晩翠 ~一筆箋~
タケダとは火曜と金曜の週に2度、図書館で会うことに決めた。
その曜日だけ閉館時間がふだんより1時間遅いので、部活後でもそれなりに時間が取れるのだ。誰にも知られないよう、別々に図書館に行って向こうで落ち合うことにした。
ルカとミフユが「4人で会う?」って言ってくれたけど、断った。それでも心配したルカが、週に一度のどちらかは必ず、都合がつけば両方、一緒に行ってくれている。タケダの姿が見えると私の横から音もなく離れるけれど、それでも私の視界からその姿が消えることはない。
ミフユはミフユで閉館までには必ずルカの迎えに来た。そのついでみたいな顔をして、私たちを覗いて行く。ミフユはたまに早めに来ることもあって、そんな時はルカと顔を突き合わせて一冊のノートにふたりで何やら書きこんでいる。私はといえば、勉強するか、デッサンなどの本を探して読むかしていた。
最初のうち、私はガチガチに緊張していた。自分で決めたこととは言え心が、それ以上に体が、悲鳴を上げた。タケダが目の前にいると思うだけで胃が痛くなったし、肩も首も凝った。本を読んでいてもただ文字を追っているだけ。ペンを持てば手が震えそうな気がした。
これではタケダを傷付けるどころではない。ただの自傷行為だ。あまりのバカバカしさに自分で自分を嘲笑った。
それくらいタケダの、顔を見るのも嫌だった。口もききたくなかった。声も、立てる音も、気配すら耳に入れたくなかった。だから図書館にタケダが現れても声もかけず、閉館して外に出てもまともに目も合わせず、駅では振り返りもしないでそのまま別れた。タケダは気にする様子もなく、ただ黙って来て、黙って帰っていく。
図書館に駆け込んでくるタケダはいつだって汗臭かった。私の知らない種類の臭いだった。目の前に座るだけでもタケダの体はごつごつと固い岩山のような存在感を放った。机の上に広げた本を押さえる手は、黒くて大きくて野蛮だった。タケダは気がつけばいつも居眠りをしていた。居眠りをしている時のタケダの足は、だらしなく前に投げ出されていた。制服は埃っぽく、無造作に床に置いたカバンには土のような汚れがこびりついて見えた。
一緒にいる時間のほとんどをタケダは居眠りしていると分かったら、ようやく緊張が解けてきた。こそこそしないで顔を上げられるようになり、離れて座るルカと目を合わせる余裕も生まれた。ミフユが来れば目配せできたし、たまにはこっそり手も振った。体から余計な力が少しずつ抜け、顔のこわばりも取れてきた。
これなら残り半月、なんとかやり過ごせそうだと思った折り返し地点過ぎ。閉館間際、タケダが一枚の紙切れを目の前にすっと滑らせてきた。
それは体を丸めて眠る猫のイラストが小さく入った一筆箋だった。らしくない可愛らしい図柄にまず目が奪われ、ついでその体に似つかわしくないやけに細長い文字に目が留まる。
「次の週末、土日どっちでもいいから〇〇モールに一緒に。午後だけ、いや、一時間でもいい。予定は合わせる。学校のやつらに会うことはまずないと思う。頼む。」
断ろうと思った。
ふたりでいる時間を作ってくれとは言われたが、わざわざ週末に出かけるなんてのは設定外だった。そんな気はさらさらなかった。それでも結局、断らなかったのはなぜだろう。買いたくて探しているものがあったのは事実だけれど、それはきっと言い訳だ。
タケダが一筆箋を使ったことが意外だったから、一筆箋の絵柄も書かれた字も意外だったから、何よりその週末を過ぎたら契約期間終了まで残り一週間と思うと気が緩んだから。それが理由だと思う。
予定は、私が調べて決めた。
同じく一筆箋に書いた。黄葉した銀杏の葉が舞い散る図柄。タケダにならきっと、もっと違う柄が良かったんだろう。次の図書館の日、帰りがけに机の上に置いた。
「モールの中にある△△文具店。そこに土曜日の3時。店内を見て回っている。」
顔も上げず目も合わせなかったが、机の向こう側で固い岩がわずかに緩む気配を感じた。その瞬間、バカなことをした、と後悔した。
土曜日とは明日の事だ。
ルカにもミフユにも言わなかった。
翌日。珍しく空が曇っていた。曇るとこの季節、一気に寒く感じる。出かけるのが更に億劫になった。それでもこの外出には元々それくらいの天気がお似合いだろうと、自分で自分を納得させる。すっぽかすことも頭をよぎったが、頭を振って無理やり追い出した。せめてもと暖かい服を選ぶ。マフラーも巻いた。
