盛夏 ~グミもしくはジェリービーンズ、そしてシーグラス~
私たち3人はそれからしょっちゅうお昼ごはんを共にし、何回かはマクドナルドでテスト勉強もした。時には3人で駅ビルに寄り道しながら帰り、アイスだってお弁当の後、学食に行って3人で食べた。
そうして迎えた夏休み。
3人とも部活で忙しかった。
ミフユには毎日のようにバンド練習があったし、文芸部のルカは秋口に締め切りがある脚本コンクールに応募するんだと言って図書館によく通っていた。私は私で美術部の合宿があり、部活の合間を縫ってデッサンの予備校にもお試し参加をしていた。
それでも「一日くらい、3人で遊びに行こうよ」ってルカが言い出したから、もうすぐ夏休みも終わる、まだ暑いけれどそれでも少しばかり季節が変わりかけているような感触がどこかに感じられるそんな8月の平日、朝から3人で海に行った。
本当のことを言えば行きたくなどなかった。
ふたりで行けばいいのに、って思ってた。もしくは私とルカのふたりで行くか。だって、学校でもないのにわざわざ3人で行くなら、私はただのおじゃま虫だ。
ルカとミフユのふたりならデートで、ルカと私とだったら友達とのお出かけ、でも3人だったらなんと名付ければ良いのだろう。私には分からない。
言葉に詰まった私の顔を見て、「ナツさんは考え過ぎる」とミフユが笑った。
「何がいけないんですか?」
「いけないってことはないんだろうけど、」
「じゃあ、いいじゃないですか。それともぼくは邪魔ですか?」
ぎくり、とした。それを隠すように、わざとらしくしかめっ面をしてみせる。
「ルカとふたりで行きたいなら、それはそれで誘うよ。別にミフユに遠慮することでもないし。だからミフユだって私になんて気を遣わなくっていいんだ」
「気なんて遣ってませんって。それこそぼくだってふたりで出かけたい時はそうしてます。だけど今回は3人で出かけたいって思ったし、そもそもルカがそうしたいって言い出したんだし」
ね? と問いかけるようにミフユはルカを見やる。その柔らかい眼差しをルカは当然のように受け止めてから、私に向き合った。
「本当はね、イルカの耳の骨が拾えるって言われてる海岸に行きたいんだ。だけどそこは日帰りで行くには少しばかし遠いところでね。仕方ない、その海岸に行くのは今は宿題にしておいて、代わりにビーチコーミングをしにもう少し手近な海に行こうと思って。3人で行ったら、きっと色んなものがたくさん拾えるんじゃないかと思うんだけどな」
「何、それ。ふたりで行くよりたくさん拾えるから3人で行きたい、って意味?」
「そう」
悪びれることもなく言い切るルカに、私は笑いだしたくなるくらい救われた。
「いいよ。そういうことなら、喜んで」
「じゃあ、とびきり大きいリュックで行こう」
ルカの目が真夏の海みたいにギラリと光る。
「やだよ、この暑いのにリュックなんて。背中に汗かくじゃない」
「そうか。そうだね。じゃあ、なんでもいいけど、大きいかばんで」
「分かった。お昼は?」
「まだそこまで考えてない」
「だったら任せるから計画はふたりで立ててよ。今は日にちだけ決めといて、あとは連絡してくれれば合わせるから」
「分かりました」
ミフユが嬉しそうに頷く。なんで嬉しそうなんだよ、と私は心の中で悪態をつく。
結局お昼はいきあたりばったり、どこか良さげなお店があれば入るし何もなければコンビニでおにぎりでも買おう、そんな雑な話のまま、朝、割と早い時間にターミナル駅の下り線ホームで待ち合わせした。
一応、夏休み中だけれど、土用も過ぎればクラゲが出るとかで海水浴客は減るんだそうだ。そもそも海なんて行ったのはどれくらい前のことだったか、てんで記憶にない。とにかく、思ったより下り線に乗るひとは少なくて、3人落ち合うのにも苦労はしなかった。
電車の中はひんやりを通り越して寒いくらい冷房が効いていた。「寒いね、結構」なんて言いながら、それでもルカがはしゃいでいる。珍しい。3人でいると、教室の中よりも少しテンション低くなるのがふつうなのに。それともあれはいつも意識してそう振る舞っていたのだろうか。
