第12話   魔女の夢

 魔女から授かった肉体を、一時的に脱いで寝台の上に置き去りにし、夢魔は実態のあやふやな霊体となって、魔女の寝室へと、ぶ厚い壁をすり抜けていった。


 はたして、魔女はぐっすり眠っていた。今宵は疲れたのだろう、少年が持ってきた冷たい水の入ったコップが、空っぽになって枕の下に突っ込まれている。


(あーあ、もう、だらしないですねぇ……)


 つい癖で、手を伸ばそうとしてしまった自分の、違和感に気付けた。慌てて、手を引っ込める。


 今の少年は、あの肉の器から解放された身。魔女の強い思い入れからも、彼女の大事な記憶からも、解放されている身――つまり、夢魔としての元々の少年に戻っていた。


 それでも、魔女と暮らした思い出が消えたわけではない。今でも敬愛し、学びたいと願っていた。


(ずっとこのまま、平穏でいられたら……でも、このままじゃ納得できないんだ。僕は師匠サマにとって、いったい誰の代役として大切にされているかを、知りたい……)


 魔女から知識だけを得るのが目当てならば、こんなに細かいこだわりは抱かなかっただろう。


 少年は、魔女の寝顔に苦笑した。


(ああ、僕にとっては、もう――師匠サマは、そういった存在なのですね)


 ますます、あの肉の器の元になった少年の正体が気になった。少年は魔女のお腹の上、ではなく、今回も記憶目当てなので、おでこからするすると中に入っていったのだった。



 魔女の記憶の中から、あの少年の顔を検索していくと、出てくるわ出てくるわで、夢魔は思わず外に飛び出しそうになった。


 ぐっと堪えて、記憶を遡る。


 魔女にとって、あの少年が一番強く影響を残した記憶、それを探り当てることに成功した。夢魔は魔女の記憶の、追体験を開始した。



 土砂降りの中、雷雨まで鳴り響く、荒れに荒れた夜空の下を、白いベールに包まれた少女が走っている。腰まで届く雑草を掻き分けて、その白い着衣が汚れるのも厭わず、沼の中へと入ってゆく。


 少し離れた背後から、聖女を探すよう指示を出している男たちの怒鳴り声がした。追っ手が、すぐそこまで来ている証拠だ。


 少女の手を引いて、先を導いている少年がいた。


「この先です。もうしばらくの、ご辛抱を」


 聖女を気遣い、振り向いたその顔は、あの少年のものだった。


(これは……師匠サマの記憶によりますと、騎士見習いの制服だそうです。なんだか、あんまり頑丈そうに見えないですねぇ……)


 夢魔は、聖女と見習い少年騎士の逃避行が、なぜ魔女の記憶の中にあるのだろうと、不思議に思った。


 聖女は大変怖がっており、視界が涙でぼやけていた。空いた片手で、何度も涙を拭っている。


 沼から上がって、足をもつれさせる聖女は再び少年に手を引かれ、走って森の中を逃げる。後から、けたたましい蹄の音が聞こえてきた。激しい剣技の音が鳴る。


 少年は目の前の雑草や木の枝を、模擬刀で払いながら、先導した。聖女を気遣い、何度も振り向いて声をかけていた。返り血のついた白い頬に、焦燥の浮いた険しい目がぎらつく。だけど、かける声は優しかった。


 追っ手の気配が気になり、聖女が振り向いた、そのずっと先では、火災に見舞われた建物が、空を明るく照らしていた。魔女の記憶によると、火矢を放たれ、燃え盛る神殿から彼女を救いだしたのは、この少年であった。


「聖女様、彼らです」


 少年が指差す先には、ランタンを片手にした隠者数人が、手招きしていた。


「彼らは信頼できます。聖女様、彼らと一緒に森の抜け穴をくぐり、国を脱出してください」


 少年は聖女の頭のベールを、引っ張って取った。


「これをお借りします」


 少年はぶかぶかのベールを頭に被って、隠者がいる方向とは別の方角へと走っていた。


 聖女は少年が何をしようとしているのかを、悟った。自分の身代わりに、追っ手を引きつけようとしているのだ。


「いたぞ!」

「あの白い布を被ってる女だ!」


 早速、見つかっている。否、わざと見つかるように、目立つ場所を走ったのかもしれない。


 思わず手を伸ばし、声を上げようとした聖女の細い腕を、隠者の一人が掴んで制した。


「聖女様、彼の犠牲を無駄にしてはいけません」


 非力な聖女は、ただただその節くれだった手に導かれ、木の根に覆われた足場の悪い暗いトンネルを走らされたのだった。


 焦燥は嗚咽と共に、強い悲しみに変わった。自分一人を逃すために、数多のともがらが犠牲になったことを、その胸に深く刻みつけた。刻みつけることしか、今はできない。その事実が、聖女を強い憎しみと自己嫌悪に染め上げていった。



「ただ、他の人より魔力が多かった。それだけしか取り柄のなかった私に、聖女なんて大役が、務まるわけがなかった」


「私に誰も守れるはずなんてなかった」


 そんな言い訳を繰り返すのは、もうやめにした。


 この日、弱い聖女はいなくなってしまった。国外にも脱しなかった。彼女は隠者達と共にこの森に留まり、彼らの秘術を学んでいった。


 全ては復讐のため。こんな自分を聖女と慕い、守ってくれようとした人々の、敵を打ちたかったから。


 そして、願わくば、あの少年ともう一度再会したかった。



 聖女の捜索は国外まで大きく広がり、膨大な人数がその首を取らんと、馬を走らせた。


 しかし、聖女は見つからなかった。隠者たちが巧妙に隠し抜いたからだ。聖女の捜索が打ち切られたのは、なんの因果か、少年と聖女が初めて出会った日であった。


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