残炎 ~スケッチブック~
海に行ってから何日もしないで二学期が始まった。
二学期になったとはいえ、まだまだ暑い。暑くて制服を着るだけでうんざりする。
うんざりしながらも放課後、毎日のように部活に行き、絵を描く。
海で撮ったふたりの写真を元にした絵だ。思い通りにいかなくて苦戦している。
はじめは鉛筆だけで仕上げようと考えて、写真を見ながらスケッチブックに何枚も何枚も描いた。でも、全然しっくりこない。構図が悪いのかと思って、縦にしたり横にしたり、寄ってみたり引いてみたり、色々と試してみた。どれもが今ひとつどころか今ふたつ以上で、気に入らなくて全部破って捨てた。
困った。でも、描きたい。記憶が薄れる前に形にしたい。
仕方なく、次にクレパスを手にした。グミみたいにポップな色を何度も何度も塗り重ねてみる。画面が弾むように明るく賑やかになって、それはそれで楽しい絵に仕上がったけれど、ふたりの絵にはならなかった。
そうなると、あとは油か水彩か。
油絵の具を使う気にはならなかったから、水彩絵の具をパレットの上に何色も並べた。水をたっぷり含ませた絵筆で絵の具を取り、そのままの勢いで紙の上に伸ばしていく。滲んだ淡い色が、あの日拾ったシーグラスに似ている、そう思った。
シーグラスは結局、ルカが全部、持ち帰った。
「ええ? 独り占めしちゃうの?」
ミフユが悲しそうな声をあげた。
「そ。いいでしょ? ダメ?」
ああ。上目遣いでそんな顔されたら、どんな男の子だってイチコロだろう。男の子じゃないけど、女の子だけれど、私だってイチコロだった。
ミフユが黙って両手を上げた。
私もミフユに倣う。
声もなくルカが笑った。
「だけどせっかくだから、記念にひとつずつはあげるよ?」
って、めちゃくちゃ上から発言されたって、それでも私たちは怒る気にも、文句をつける気にすらなれない。
ミフユは神妙な顔をしてじっくりゆっくりと吟味してから、すべすべとした楕円に近い形の濃い緑色のを選んだ。そうっと大切そうにつまむと、
「どこに入れておこう?」
財布やらかばんのポケットやら定期入れやらあちこち開けたり叩いたりまさぐったりした挙げ句、ポケットタオルで丁寧に包んでかばんの内ポケットにしまっていた。
私は薄い青にした。細長くて、勾玉に似た形。リップやハンドクリームが入ったポーチの中に一緒に入れた。
残りのたくさんのシーグラスを、ルカは持ってきたタオルを広げてその上に乗せ、きっちりと折って四角に畳み、ビニール袋に収めた。
そう言えば昔、シーグラスで作ったフロアランプを見たことがあったっけ、と思い出す。
「そんなにたくさんあるなら、何か作るとか?」
「ううん。別に」
けろりとした顔のルカ。
「こういうのは持ってるだけで嬉しくない? ほら、おはじきとか、ビー玉とか」
たしかにそういうのって何に使うわけでもないのにずっと持っているし、使わないからといって捨てる気にもなれない。
「多分、窓の下とかに並べて飾っておくだけだと思う」
でもさ、それでよくない? 海がいつでも近くにあるみたいで。
ルカのその言葉にミフユが黙って頷いた。
流木は元々、全部、私が拾ってきたものだったから、そのまま持ち帰った。あのいちばん小さいのをミフユが物欲しげに見ていたけれど、気付かないふりをした。
貝は順番に3人で仲良く分けた。
それから、ウニ。
「え? これがウニ、なんですか?」
私が「ウニ、要る?」と聞いたら、ミフユが素っ頓狂な声を上げて尋ねたのだった。
「だって、小さい頃、父親だか誰だかに言われたんだもの、『これはウニだよ』って」
そう言って私がつまんでいるのは、真ん中に穴が開いたドーナツ状の貝みたいなヤツ。
「ウニ、って、あの高級食材、の?」
「知らないよ、そんなこと」
知りたければスマホででも自分で調べてよ、としらばっくれて、ルカがシートの上に横に並べて置いていたウニを、縦に積み重ね直す。
「そういう風に置くと、だるま落としみたいだね」
ルカが感心したように目を丸くする。
「ふたりとも特に要らないなら、これ全部、私にちょうだい?」
積み上がったウニの塔を前に、私はふたりに向かって強気に出た。
「いいよ、別に」
ルカは目を丸くしたまま頷き、ミフユも
「分かりました」
気圧されたように同意した。
レジャーシートの上に広げて置かれていた戦利品が、それぞれのかばんの中に全て消えた後、ルカが感慨深げに言った。
「こうやって分けると、ミフユがお土産、いちばん少ないねえ」
「その代わり、この中にたくさんお土産をもらったから」