かばんの中から日除けにと思って持ってきた薄手のパーカーを取り出して、「着る?」と差し出した。
「ううん。大丈夫、私も持ってきた」
ルカはそう言って、大判のタオルを取り出して肩にかけてみせた。
「なんかそれ、泳ぎに行くひとみたいだ」
ミフユが楽しげに笑う。ルカもつられたように笑った。笑ったままミフユを見上げて問いかける。
「水着、持ってくればよかった?」
「え? 今更それ言う?」
「だけど泳ぐなら荷物ももっと増えるし、疲れるし、疲れたら拾う気なくなりそうだし。やっぱりないよね」
「っていうか、ふたりが水着持ってきて着てたら、ぼくだけ得してた」
「よく言うよ」
ふたりの軽口を聞きながら、今日のルカは小学生の遠足みたいな顔して笑ってる、とぼんやりと思ったところでミフユが「ほら、」と窓の外を指差した。
海だった。
低い山並みの向こうに、銀色に光る海が遠く見渡せた。
海の上には白く霞んだ空がだだっ広く広がっている。
3人とも口をつぐみ、そのまま窓の外を眺めた。
電車は気持ちよく走り続ける。かたたん、かたたん。たたたん、たたたん。
どれくらいのスピードが出ているのだろう、揺れからするにかなり速いように思われるのに、景色はあんまり変わらない。
海と空がぺったりと横に長く伸びて続いていき、どこまで行っても景色に切れ目が見つからなかった。
ホームに降り立つと潮の匂いがした。
風がべたべたとまとわりつくようだ。うっとうしい。
「あっちかな」
スマホでミフユが道順を確認している。
「大丈夫だよ、どっちに行ってもきっと海だから」
ルカはご機嫌だった。
「全ての道は海に通ず」なんて言って、鼻歌交じりにかばんを振り回している。
ああ、本当に、遠足に来た小学生みたいだ。
こんなルカを見たことがなくて、私の心がしんとする。ミフユだけがいつもと変わらないように見える。
歩きながら3人でしりとりをした。
「うみ」
「ミルク」
「くま」
「まくら」
「ラッパ」
「パイナップル」
「パイナップル」と言ったミフユを、ルカが「あ、」と言いながら指差して、その次に自分を指した。
「……、ルカ」
「ああ。ほんとだ」
たったそれだけの言葉で、ふたりはさも幸せそうに顔を見合わせて笑った。
私の胸がぎりりときつく鳴った。
仕方なく、ねじをぎりりと巻くようにして空を見上げながら、
「かい」
と口にした。
「そうだね、貝も拾おう」
即座にルカがはしゃいだ声を上げる。
「え? 貝でなければ何を拾うつもりだったの?」
ミフユが不思議そうな顔をした。
「イルカの耳の骨はないんでしょう? ぼく、海って言ったら貝くらいしか思いつかないんだけど」
「あらあら、このお坊ちゃまは、海に行ったことがないんですか?」
ルカは歌うようにからかう。
「海で拾えるのは貝だけじゃないでしょう? 流木もあれば、石もある。シーグラスだって」
「シーグラス?」
「そう。知らないの?」
「うん。知らない。何、それ」
「うわ。本当に海、行ったことあるわけ?」
「……実はあんまり」
「まあ、なんて珍しい」
とうとうルカが声を出して笑い始めた。
「そんな。笑うほどのことじゃあ」
そう言って、ミフユが助けを求めるような目を私に向けた。
「まあね、イマドキあんまり海って行かないよね」
仕方なく言った私の言葉にミフユはホッとしたように頷くと、
「ほら、ナツさんが言うんだから、いいんだって」
とそこまで言ってから、あ、と珍しく大きい声を出した。
「何?」
ルカが怪訝そうにミフユを見る。
「だって、ナツさんの”ナツ”ってそう言えば春夏秋冬の夏だったかなあ、って今頃になって聞いてなかったことに気が付いて」
申し訳無さそうな顔をしたミフユを見たら、もっとそんな顔をさせたくなってしまったのは、一体どういう風の吹き回しだったのか。自分でも分からないまま、言葉に皮肉を込める。
