白秋 ~白い砂、白い花~(TAKE2)




修学旅行の沖縄は、羽田から飛行機で3時間弱。機内で騒いでいるうちにあっという間に那覇に着いた。外に出ると、日差しが強い。同じ国の同じ10月とは思えないほどだ。季節が何ヶ月か前に巻き戻されたような気がする。


初めて見る沖縄の海は、私の知っている海とは何もかもが違った。

魚が泳いでいる姿がすぐに見えるほどどこまでも透き通っていて、空の色が鏡みたいにそのまま映っているかのようで、そして砂浜が真っ白だ。

「何、この白さ」

びっくりして手に取った砂は、その色だけでなく重さも粒の大きさもそして熱の含み方までもが、見知った海のそれとはまるで違うものに感じる。

「白すぎて、目が痛い」

ルカが横で目を細めている。

「レフ板効果で、写真撮ったら美人に写るかもよ?」

「いや、そもそも眩しくて目がちゃんと開かないんだもん。美人に写るわけがない」

「すぐに慣れるってば」

話しながらスマホのカメラを起動し、ボタンを押す。

「えー? 今はまだ撮らないでよぉ?」

ルカが目を細めたまま口を尖らせる。

「ブスなルカも珍しくてかわいい、なんて誰かさんが言いそうだから」

「ミフユはどんな写真だって『かわいい』って言うんだから意味ないって」

「それってノロケ?」

「いや、グチ」

よく言うよ、と苦笑する。

でしょ? とピースサインのルカ。その姿もすぐに写真に収める。

「撮りまくって送りまくってやろうかな?」

「あっちは授業中だってば」

そうか。そうだった。すっかり忘れていた。私たちは今、夏に戻っていて、ミフユは秋のど真ん中にひとりとり残されている。

「今頃、寂しがってそうだよね」

最後に学校で会った時のミフユの顔を思い起こす。元気そうに笑っていたけれど、どこか”空元気”っぽくて、ふとした隙にシュンとして見えた。

「どうだか」

ルカは行く前も今も、いつもと変わらず平然としている。

「お土産、どうするの?」

「んー。多分、食べ物かな。どうせ来年、行くんだし」

「そっか。じゃあ、私もルカとは違う食べ物、買ってってやるかぁ」

どうせなら変な味の変な食べ物がいいかなぁなんてふざけたことを言いながら、白い白い砂浜を音を立てて歩く。暑い。


宿泊先のホテルの前も海だった。それもほとんどプライベートビーチのノリだ。宿泊客である私たち高校生の姿しか見当たらない。

そんな贅沢な海は、夕食後の自由時間ともなるとカップルたちのデートコース、もしくは非リア充たちの怨嗟と嫉妬の場ないしはヤケクソ青春コメディ上映会場と化している。

ルカと私は、そのいずれでもなかった。

クラスの女子の輪には敢えて入らず、ふたりだけで夜の砂浜を歩いた。ひとの固まりを避け、デート中のカップルを避けしているうちに、気付くとずいぶんとホテルから離れていた。

「ナツはそう言えば彼氏、作んなかったね」

思い出したようにルカが言う。

イベント前になるとにわかカップルが生まれ、終わってしばらくして自然消滅、のパターンは高校生にはよくあることだ。文化祭、体育祭がそうだったし、今回の修学旅行もかなりの数の即席カップルが誕生しているという話だった。