ミフユはそう言って、胸を両手でそっと押さえた。
天使のようにかわいらしいその仕草を見たルカも私も、揃って真似をした。
お土産を落として帰りたくなくて、私たちはそのままの格好で海を後にした。
水彩絵の具が乾くまでの間、軽く目を閉じていたら、海での記憶が脳裏に淡くよみがえっていた。
気付くと目の前にタケダが立っていた。同じクラスのタケダは美術部ではなく、たしか男子ハンド部、放課後ここにいるはずのない人間だった。
「何、ボケた顔、しやがって」
立って見下ろしているにやけた顔と言い草があんまり不愉快だった。そんなやつは黙って無視するに限る。分かっているはずなのについ余計な言葉が口から滑り出てしまった。
「何の用?」
「授業で忘れ物してたっぽくて、探しに」
「だったらさっさと探して出ていって」
ここにいる理由が分かったから、もうこれ以上しゃべる必要もない。そう思って口を閉じる。それなのにタケダはなおもしゃべりかけてくる。
「それが見つからないから、どっか他の机の中にでもないかと思ってさ」
「あるわけないでしょ」
なんでこんな時に限って誰もいないんだろう。早く誰か来てよ、と心の中で祈る。
「ところでさあ、おまえ、おんなが好きなやつ?」
何を言われたのかピンとこなかった。それでも珍しく頭の中のセンサーが働いて、これはヤバいやつだ黙ってた方がいいやつだ、と黄色く点滅を繰り返している。
「ただの友達にしちゃ、桐山とやけにアヤシイ感じがするんだけど? それとも何か他のもんでも狙ってるとか?」
どっちにしろヤバくない?おまえ。そう言って笑う顔がひどく下品に見えたから、とっさに目を逸らせた。言葉に至っては、少ししてようやくその意味が理解できた時に、身体がぶるぶると震えだす始末だった。私のその姿をどう思って見ているのか知らないが、タケダはいまだ私の前から動こうとはしない。
「出ていって」
自分の声とは思えないような低い声だった。
「邪魔だから、出ていって」
「出ていかないのなら、私が出ていく」
続けざまに言って、椅子から立ち上がった。ほとんど乾いているように見えたから、スケッチブックを閉じて脇に抱える。そのまま戸口へと大股で向かう。
「ちょっと待てよ」
後ろから肩を掴まれた。ざざざと悪寒が走る。掴まれた肩の上の手を払おうと、スケッチブックを抱えていない側の手を肩の上に伸ばしたら、その手も握られた。
「やめて。何するの!」
口から言葉と悲鳴が洩れる。
「離してよ!」
振り払おうとしても離れない。脇のスケッチブックがどさりと下に落ちる。
あ、折れないで、頼むから見えないで、
スケッチブックを拾いたくても拾えない自分の体を、拘束から引き千切ろうと勢いをつけて向きを変えようとしたその時、
「何、やってるんですか?」
おっとりとした声が響いた。
ふり向かなくても分かる。ミフユだった。
その瞬間、肩と手が自由になった。
体の力が急に抜ける。スケッチブックの上に崩れ落ちそうになるのを何とか堪え、その横に手をつく。
「何でもねえよ、ただの捜し物だ」
「そうですか。じゃ、ちょっと用があるんで、彼女、連れていきますね?」
私の横にひざまずき、床についていた私の手をそっと取ると、ミフユは耳元で「もう大丈夫ですよ?」と囁いて、抱え込むようにして私の体を起こした。
そのわずかな間に、タケダの姿は消えていた。
「……ありがとう」
そのまま目の前の椅子に座らせられた。ミフユは黙って床に落ちていたスケッチブックを拾うと、机の上に丁寧に置いて「何か飲み物、持ってますか?」と私に尋ねた。
私は黙って首を振る。
「何か買ってきますね?」
出ていこうとするミフユのシャツの裾をとっさに掴んでいた。
「……いかないで」
ミフユの動きがぴたりと止まる。
「まだ、怖い。戻ってきたら」自分で言って、自分の言葉に身震いする。
「大丈夫、戻ってなんて来やしませんって。それよりイヤだったらすぐに帰る手もありますけど、どうします?」
「その方がいい」
震える体に活を入れるようにして立ち上がる。
「荷物は?」
「あそこにあるだけ」
奥のロッカーの上に置いていたリュックを目で指す。
ミフユがリュックを取っている間に、スケッチブックを美術準備室の棚にしまいに行く。戻ってくると、リュックを肩にかけたミフユが眉間にシワを寄せて窓の外を見ていた。私の気配に気付くと、すぐに柔らかい笑顔を浮かべて、
「じゃ、行きましょうか」
西に傾く太陽のように、その言葉と笑顔がいまだ震える私の心をオレンジ色に暖める。