「わ。それはヒドい。これだけ一緒にいて、知らないだなんてあり得なくない?」
「うん。ヒドい。さすがに私もびっくり」
まさかルカが乗ってくるとは思ってなかった。ふたりで「ねー?」と顔を見合わせて頭上の太陽に負けじと大口開けて笑う。
「ああ、しまった。言わなきゃよかった」
ミフユが背の高い体を小さくすくめている。ああ、もう、何か止まらない。止められない。
「罰として、荷物持ちね? それとアイスも奢りで!」
乱暴に言い捨てると、かばんをミフユめがけて放り投げ、私はそのまま勢いよく走り出す。
「あ、ちょっと待って!」
後ろでルカの声がする。だけども振り向かない。立ち止まらない。この道の先には海があるのだから、ただ真っ直ぐに走ればいいのだ。頭上の太陽が私の背中を眩しく後押しする。海風も誘うように私に向かって吹きつけてくる。何も考えず、海を目指して私はただ走った。
砂浜の人影は思っていたより多くなかった。拍子抜けするくらいだった。
走りやめて、立ち止まってぼけっと眺めていたら、しばらくしてから息を荒げたルカが横に並んだ。ひざに手を当てて中腰になっている。
「……早い」
「そう? そうかな」
走るのは昔から嫌いじゃあなかった。今でもたまにだけれど、走ることがある。
「……ズルい」
何が、と尋ねかけて、やめた。
私の方こそ「ズルい」と言いたかった。
でも、言わずにそのまま黙っていた。ルカもそれ以上、何も言わなかった。しばらく横で早い息が聞こえていた。そのうち少しずつ静かになっていって、何も聞こえなくなる頃、ようやくミフユが追いついた。
「わぁ、本当に、海だ」
小さい子どもみたいに無邪気な声だった。
声につられて、思わずその顔を見上げる。ぽかんと口を開けたミフユの顔は、見事なまでに空っぽに見えた。
その横で、ルカもよく似たような顔をして海を眺めていた。
並んだふたりの顔を見ていたら、どうしてだか急に鼻の奥がじん、としてきたから、慌てて屈んで足元の砂を手に取った。真夏の日差しを浴びていた砂は、手にするとじんわりとした熱を帯びていて、何かの代わりみたいにじわりと沁みる。
手にした砂を目の前に放った。ぱらりと散る砂。風はほとんどない。そのまま波打ち際までまっすぐに歩いていく。足元でじゃくじゃくと砂が鳴く。私の代わりに砂が鳴いているようにも聞こえる。
屈んで見るまでもなく、砂浜には思っていた以上に色んなものが落ちていた。気になるものが見つかる度に、前屈みになって拾う。拾ったものは始めこそ手で持っていたけれど、すぐに持ちきれなくなって、ビニール袋にぽいぽいと放り込んでいくようになった。
あまりに熱中したせいで、気付けばずっと無言だった。私だけではなく、ルカも、ミフユも。それぞれが思い思いに足を伸ばして黙々と拾っていくから、ふと顔を上げた時にはずいぶんと離れ離れになっていた。それでもルカとミフユのふたりはそれとなく近くにいて、時に何か声をかけ合っているように見える。
太陽がゆっくりゆっくりと真上に差しかかろうとしていた。眩しくて、手でひさしのようにして光を遮る。ふたりの姿が陽炎のように淡く揺れてにじむ。
きれいだ。なんてきれいなんだ。
背の高いミフユをルカが見上げながら、何かを差し出している。ミフユが俯いて、それを見ている。ふたりの後ろには、海。足元には砂浜。波音しか聞こえてこない。
ああ、絵に描きたい。
そう思ったのに、なんで今日に限ってスケッチブックを持っていないのだろう。自分で自分に腹が立った。仕方ない。帰ってから描こう。そう思って、スマホを取り出して写真を撮る。写真はしかし、目に映る景色と同じとはいかないのだ。どれだけ丁寧に撮っても一番大切な何かはそこには写っていない気がする。それが悔しくて、何枚も何枚もボタンを押して撮るけれど、この目に映るふたりの姿とはずいぶんとかけ離れているように思えて、悔しくてつい歯噛みする。
ルカが顔をこちらに向けた。