「別に、必要ないし、好きなひともいないし」

ルカと一緒ならそれで十分だもん。口にしたその言葉は負け惜しみなんかではない。これ以上はない正直な気持ちだ。

「ナツにその気があったなら、即、手を挙げそうなやる気満々なヤツが、少なくともひとりはクラスにいたけどねえ」

ルカが思い出し笑いしている。

「誰、それ。全然心当たりがないんだけど」

「相変わらずナツはそういうことに鈍感なんだから」

ルカが、やれやれ、と両手を広げて肩をすくめる。笑いだしたくなるくらい芝居がかった仕草だ。

「タケダ。ダンハンの」

考えるより先に両手が耳を塞いでいた。

「やめて。言わないで」

よりにもよって、一番、聞きたくない名前が、そんな形でルカの口から出てくるなんて。聞いただけで虫酸が走る、吐き気がするというのに。

びっくりしたルカが「大丈夫? どうしたの?」と言いかけてすぐに、あ、と小さく叫んだ。

「もしかして、あの時の」

すかさず顔を覗き込んでくる。

見られたくなくて、耳から手を動かし、顔を隠した。

「そうか。そうだったのか」

呻くような低い声が耳元で聞こえる。

「……なんで言わなかったのよ」

その声に怒りの色が滲む。



あの時、あれだけ傷付いたのは、投げつけられた言葉が心切り裂くナイフのような凶器だったからだけではない。

まるっきり見当外れの言葉には、ひとは傷付かないものだ。あれがそういった類の言葉だったらどんなに良かったことだろう。そうであったなら、


私だって言えていた。

私だって言いたかった。

言うべきだとも思った。

それでも言えなかった。


ルカには、

ルカだけには、


言いたくなかったのだ。




貝のように黙り込んでしまった私を、ルカが悔しそうに、歯痒そうに見つめている。

それでも何も言えずにいる私をルカは怒らなかった。代わりに、吐き捨てるように言った。

「何、言ったんだか知らないけど、だいたい想像はつく。本当にくだらない」

ルカのその言葉を聞きながら、私の心はあの時のことを思い出して、なお闇に落ちる。

「もうそろそろ戻ろう?」

そう言うのが精一杯だった。ルカは不機嫌そうに頷いた。





同室の女子は、他に4人。6人部屋だ。4人は揃ってリア充女子で彼氏持ち。それぞれ夜の砂浜でデートを楽しんできていた。きゃっきゃきゃっきゃとのろけ話ともつかない女子トークに花が咲いている。聞くともなく聞いているうちに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。気付けば夜中で、部屋の電気も消えていた。

コンタクトを外し忘れていたから、皆を起こさないよう静かに布団から抜け出して洗面所に向かう。メガネをつけて戻ってようやく、ルカがいないことに気が付いた。

どうしたんだろう。

気になって、そっと部屋から出てみた。廊下に人影は見えない。エレベーターホールにもいない。飲み物でも買いに行ったのかと思って1階ロビーにも下りてみた。自販機周りにもロビーの応接セットにも姿は見えなかった。

何かから取り残されたようにひとりロビーに佇んでいたら、妙な探検気分が湧き上がってきた。この際だから外に出てみようと思ったのだ。少し寝た分だけ元気になったせいかもしれない。修学旅行という特別な時間がそんな気にさせたのかもしれない。さっきの砂浜での話を振り払いたかったのかもしれない。理由は何にせよ、見つかったら怒られるだろうけれど女子ひとりならば大したことはないだろうと、腹をくくった。


マットに足を乗せると、入り口の自動ドアがわずかな機械音と共に左右に開く。開いたドアの向こう側は、南国の深夜。風が不思議と甘く感じられた。こんな時間でもどこかで花が咲いているのだろうか。

気分が高揚しているのだろうか、外気に包まれて体中の細胞が一気に開いた気がする。嗅覚だけでなく、聴覚も皮膚感覚も、体全体が鋭敏になったかのようだ。体中のスイッチが入ったみたいな不思議な感覚。薄皮を剥かれた桃のような、そんな剥き出しみたいな生々しい体で、風を受けながら砂浜へと足を運んだ。


目の前で、海が光っていた。

幾重にも連なる波が、寄せては返し寄せては返ししながら白く黒く明滅する。波頭がレースのように繊細に立ち上がって、ほろほろと脆く崩れる。砂浜が波に洗われ、緩やかに伸び縮みする。白い砂浜は月明かりの下、銀色にも黒にも見えた。

ひとりで見ているには美しすぎて悲しくなってくる、どこか浮き世離れした景色だった。

その景色の端に、小さくぽつんと人影があることに気付いた。見慣れたその後ろ姿、あれはルカだ。分かる。私には分かる。間違いない。

駆け寄りたくなる衝動を抑え、音がしないよう裸足になって静かに静かに砂浜に足を下ろした。なぜだろう、ルカに気付かれずにその側に行きたいと思ったのだ。砂浜で音を立てずに歩くなんてことはほとんど無理に等しいことと分かっていながら、それでも出来る限りの注意を払ってルカの元へと歩を進める。

気配が届かなさそうなぎりぎりの距離まで近寄った時、突然、話し声が耳に入ってきた。どきん、と心臓が飛び跳ねる。

ルカと、そして、ミフユ。聞き慣れたふたりの声だった。


ミフユの声は、砂の上に置かれたスマホから聞こえてきていた。スピーカーホンにして音量を上げて会話しているようだ。機械を通した声はいつもと違ってがさがさとした音に聞こえるけれど、それでもルカを思う気持ちが隠しようもないくらいあふれている甘やかで密やかな声だった。

