ギルティはマナの味
庚乃アラヤ(コウノアラヤ)
『ギルティはマナの味』
我なんぢらが
汝らのパンを燒き
汝等は
──レビ記 二十六章二十六節より
人はパンのみにて生くるにあらず、とはよく言ったものだ。
ぼくも、週に三度の酒盛りとつまみのチーズがなけりゃ生きた心地がしない。培養でないホンモノの肉を食わないと、この陰鬱な
「ねえ、ヒース。これ、なんていう料理なの?」
昨晩、
なくした左腕も、今の技術力なら容易に取り戻すことができる。お金は結構掛かるかもしれないけど、独身貴族のぼくは幸いと財力だけは持て余している。
「それはボルシチだよ。世界三大スープの一つだ。勿論、人工蛋白なんか使ってない。正真正銘、本物の豚肉さ。一般家庭じゃ、ちょっと見ないぜ」
「へええ、そっか。じゃあ、これが
片腕で器用に料理を取り分けながら、マナは心底感心したように言った。
科学培養した安価な食品をファーストフードと呼ぶのに対し、セカンドフードは自然栽培・自然肥育されたものを指す。つまりは、高級自然食品という訳だ。もっとも、この現代に「自然」なんてものが実在するかという命題には目を瞑ることになる。
なにせ先人たちが核による報復合戦を繰り広げてくれたお陰で、外の世界は「自然」に生きることすら、ままならない状況に陥っている。昨今では、自然という単語に求められる「自然らしさ」のハードルも、限りなく引き下げられているのだ。
今じゃ、母親の胎から産み落とされてさえいれば、帝王切開でも自然分娩とみなされる。だが、それはそれとして。
「……君は、これが何かも判らずに食べたのか。中々のチャレンジャーだな」
食卓が沈黙に包まれたので、ぼくは会話の取っ掛かりを探していた。
その結果、口を衝いて出た言葉はまったくデリカシーを欠いていた。チャレンジャー、なんて。彼女は今まで、チャレンジしたくてしていた訳ではないはずだ。食う物に困って、取り敢えず何でも口にするような生活を強いられていただけだろう。それなのに、ぼくときたら──
そんな悔恨を余所に、当のマナはというと実に愉しげだった。まるで、
「あら。可笑しなこと言うのね、ヒース。この世界に、自分が何を口にしているか理解できている人間が、一体どれだけいるのかしら?」
「ぼくは分かっているつもりだけど」
原材料名、生産者表示、栄養価、放射線量──その他諸々。
マナは知ってか知らずか、それに懐疑的な立場を取っている。
「たとえば、今あなたが飲み込んだ豚肉。別の肉が混ざっていないって言い切れる?」
「ヤなこと言うなよ、マナ。いつもと同じ味だ」
「最初からずうっと
「それは……そうだけど」
学がないようで中々に鋭い娘だ。ぼくは素直に感心する。
しかし一方で、彼女のその徒な聡さが少し怖かった。下手な勘繰りをして公社に目をつけられれば、この街で生きていくことはできない。その辺りのことは、後でゆっくり教えてあげなきゃいけないな──などと考えていると、彼女はまた食事の手を止めて、
「ねえ、ヒース。不思議に思わない?」
「なにが?」
「身体は、口にした物で出来ている。でも殆どの人たちは、食べ物が何で出来ているか調べようともしない。自分が何で構成されているのか、興味がないってことよね」
窓の外。鋼鉄製の空に黒煙を吐き続ける培養工場を見詰めながら、マナは心底不思議そうに言った。彼女の言葉には、陰謀論に付き物な「愚かな貴様を啓蒙してやろう」という傲慢な気配は微塵も感じられない。それが余計に、事の真実性を増すように感じた。
「じゃあ君は、これが何で出来ていると思う?」
「そうね。たとえば──ウミガメ、とか」
「ウミガメ? なんだい、それは」
「絶滅した海洋生物の一種。豚肉として食卓に出し続けていたら、いつかウミガメも豚肉ってことになるんじゃないかな」
そのウミガメというヤツはよく知らないが、カメと言うからには食用のものと同様、爬虫類なのだろう。流石に、自分が爬虫類と哺乳類の区別もつかない舌馬鹿だとは思いたくないけど、実際はどうなんだろう。
「これがウミガメのスープだってのかい」
「かもしれないってこと。否定できる?」
「……どうだろう。ないことを証明するのは何より難しいからね」
そう言って考え込んでいると、不意に玄関から電子ロックの外れる音がした。
この家のセキュリティコードは、マナにもまだ教えていない。解除できるのは、ぼくだけのはず。慌てて壁のショットガンを取ろうとした時、マナが
音と視界は、意識は、そこで途絶える。間際に、マナの笑い声が聞こえた――ような気がした。
次に目を覚ますと、ぼくは見知らぬ部屋で椅子に縛り付けられている。
「お目覚めかな、ヒース・ヘザー。私の名はビル・クロイツ。君の尋問を担当する」
「尋問? 一体、何の権利で──」
言い終えぬ内に、クロイツの拳が飛んできてぼくの言葉を封殺した。口の中で、血の味がじんわりと広がった。
「質問するのは君ではない。私だ。素直に話せば悪いようにはしない、分かったか?」
ぼくはただ頷く。状況がまったく飲み込めていなかった。クロイツはそんなぼくの動揺などお構いなしに、尋問を始める。
「君はあの娘を、MN-164をどうやって盗み出した? 他に仲間は?」
「MN……なんですって。ぼくには何のことだか」
「減点だ、ヘザー君」
再び、クロイツの拳が振るわれる。腹部を強かに打たれたぼくは、盛大に胃の内容物を吐き戻してしまった。攫われてからあまり時間が経過していないのか、原型を保った具材がチラホラと目についた。
