白帝 ~ぽろぽろと、ほろほろと~
ミフユへのお土産は、ベタだれけど結局、ちんすこうにした。さくさくとした食感が好きだし、甘くてやっぱり美味しいんだもの。修学旅行から戻ってきてすぐの学校帰り、電車で3つ先の大きな公園まで行って、3人で芝生の上に座って食べた。風もなくて、まだ日も長く差していて、寒いというほどでもない。公園で過ごすには悪くない季節だ。それが好きなひととならなおさらだ。
袋を開けるのが下手くそだったのか、ミフユの手元からぽろぽろとちんすこうのかけらがこぼれている。ルカが露骨に嫌そうな顔をした。
「そんなにこぼしてたらアリが来るんじゃないの?」
「大丈夫だよ、ちょっとくらいこぼしたからってそんなにすぐには寄って来ないって」
ちんすこうを指でつまんで口に運びながら話すミフユの表情は断然、明るい。ルカと一緒にいるだけで嬉しくてたまらない、そんな顔だ。顔だけでなく体中から気持ちがあふれ出ているようだった。なんて分かりやすいんだろう。声まで明るく弾んでいる。
弾む声は、でも、あの夜の声とはまるで別物だ。そういえば、ミフユの歌を聞くのはあれが初めてだった。あの時の歌声が今では幻のようにも思えてくる。記憶は脆い。ちんすこうのように、ぽろぽろと簡単にこぼれる。
こぼさないようにしながら、私もちんすこうを口に運んだ。甘い。甘い甘い、砂。このちんすこうの色は、私たちの見知った海の砂の色によく似ている。
「ルカからのはないの?」
ミフユがちんすこうを食べながら催促した。まだなんとなく嫌そうな顔をしたまま「ん、」とルカがリュックから取り出したのは、紅いもタルト。
「そうかぁ。今日はデザートパーティだったのかあ。そうと知っていればコーヒー買ってきたのにな」
こんなに甘いものばかりだとコーヒー飲みたくならない? そう言うミフユの顔の方がよっぽど、どんなお菓子よりも甘く見える。
「あ、じゃあ、買ってくるよ。もちろん無糖だよね?」
財布を片手に立ち上がった。すかさず「私も行く」とルカが言う。
「いいって。それくらいひとりで持てる。それより撮ってきた写真でも見せてあげてなよ?」
ずいぶんいっぱい私ルカの写真、撮ったんだけど、それ、ちゃんとルカ、送ってくれてた?
私の問いにミフユは、
「いえ、全然」
甘ったるい顔のままふくれっ面をしてみせた。器用なものだ。
「Wi-Fiフリーじゃないからとかなんとか言って、ほとんど送ってくれなかったんですよこのひと。送ってくれたのは昼と夜の海の写真くらいだったかな。あ、あとは水族館の魚と」
それもなんかやけにぼやけてて何撮ってるんだかよく分からない写真で。
ミフユの言葉にあの夜の海が浮かぶ。海と、そして、白いつるばら。
ルカは一体、どんな海を撮ったんだろう。見てもいない写真を私は想う。今はもうこんなにも遠い、南国の海。
「じゃあさ、忘れないうちにさっさと見せてもらっておきなよ?」
笑って話しながらスカートを叩いて芝生を払った。
「やっぱ、行く」
ぶっきらぼうな口調のルカが、急に立ち上がった。
「ミフユは荷物番してて」
そのままの口調でミフユに言い渡すと、「早く行こう」逆に私を促して、返事も聞かずに先に立って歩き出した。
「で、どういうことよ。昼のアレは?」
どうせこの話になるだろうと覚悟はしていたのだ。したくないからひとりで買いに行こうとしていたのだけれど、そうもいかないだろうとも思っていた。これでもルカが気遣ってくれたことも分かっているだけに文句は言えない。
「どうもこうも、あのまんま」
昼休み、今日はふたりだけでお弁当を食べよう、とルカを誘ったのは私だ。屋上の端、給水塔の裏側に回り込んで、人目を避けるような場所で食べながら話したのだ。
タケダと付き合ってみようと思う、と。
その瞬間、ルカは信じられないものでも見るような顔をして私を見た。
「何、それ。どういうこと。訳分かんない。頭、ぶっ壊れたの?」
ルカの言葉はもっともだ。私が逆の立場でも同じことを言っただろう。
「何日前よ? あの話は」
修学旅行の夜の海。あれはたかだか5日前のことに過ぎない。その時と真逆のことを言っているのだから、返す言葉もない。
「分かってる。ルカの言う通りだ。私だってあいつと付き合いたいだなんて思ってもいない。断じて、ない」
「だったら何で」
あの夜。私の言葉を聞いたタケダは、わずかに思案してから言ったのだった。それも急に冷静さを取り戻した口調で。
「たしかにオレは無駄なことなんてしたくない。だけど、おまえに言われっぱなしで、はいそうですか、とのこのこ引き下がりたくもない。だから提案だ。オレと1ヶ月限定で付き合え。それでおまえの気持ちが変わらなければ、二度とつきまとわない。反対に、少しでも気持ちが動いたなら、オレとそのまま付き合えよ」
一瞬で体中の血が沸騰した。
これのどこが『提案』なのだ。『命令』にしか聞こえない。
どれだけ傷つこうが、どれだけ嫌悪しようが、どれだけ拒絶しようが、私の気持ちなんてものはタケダには微塵も伝わらないらしい。そのあまりの話の通じなさ身勝手さに、砂浜の砂の代わりに言葉を投げつける間もなく、さらに畳みかけられた。