ついで、手を上げて、大きく振りだした。どうやらこっちに来い、と言っているようだった。スマホをビニール袋に突っ込むと、そのままふたりに向かって歩き出した。
砂浜の奥にテトラポットが積み上げられた一角があって、その前にルカがレジャーシートを広げた。かなり大きいレジャーシートで、3人で寝転がれるくらいのサイズがある。
「よくこんな大きいの持ってたね」
感心して言うと、
「まあね、運動会とかで親が持ってきてたヤツだよコレ」
言われてみれば、うちにもそういうのがあったかもしれない。でも思い出しもしなかった。
「今ではこういうの、全然使わないもんね」
「そう。だから探すのに少し手間取った」
カビてなくてよかったよ、なんて茶化しながら、シートの上にルカが腰を下ろす。その横で、ミフユが荷物を重し代わりに四隅に置いてから、靴を脱いでシートの上に仰向けに寝転がった。
「あー、重かった」
「ウソだあ。そんなに荷物入れてた覚えはないよ?」
ミフユの言葉に慌てて自分の荷物を持ち上げてみる。やっぱり、重くはない、そう思う。
「そうは言っても3人分ですからね?」
「え? ルカも持たせたの?」
「当たり前でしょ。私の荷物を持たないでどうするのよ?」
「ほら、ね?」
ため息まじりのミフユの言葉に、ルカがくすくす笑う。
「笑い事じゃないんだって。少しは労ってほしいんだけどな」
「んー。しょうがないなあ。じゃあ、ちょっと待ってよ」
言うなりルカが大きなかばんの中に手を突っ込んでがさこそかき回し始める。何かと思って見ていると、明るい色のパッケージの袋を中から取り出した。パッケージに書かれた文字はローマ字のように見える。
「なあに、それ」
「グミ。好きなんだ私」
話しながらルカが袋の上部を両手で持って左右に引っ張っている。と、力が強すぎたのか、口が開くと同時に、中身がばばばっと勢いよく飛び出してしまった。
「あー!!」
跳ねた中身がぱらぱらといくつか砂の上にも散る。
赤、青、黄、オレンジ、緑、白、茶。
宝石箱からこぼれ出たような鮮やかな色。白っちゃけた砂の上に咲く、色とりどりの小さい花々。
「うわ、もったいない」
ミフユが慌てて拾い集める。
「いいよ、それくらい」
ルカの言葉にもミフユは手を止めない。
「大丈夫。こんなの、ふっ、て息吹きかければ、ぼくは全然OKだから」
「私も気にならないな」
そう言って、砂の上のグミに私も手を伸ばす。
「これ、輸入物なの?」
「ん。そうだね、そうみたい」
ルカは自分の手元の袋にちらっと視線を落とした。
「自分で買ってきたんじゃないの?」
「そうだけど。でも、そんなこと気にして買ったわけじゃないから」
「ずいぶんといい加減なんだねえ」
ミフユが呆れたように言った。
「いいでしょ、美味しければ」
ルカはふくれっ面をすると、袋の中に手を突っ込んで一粒つまみ、ミフユの口へと押し込んだ。
む、とミフユが唸りながら口を動かす。
「甘い」
「それだけ?」
「ん、美味しいよ?」
笑い返すミフユに、ルカはいよいよふくれる。
「おごちそうさま」
バカバカしくなって、わざとらしく言ってやったら、ルカが私の口にも一粒、押し込んできた。それはちっとも甘くなんてなかった。いや、はっきり言って、酸っぱかった。
多分、黄色のレモン味だったんだろう。
そう自分に言い聞かせる。
グミとお茶とでおやつ休憩をとりながら、各々の戦利品を並べた。
3人の拾い集めたものでシートの上が賑やかに埋まる。
貝は、桜色のもの、渦巻き状、平べったいの、耳に当てるのに良さそうな形、とんがった角みたいなのと様々だ。
流木は全部、私が拾ったもの。大きいのは杖にも使えそうなくらい長い。小さいのは手のひらにすっぽりと収まる。
「これ、何に使うつもりですか?」
ミフユが面白そうに小さいのを手の上に乗せて、ためつすがめつ眺めている。
「何、って言われると困るけど。特にあてもなく」
「そうですよね。でも、置いておくだけでも面白いですね」
よっぽど気に入ったのか、手の上に乗せたままだ。
ルカはルカでシーグラスを並べるのに夢中になっている。
ブルー、白。この2色がほとんどだったが、わずかながら茶色、緑、濃紺もある。
シーグラスを並べ終えると、その横に今度はグミの残りまで並べている。
「食べ物で遊んじゃダメでしょう?」
ミフユが笑いながらたしなめる。
「いいでしょ、だって似てるんだもん」
「似てますかね?」
ミフユがそう言って、私を見た。
私はシートの上に行儀よく並べられたシーグラスとグミとをぼんやり見比べる。
「まあね、似ているといえば似てなくもない、かなあ」
波に洗われたシーグラスは柔らかい優しい色をしている。それに比べるとグミは嘘くさいぐらい鮮やかだった。
「ミフユはシーグラスが何で出来ているのか知ってる?」
並んだグミを一粒つまんで、手のひらに乗せながら私は尋ねた。
「いえ、知らないです」
恥ずかしそうに目を伏せるミフユを私はかわいいと思う。
「ガラス瓶だよ。青いのはラムネとかなのかなあ。白は元々は透明の瓶のはず。茶色はビール瓶かなんかだよね、きっと。他の色はよく分かんない」
手のひらのグミはオレンジ色だった。口の中に放り込んでから、今度はシーグラスをひとつ手にする。薄い水色。空に透けていきそうな儚い色。
「他にもオレンジとか赤とか紫なんかもあるらしいよ。見たことないけど」
手の中のシーグラスは、角が取れて小さく丸まっていた。
「元々はガラス瓶だったということは、はじめは割れてとがっていたんですよね、きっと」
「そう。今では機械でわざわざ作って売ってるシーグラスもあるんだって。そういうのはこんなに丸くなくって、もっとゴツゴツしてるみたいだよ?」
機械で作ってるなら、その時点でもうそれは”シーグラス”とは言えないんじゃないかと私は思う。思いながら手の中の丸い形を指でなぞる。
突然、ルカが言った。
「グミもさ、海にしばらく置いておいたら、こんな風に優しい色になったりしないかなあ」
その言葉のあまりのバカバカしさに、呆れるのを通り越して笑いがこぼれてしまった。
「ルカ。グミが何でできてるか知っててそれ言ってるわけ?」
「……ゼラチン」
「正解。だったら分かるでしょ?」
「分かってる。そんなこと分かってる。だけどね、でもね、冬の海だったらどうよ? 夏はダメでも寒くて冷たい冬の海ならば」
冬の海。波がもっと荒くて、高い。風が凍るように冷たい。ダウンコートを上から下までぴっちり閉めていてもずんずんと芯から冷えてくるような寒さ。そんな寒い冬の海の底で、グミが波に揉まれてくるくると回る。魚に小突かれる。沈没船や大きな岩のあちこちにぶつかる。転がって、ぶつかって、止まって、浮いて、沈んで、ゆっくりゆっくりと色が変わっていく。柔らかく、鈍く、くすんで、なじむ。
「いいかも、ね」
凍えそうな海底から浮き上がってきて、それだけ、言った。
「いいかも、です」
ミフユも、短く、言った。
「だったらね、もう一度。
もう一度、3人で冬、またここに来ようよ。グミを持って。グミを海の中に埋めに」
静かに静かにルカが言った。
夏の海にふさわしくない静かな言葉だった。
その瞬間、私たち3人が座るレジャーシートの上、太陽の光を浴びた色とりどりのグミが、今にも溶け出しそうに見えた。
原色の涙は見たくないな。
そう思って、一粒、グミを口に入れてから、誰に言うともなく低く呟いた。
「”ナツ”はね、『凪津』って書くんだ。
風がやみ、波が静かになる『凪』に、港、って意味の『津』」
流木で砂の上に『凪津』と大きく書いた。
砂の上に突然現れた文字をミフユがじっと見つめている。
ルカの目はさっきからずっとグミの上から動かない。
口の中がほのかに甘くなる。多分、グレープ味。
溶け出しそうな暑さの中、波の音だけが耳に静かに響いている。
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