ミフユに応えるルカの肉声も、とてもとても柔らかく優しく、そして静かだった。私が初めて耳にするルカの声だった。あんまり優しい声だから、ルカの背中に天使の羽が生えているような錯覚に陥る。そのまま羽を広げてミフユの元まで飛んでいきそうな声だった。話す言葉は聞き取れないけれど、その声音だけで幸せなのだと十分に分かる、そういう声だった。

ほんの10メートルだか20メートルほど先の白い砂の上は、ルカとミフユ、ふたりだけの世界だった。手を、足を、伸ばせばすぐに届く距離にありながら、その実、ふたり以外の誰をも受け入れることのない密やかな時空。仲睦まじく戯れるふたりだけの姿を前に、私はただただ立ち尽くした。

そのうち、スピーカーホンから流れるミフユの声が、歌を歌いだした。知らない曲だ。もちろん歌詞も聞き取れない。ただ、低く囁くような愁いを帯びたメロディが波音に絡まって、霞のように儚く切なく漂う。聞いているうちに、視界の奥底に白い俯き加減の花がぽうっと咲いた。


ああ、あれは多分、つるばらだ。それも、白い白いつるばらだ。夜目に眩しいくらい白いつるばらは、ミフユの歌声でつるが伸び、伸びたつるがルカの体に巻きつく。巻きついたつるには蕾がつき、蕾が次々にほころんで白い花が咲く。ミフユの歌声で花開く。

恋人が咲かせた白い花に縁取られるつるばらの王女。その姿を見ているだけで胸が詰まる。ルカを花で飾るミフユの歌声を聴いていると、白いつるばらで胸がいっぱいになる。


ああ、今、私はひとりだ。

この美しい世界を目の前に、ひとりっきりだ。


それ以上、見て、聴いていられなくなった私は、そっと踵を返した。

月光と波音、そしてミフユの歌声を背中に浴びながら、私はひとり、海を後にした。





ホテルの入口の前に、黒い人影がひとつ見えた。

ドキリとして足が止まる。見回りの先生かと思ったら違った。タケダだった。目を伏せて黙って通り過ぎようとしたら、目の前を立ち塞がれた。顔も上げられない私に向かって

「ごめん」

がさつなひと言が投げかけられた。

そんな言葉は要らない。早く部屋に戻りたい。無言でかわそうとする私に

「なんで、いつまで、そんなことやってるんだ」

怒ったような苛立たしげな声だった。突然過ぎて、思わず顔を上げてしまう。

「どれだけ見てたって思ってたって、何もなりゃしねえだろ。何も応えてもらえねえだろ。そんな無駄なことしてないで、とっとと諦めればいいじゃねえか。諦めて、応えてもらえる相手を探せばいいじゃねえか。なぜ、そうしねえんだよ」

今、見てきた、聴いてきたばかりの景色とはあまりに対照的な、乱暴で一方的なその言葉に、夜にしたルカとの話が重なって、もうどうにも心を留めておくことができなくなってしまった。

「無駄かどうかは私が決めることだ。それに、見返りがなければ無駄なの? 無駄なら諦められるものなの? だったら私はあなたに何ひとつ与えるつもりなんてないから、これ以上私に構わないでよ。それこそただの無駄だ。

でも、私は違う。あなたとは違う。見返りが欲しいだなんて思ってない。見返りが欲しくて思っているわけでもない。ただここに気持ちがあるだけ。その気持ちを抱えているだけ。あなたみたいに押しつけようとなんてしていない、伝えようともしていない。ただひとりで黙ってずっと抱えているだけ。

それの、ねえ、何が悪いって言うの? ねえ? 教えてよ、ねえ」

私の心は未だ肉が大きく切り裂かれたまま傷口が塞がりきらず、血が流れ、ずくずくと疼いている。だから、そうしていないとだからだから心が壊れてしまいそうだから、あの時ミフユがしたように胸に両手を重ねるのだ。祈るように。すがるように。そうして流れる血と共にほとばしる言葉をその勢いに任せて押し流したのだ。


たった今、後にしてきたばかりの海とは全てが違う、冬の海。

白い花など咲きようもない、しん、と冷えて昏い海。

何もかもが寒くて凍える、深い深い冬の海底。


目の前のタケダをにらみながら、私の目は今、冬の海底に半分埋まったグミを見つめている。


グミと一緒に溺れて埋もれてしまえばいい。私も、私の気持ちも、何もかも。

そんなことを思っている私の目は、今、あの月明かりよりも白く煌々と光っているはずだ。

きっと、きっと、そうだ。そうに違いない。

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