「もちろんこれは誰にも言わない。秘密の契約だ。少しでいいから一緒にいる時間を作ってくれさえすりゃいいんだ。一緒にいる間、オレのことなんか見なくたって、好きなやつのこと考えてたって、ちっとも構わねえ。ただ、ふたりでいる時間が少しだけでもあれば、それで上等だ」
どうしたことだろう、そこまで聞いて突然、私の心の片隅でとぐろを巻いて隠れていたヘビが、獲物を見つけたように鎌首をもたげた。
「さっさとオレの言ったことに『うん』と言え。それで部屋に引き上げるぞ? 先生でなくても誰かに見られでもしたら、その時点でオレら学年中に付き合ってるとみなされるぞ? オレはそれで構わないけど、おまえは困るだろ」
タケダが私を急かした。それなのに私は、タケダの言葉よりも心中のヘビに気を取られていた。ヘビは赤くぬめった舌先をちろちろと伸ばしている。
私の無言を、タケダは「契約成立だな」と勝手に決めつけた。
そうだ。これは契約だ。だけどもこれは、結んだことをきっと後悔するだろう、そういう類の契約だ。
私の心の中で、ヘビが嬉しそうに舌なめずりしていたことを、タケダは知らない。
「要は、しつこいあいつを諦めさせるためのお試し期間、ってこと?」
「そうだね、そういうことになるのかな」
とてもとても不本意そうな顔をしたルカが、「なんか訳分かんない」ともう一度、呟いた。
「なんでひどいこと言われて嫌な思いさせられたやつと、諦めさせるためとは言え1ヶ月付き合うなんてこと認めるられるの? 嫌ならそう言ってはっきりと断んなよ? 私なら無理。絶対に絶対に無理。納得できない」
そうだろう。納得なんてできないだろう。
だって、言うまでもないけれど、私はタケダのことが嫌いだ。ルカの言う通りだ。大嫌いだし、許せないし、理解もできない。それこそ『付き合う』だなんて、明日地球が滅びると言われたとしたって1ミリだって考えられない。
それなのになぜ、タケダの提案を受け入れる気になったのか。
私があいつを嫌いだからだ。
これは、僥倖だ。飛んで火に入るなんとやら、だ。
私の中のヘビが、砂の上を這いながら、そう囁いたのだ。
憎い。憎い。私は憎い。私だけが血を流し続けている、ただそれだけのことが憎い。だったら、あいつになら、私と同じように血くらい流させてやって構わないではないか。
私と同じだけとは言わない、せめてひとしずくでいい、私によってあいつの血が流れるところを、私は見たい。苦しむところをこの目で見たい。
どれだけ望んだとしても、目の前にあったとしても、絶対に叶わないということがどういうことか、私の何十分の1でもいいから味わせてやりたい。その痛みも、辛さも、苦しさも、何もかも全てを。
だって、そうでしょう? なんであいつはひとを傷つけておきながらそれに気付こうともせず自分勝手なことばかり言って、そのくせ自分は血の一滴も流さないのだ。
なんで、どうして、私だけが血を流さなければならない? なんで。
私がそんなことを思っただなんて、どうしてルカに言えるだろう。
口が裂けても言えるはずはなかった。言ったらどんな顔をするのだろうか。ルカの、おぞましいものでも見たような表情が、そんな表情を見たこともないくせに、脳裏に浮かんだ。
私は全てを振り払うようにゆっくりゆっくりと頭を振る。
「ヤバくなったら、無理しないでいつでも言いなよ? 絶対に何とかするから」
不承不承といった体で、ルカは矛を収めた。
私は黙ったまま笑顔でもって応えた。
自販機で無糖の缶コーヒーを買った。自販機の中はいつの間にかアイスからホットコーヒーに変わっていた。ホットと冷たいのとは一体いつ切り替わるのだろう。気が付くと変わっていて、ああそう言えば、とも思わないくらい、いつも自然に切り替わっている。
自販機の下から缶を取り出す。温かさが手に即座に伝わってくる。この温かさに助けられるほどの寒さでは、まだない。それでも缶を両手でぎゅっと握った。ルカはミフユの分と合わせて2本を、私は自分の分だけを。
ひとり分とふたり分とでは、色んなことがずいぶんと違う。それが缶コーヒーであってもなくてもだ。いや、缶コーヒーですら、と言うべきだろうか。
「ミフユが待ってるから、早く戻ろう」
そう言ってルカは2本の缶コーヒーを片手ずつ持つと、私を置いて走り出した。
ミフユは芝生の上で仰向けに寝転んでいた。缶コーヒーを手にしたルカが、その横に走り込む。缶コーヒーがリレーのバトンみたいに見えた。ルカのゴールにはいつだってミフユが待っている。その逆に、ミフユのゴールにはルカがいつも両手を広げて待っているに違いない。
遅れてふたりの横に座ると、ちんすこうをひとつ取って袋を開けた。甘いちんすこうが、指元からわずかにこぼれた。
砂浜の砂のように、ぽろぽろと。
心崩れ落ちるように、ほろほろと。
指先を舌で舐める。甘い。
こんなにも甘いものを食べているのに、私の心は黒く苦く塗りつぶされている。無糖のコーヒーなんて必要ないくらい、苦い。
誰かが私の心の砂漠にコーヒーをじゃぶじゃぶと撒いてくれたらいいのに。疲れた旅人が憩えるオアシスができるくらい、じゃぶじゃぶと撒いてくれたらいいのに。そうしたらヘビなんてきっと現れなくなるだろう。
缶コーヒーを飲みながら、そんな夢みたいなことを思った。
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