モールは、学校からターミナル駅に出るのとは逆方向の終点にある。高校の所在地とは別の市になるので、そちらから通ってくる生徒はほとんどいない。そのため、うちの高校の生徒にはまずお目にかからないらしい。私も行ったことはなかった。
それでも万一に備えて帽子も持った。マフラーにマスクの上から帽子を被れば、誰だかまず分からないと思う。タケダも私のこと、分からなければいいのに。
捜し物のために早く家を出る。着いたのは2時過ぎ。土曜としては思っていたほどの人出ではなくてホッとした。
本屋で参考書を見てから、約束の文具店に行く。2時半過ぎ。
探していたのは『宮沢賢治』のマスキングテープ。いつも行くターミナル駅の大型店でルカが見つけて、「これ、いいね」ってはしゃいでた。次、行った時に買おうと思っていたのに、すぐ売り切れてしまったのだ。再入荷予定はかなり先になるとかで、こっちで売っていたらと密かに期待して来た。
文房具は好きだ。ペンもノートもクリップもシールも、何を見てもわくわくする。使うあてがなくても欲しくなる。初めて来たこの店の品揃えは、いつもの大型店と比べても引けを取らなかった。マスキングテープの棚も期待を裏切らない充実ぶりだ。目移りしそうになるのを我慢して、きれいに並べられた棚を端から順に目で追って探す。
あった。ただし、ルカが欲しがっていた、夜空を走る銀河鉄道の絵柄は、この店でも売り切れだった。他のはいくつか残っているのに。注文の多い料理店、よだかの星、セロ弾きのゴーシュ、ヤマナシ。
どうしよう。同じ『宮沢賢治』だけれど、絵柄も色合いもそれぞれ違う。悩んで悩んで悩んでいるうちに、あっという間に時間が過ぎていたらしい。スマホを出して見たら、3時を10分近く過ぎていた。
一瞬、どきん、とした。でも、考えてみたら、『店内にいる』と伝えていたのだった。向こうが私を探して見つければいいと思って書いたのだ。だったら慌てる必要はない。そう思い直してスマホをポケットにしまう。
落ち着きを取り戻した目に、少し離れたところにタケダがひとり、所在なげに立っているのが映った。気付いていない風を装いながら、その実、こっちを見ているのがバレバレだ。盗み見されていたようで、途端に悔しくなって、奥歯を音がするくらい噛み締めた。
これが本当に付き合っているひと同士だったなら。
嬉しくて微笑ましくて、思わず駆け寄ってしまうのだろう。それか、こっそり近寄って、わっ、って声かけてびっくりさせて、笑い合うか。
一体、私ときたら、わざわざ休みの日にタケダ相手にこんなところまで来て、何やってるんだ。
一気に落ちる気持ちに引きずられるように、体がまた少し硬くなった。頭が重たく感じる。胸苦しい。
ああ、嫌だ。やっぱり頼みなんてきかなきゃよかった。来るんじゃなかった。今更言っても意味ないけど、バカだ。私はバカだ。自分の愚かさを呪うしかない。
タケダが「今、気付いた」とばかりにこちらに向かって歩いて来る。
もう逃げられない。逃げ出せない。私の斜め前あたりまで来て、立ち止まる。
「ああ」でもなければ「こんにちは」でもない。黙ったまま、山のように立ちふさがっている。こんな時はどうすればいい? 頭の中は真っ白だ。
無意識に、ほんとに無意識に、棚のマステに手を伸ばしていた。ヤマナシをふたつ。赤いカニと、黄色っぽいヤマナシ。私の手の中でかぷかぷと笑っている。他の柄と比べて、これだけが地の色が柔らかく明るい。ふわりと優しい色味の笑顔。
手の中の笑顔に促されるようにして、レジに向かった。もちろん口なんてきかない。タケダも黙ったまま私の後ろを何歩か離れてのっそりついてくる。ああ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。マステをお守りみたいにぎゅうっと握りしめる。
レジカウンターの内側に立つ制服姿の店員さんが、これ以上ないくらい完璧な笑顔を私に向けた。
「いらっしゃいませ。こちら、プレゼント用ですか?」
よく通る、明るい声だ。気後れしてしまうくらい、明るい声だ。
「はい。別々に、ふたつとも贈り物で」
「承りました。では、お包みしますので、シールとリボンの色をお選びください」
見本として示されたのが、シールは金と銀の2色、リボンは赤、緑、水色の3色。計6通りの組み合わせだった。