階段を並んで降りながら、ミフユが言った。
「ルカが急に『3人でお茶でも飲んで帰ろう』って言い出して、ぼくにナツさんを迎えに行け、って言ったんです。相変わらずわがままなんだからなあ、って思ってたんですけど、今日のは褒めてあげないといけないかなあ。なんかちょっと悔しいけど」
あのひと結構、タイミングいいんですよね。ミフユの声はとても穏やかで、聞いているだけで落ち着く。
「ルカは私にとっていつもタイミングがいいよ。今までだって何度も助けられてる」
「そうなんですか? ぼくからすると、ルカの方がナツさんによく助けられてるように思いますけど」
意外な言葉に顔を上げた。驚いたことにミフユは真面目な顔をしていた。
「そう言えば、前から聞きたかったんだよね、私」
何か変な勢いでもって、ずっと聞きたかったことをこの際だからと口にする。
「ふたりはどうして知り合ったの?」
同じクラスになった私と友達になるより先に、入学してまだ間もなかった年下の男の子と知り合って付き合っていたのが、ずっと不思議でならなかった。だけどもなぜかそのことを尋ねるのが躊躇われていた。
「ぼくが彼女に捕まえられたんですよ」
それはそれは嬉しそうにミフユが笑った。
「嘘だと思うんだったら、この後、彼女に聞いてみてくださいよ。ルカが何てナツさんに説明するか、ぼく、楽しみだなあ」
まさに喜色満面、こんな顔のミフユを見るのは初めてで、私はあっけに取られた。
反対に、ルカはふてくされてしまった。
ミフユにしたのと同じ質問をしただけなのに。そしてミフユが言った言葉をちらっと伝えただけなのに。
「よく言うよ。ミフユが私のこと、散々口説いてきたんだよ? そりゃあ、もう、熱烈にアプローチされたんだからね?」
それこそミフユに食ってかかりそうな勢いだったから、私のほうがおろおろしてしまう。
「ごめん、余計なこと聞いちゃったみたいだね?」
慌てて謝ったけれど、ルカとミフユの間に微妙な空気が流れ始めるのを止めるには至らなかった。仕方なく、話題を変えようと
「来月の修学旅行、お土産、何がいいかな? 欲しい物があったら買ってくるけど」
さり気なくミフユに聞いてみた。
これがさらにまずかったらしい。完全にふたりして黙り込んでしまった。
だんまり比べみたいになってしまったショッピングモールのイートインのテーブル。いたたまれなくて、「お水、お代わりしてくるね?」と言って席を立った。
少し離れたスペースでコップに水を注いでいて、そこでようやく気が付いた。今までふたりがケンカらしいことをしてるのを一度も見たことがなかったことに。それくらいふたりはいつも仲良しで、私はそれを当然のことと思っていたのだった。
そのことに気付いてしまったら、ああ、ふたりもケンカなんてするんだと、当たり前すぎるそのことがなんだか逆に微笑ましくなってしまって、思わず笑みがこぼれてしまう。なみなみと水を注いだコップを3つ、トレーに乗せて戻ったら、ふたりは何やら険しい顔をして小声でやり取りしていた。
「はい、どうぞ。水でも飲んで、頭、冷やしてよ」
わざと大きめの声でそう言って、ふたりの前にコップを置く。ふたりがびっくりしたように目を丸くして私のことを見上げたから、余計に可笑しくなってしまう。
笑いながら座って言った。
「けんかするならゆっくり聞かせてもらうから、はい、遠慮なく」
私の言葉に顔を見合わせたふたりが、急に顔を崩した。
「何、それ」
「けんかなんてしてませんって」
「仮にしてても、ナツにそんなふうに言われたら出来っこないし」
「でも、ほんとにけんかなんてしてませんからね? ぼくたち」
にやにやしながらふたりして、ねー? なんて調子で言い交わすのを聞いていたら、ふいに目の付け根から鼻の先まで一気にきーんとしてきて、あ、と思う間もなく涙がこぼれてきて止まらない。
それを見たルカが呆然とした。それでもすぐに「バカ」と言いながらトレーの上の紙ナプキンを私の手に握らせる。紙ナプキンを握ったまま、私は静かに静かに涙をこぼし続ける。
ルカはさらにリュックからなぜかイチゴ味のキャンディを出してきて、私の前に置く。ミフユはミフユで、ポケットタオルを取り出すとルカの置いたキャンディの横にそっと並べる。
あんなやつ。
あんなやつに、私の、私たちのことなど、何が分かるものか。
とめどなく流れる涙を拭いもせず、私はふたりに笑顔を作ってみせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます