は幻でも見ているのでは? という気になる。
まさか、眠れないことで幻覚作用が現れ始めているのだろうか?
「ゴラァ! 誰だオマエはぁ!」
黒服のヤカラの怒号で、今の状況が幻ではないと気付かされる。
社会人になってから色んな人と関わるようになったおかげでだいぶ慣れたけれど、声のデカい人間は相変わらず苦手だ。
「い、いいから早く……」
僕は、引き込むように手を振る。
「君には特別サービスで運賃タダにするから!」
もちろん、我社ではそんなサービスはしていない。
でも、そう言っておかなければ乗ってくれそうになかったから。
「ええっ!? タダでいいんですか!?」
タダと聞いた途端に両目を輝かせた意地汚い女の子が、後部座席にダイブすると同時に、僕は急いでその場を去った。
座席の革のにおいしかしなかった車内が、甘みを含んだ爽やかな匂いに満たされて、まるで女子の家にでもいるような懐かしい気分になった。
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