迷うことなく金のシールに水色のリボンの組み合わせに決めた。ヤマナシの図柄に一番合いそうに思えたから。店員さんは笑顔と同じくらい手際も完璧だった。プレゼント用の小さい梱包がふたつ、目の前であっという間に出来上がる。
「ありがとうございました」の言葉と共に受け取ると、私には行かなければならない所も行きたい所も何も残っていなかった。
「来ないかと、思った」
店を出た通路で、タケダが口を開いた。今日、初めて聞くタケダの声。顔を見ると、タケダの目は私の目、斜め10cm上あたりを浮遊している。
「何、それ」
思わず出た私の言葉には何も返さず、「行きたいところがある」それだけ言って、タケダはすぐに背中を向けて歩き出した。
何、それ。心の中で繰り返す。何、それ。ほんと訳、分かんない。
タケダの言い草と態度にカチンときていた。それでも顔を見るより背中のほうがまだマシだった。いや、顔を見ずに済んでホッとしていた。
私服を着たタケダの背中は、少し前のめり気味に歩いていく。歩幅が大きい。その後ろを訳も分からないまま、早足で続く。
モールの通路は車椅子でもベビーカーでもゆったりと行き交えるくらい幅がある。のんびり歩く家族連れの間を、タケダの背中がぐいぐい進む。
ずいぶん歩いた先に長いエスカレーターが見えた。振り返る素振りも見せず、タケダは下りエスカレーターに乗った。ひとりふたり間に挟んで、私も乗った。するすると下に着けば、そこは1階、吹き抜けのホールだ。ホールにはイベントスペースが設けられていて、人だかりが出来ていた。
何をやっているのだろう。見回した目に飛び込んできたのは『沖縄物産展』と書かれた赤いアーチ状の入り口。タケダの足はその中へと迷いなく踏み込んで行く。
沖縄? つい、この前、行ってきたばかりの、沖縄?
戸惑っていると、タケダの背中がいきなり、くるりと振り返った。不意打ちを喰らって目が合ってしまう。
黒々とした目が今度は私をじっと見つめて、
「そこに座って、待ってろ」
すぐ横に並ぶ、テーブルセットの一角を示した。休憩もしくはイートインのようなスペースらしい。ぐずる子供をあやしている親子連れや、ソフトクリームを食べるカップルなどが座っている。
言われるまま、空いていた席に腰を下ろした。私が座るのを見届けると、タケダは物産展の人混みの中にあっという間に姿を消した。
座ったら、ただそれだけで、ホッとした。初めての場所で疲れたのか、タケダと一緒だったからなのか。
のど飴を持って来ていたことを思い出した。透き通った黄色の柚子味。のどが乾いていることにも気付く。飲み物代わりにと、ひとつつまんだ。金色にも似た甘い黄色味が、口の中を優しく満たす。
ぼんやりと舌の上で転がしているつもりが、いつの間にか噛み砕いていた。がりっ、がりっ。音が口の中で響く。粉々になった黄色が口の中で小さく光る。
黄色の破片が消え、空っぽになった口の中。ふたつ目を放り込んだ。今度はしっかりゆっくり舐めていよう。そう思って、丁寧に転がす。とろりとろりと少しずつ 少しずつ小さくなっていき、舌の上からふたつ目がようやく消える頃。タケダが戻ってきた。
手には、ビニール袋。
どさり。腰を下ろすのが相変わらず乱暴で、その音を聞くだけでわずかに体がすくむ。タケダは机の上にビニール袋をガサガサと音を立てて置いた。
「これ、食べるぞ」
中から取り出したのは、ちんすこう。
「え?」
思わず声が裏返った。
だって、この前、行ってきたばかりの沖縄の、しかも誰もが買ったであろう、ちんすこうを、なぜここで今。
「色んな種類、買って食べてみたけど、オレはこれが一番好きだったんだよ」
それは、数ある中でも一番人気と向こうで聞かされた、雪塩ちんすこうだった。
「おまえ、これ買った?」
黙って首を横に振った。
「ふうん。嫌いなのか?」
畳みかけられた問いに、再び首を横に振る。
「だったら、食えよ」
タケダの手が大袋を器用に開き、自分の前と、それから私の前に、それぞれひとつずつ個別包装を置く。
開けると中から真っ白なちんすこう。見慣れた砂の色ではなく、あの、南国の砂浜みたいな、真っ白なちんすこう。無敵の白。
「なんかオレ、分かったっていうか」
食べ始めて早々、タケダが口を開いた。
「あいつのことが好きなのかと思ったりしたんだけど、おまえ、実は違うのな」
唐突過ぎて、口の中のちんすこうがむせそうになる。