ああ、あれはシチの豚肉だな。あるいはウミガメかも知れないけど。
などと、ズレた思考が脳内を占拠する。辛い現実から逃避しようと、思考が迷走していることをぼくは自覚した。
「良いかね、ヘザー君。我々はこの街の番人だ。市民の食生活を守護する重大な責務を負っている。つまらん同情でアレに手を出すのは止めてもらいたいのだ」
「そうか。あんた、FB公社の……それで、家のセキュリティを……」
「ふむ、まさか本当に知らないのか?」
机上の端末でぼくのバイタルサインを観察しながら、クロイツは溜め息を吐く。どうやら、ぼくの身体は自分が
「いいや。そうだとしても、見逃す訳にはいかないな。君はこの街の聖域に踏み入った。生かしてはおけない」
「ま、待ってくれ。殺すなんて、そんな」
「残酷かね。まあ、何も知らずに死ぬのも哀れか」
「そう、そうだ。教えてくれ。このままじゃ死んでも死にきれない」
ぼくは必死だった。この延命行為にどれだけの意味があるかは分からなかったが、それでも懇願した。譫言のように同じ言葉を口にした。教えてくれ、ぼくはどうして殺されなきゃならないのか、と。
「ふん、冥土の土産というやつかね。良いだろう、それもまた一興だ。私も、尋問の甲斐がなくて拍子抜けしていたところだ」
単なる気紛れか、それとも他に狙いがあるのか、クロイツはぼくの願いを聞き入れた。
「『伝達性海綿状脳症』という病を知っているかね。別名、プリオン病とも言うが」
「確か、貧困層で多発している奇病。闇市で出回った汚染食品が原因だと……」
「ハハハ、こいつは良い。こんな善良な市民サマを疑っていたとは傑作だ。君はまさに、我々の想定した愚民のモデルケースだな、ヘザー君」
「一体、何を……」
ぼくは、自身の延命などそっちのけに困惑していた。プリオン病に関する見解は、FB公社もお墨付きを与えていたはずだ。
「汚染食品の流通など、我々が見逃すと思うかね。否だ。断じて否だよ、ヘザー君。全ては、カバーストーリーを彩る小道具に過ぎん」
「あれが、デマ? では、原因は……」
「プリオン病の原因は、放射性物質でもウイルスでもない。アントロポファジーが引き起こしているのさ」
「アントロポファジー?」
耳慣れぬ単語だった。クロイツは、それも折り込み済みといった様子で話を続ける。
「つまりは、共食いだよ。カニバリズムと言った方が分かり易いか。
「まさか、マナを……いや、人肉なんて。気が付かないはずがない」
「そうかね? 確かに、食品表示には書いてないだろうが、しかし世の人間たちは君が思っている以上に舌馬鹿なようだぞ。なにせ、他のシェルターでも一切露見していない。IG食品グループ、TW製粉──どこもみな巧く騙しおおせているようだ」
「嘘だ」
それは否定というより、懇願だった。
こんな馬鹿げたこと、惨いことが赦されて良いはずはない。看過されるはずがない。
しかしクロイツは、それを易々と切り捨てた。
「嘘ではない。誰も『
「……マナを食い物にしたというのか。あんな小さな子を」
「アレは小さくなどないよ。今やこの世で、最も巨大な生物群だ。彼女の身体は、切り刻めば切り刻むほど数を増していく。まるでプラナリアのようにね。培養工場には、彼女の複製たちが無数に存在している。あれこそ、神が我らに与えたもうた第二の
クロイツはそう言って微笑んだ。
不気味なほど、安らかな笑みだった。
「狂ってる……」
「狂っているのは君たちだ。情報統制と化学調味料で容易く欺ける、理性のないケダモノたち」
そう吐き捨てて、クロイツは心底うんざりした様子で懐から拳銃を取り出した。
「さて、お喋りが過ぎたようだ。そろそろ終わりにしよう。次が控えている」
「ま、待ってくれ。ぼくは──」
制止の甲斐なく、衝撃が胸を穿った。掛けていた椅子ごと、ぼくは床に倒れ込む。
脈動に合わせて、胸の銃創から血液が流れ出ていくのを感じた。血の池はゆっくりと広がって、シチの残骸と混じり始める。その只中に、ぼくは奇妙な光景を目にした。
吐瀉物の中で、肉片が蠢いていたのだ。
シチの具材とぼくの体液を飲み込みながら、そいつは急速に成長しているように見えた。クロイツはそれに気が付くことなく、尋問部屋を出ていく。
「……ウミガメ。いや、マナか」
彼女の言葉を、いまわの際に思い出す。
まさか、こうなることが分かっていて、彼女はぼくに近付いたのだろうか。最初から、公社内で自分の同胞を解き放つ為に、ぼくを運び屋に選んだのだろうか。だとしたら、恐ろしく計算高い娘だ。
肉片は既に、肉塊と呼べるサイズにまで成長している。口や鼻らしき器官も、形成され始めたようだった。マナは、ぼくを食らうことで人の姿を取り戻しつつある。だが、それに恐怖は感じなかった。
ぼくの心にあるのは、懺悔の念。そして、自分への怒りだけだった。彼女を駆り立てているのはFB公社であり、地下世界であり、無知なぼくだと分かったから。
「食べろ、マナ。食べて、全てを覆い尽くせ」
大地がマナで満ちた時、そこでは真実のみが口にされる──そんな風景を夢見て、ぼくの意識は終わりを迎えた。
ギルティはマナの味 庚乃アラヤ(コウノアラヤ) @araya11
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