「自分で分かってるか?」
また突然、何を言い出してるんだろう。あの美術室を思い出して食べる手が止まった私にお構いなしに、タケダはふたつ目のちんすこうの袋を開け、口に運ぶ。でかい口。
「あいつじゃないなら、あいつの男の方かとも思ったけど、それも違う。思ってたのとなんもかんも違う。多分何も分かっちゃいないんだろうけどオレは」
なんて不愉快な口だろう。不愉快過ぎて、目が離せなくなって、口元だけを凝視する。口だけがぱくぱく動いて見える。
「おまえ、金魚のフン、にも似てるな。違うか。ほんとに見てるだけだもんな」
タケダは3個目のちんすこうを手にした。
ちんすこうではなく、もっと違ったもの、それこそ何かのフンでも口に突っ込んでやりたくなる。要するに、その口を塞ぎたい。黙らせたい。
「あ、これ、褒めてるんだぜ? おまえみたいなバカ、見たことない。今までは気付いてなかった。一緒にいて初めて分かった。おまえ、バカ。ただのバカ。バカにつける薬はない」
これが褒め言葉なら、世の全ての罵詈雑言は『アイラビュー』と聞こえることだろう。居眠りばかりしてるくせに、バカにするな。
「おまえみたいなバカなやつ、オレにはお手上げだ。オレはふつうの人間だから、好きになれば相手に近づきたい。距離を縮めたい。最終的にはゼロにしたい。こうやって」
突然、手を掴まれた。大きく黒い手。粗野で乱暴な手。
「でも、おまえはもしかしたら、そんなものが欲しい訳じゃないのかもな」
そう言ってタケダは、ぱっ、と手を離した。振り払う間もない、一瞬の出来事だった。
「ほんとは欲しいのかもしれないけど。欲しがってないって言ってたけど。今でもよく分かんねえけど。全然うまく言えないけど。でも、そういうのが分かっただけでも、付き合わせた甲斐があったって言うか」
目の前で、真っ白なちんすこうを大口開けて食べ、口が空になると話す、それだけのことを繰り返すタケダの顔は、その口から吐き出された言葉同様、途方に暮れたような、呆れたような、バカにしているような、怒ってるような、それでいて楽しそうでもある、何やら色々とごちゃまぜの意味不明な顔をしていた。
私が見たかったのは、こんなタケダの顔じゃあ、なかった。
こんな顔をさせたくて言われるままにふたりの時間を作った訳じゃあ、なかった。
それなのに。
私の横で見せてきたはずなのに、それなのに。こいつは。
5個目のちんすこうを開ける前にタケダはポケットに手を突っ込んで、取り出したものを私の前に無造作に置いた。
「おまえにやる」
手のひらに入るくらいの小さな白い紙袋。
「開けろよ」
促されるままに、袋を手にした。
中から出てきたのは、ピンク色の花が白地に眩しいハイビスカス柄のマスキングテープ。
「なんか、おまえに似合う気がして」
あっちで買ってたんだけど、ずっと渡せなくってさ、今、ここでも見てみたけど、さすがにこれは売ってなかったぞ?
吹き抜けいっぱいに響くざわめきの中、タケダの言葉は私の耳にまっすぐに届いた。
花柄のマステをテーブルの上に置きなおして、何も言わずにふたつ目のちんすこうを食べた。3つ目は食べない。必要ない。
もらったマステを手に、席を立つ。タケダは慌ててちんすこうをいくつか大袋から掴み出すと、私の手にぐいっと押し付けた。
「持ってけよ」
「うん」
小さい声で頭を下げて、受け取ったちんすこうをかばんにしまった。そのまま真っ直ぐに赤いアーチをくぐって、会場を出る。声も足音も追ってはこなかった。
帰りの電車の中で、深々と帽子を被ってから、もらったマステを取り出した。
手の中でマステは屈託のない色をした花を鮮やかに咲かせている。
この明るいピンクの花は、私の目に黒のかけらも混じっているようには見えない。
あのヘビの赤い舌の色にだって似てもいない。
流した血の色になんかまるっきり似ていない。
ピンクの花は、どこまでも混じりっけのない純粋なピンクで、それはきっと南の島に素晴らしく似合う色で、青空と白い砂浜に美しく映える色、冬の曇り空のここからはとてもとても遠くにある色だ。
マステを手に私は、タケダの目をわらう。
タケダの目に映る自分の姿を、
見たことのない、その存在すら知らない自分の姿を、私はわらう。
わらうしかなかった。
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