第7話   仮初の器の呪縛

 授業が終わった教室で一人、教材の片付けを終えたインプの少年は、バケツに張った水と雑巾で、石材の床に描かれたクレヨン魔法陣を拭いていた。


 水でも落とせる素材のクレヨンを使ってくれたのは、もしかしたら自分のためなのかなどと自分でもうぬぼれているなぁと思いながら、残っていた線を、最後の一拭きで消し終えた。


 バケツの水がすごい色になっている。


「魔法陣か……」


 魔女はよく魔法陣を多用した。別の次元と自分の立っている世界をつなぎ、そこから欲しいモノや、起こしたい事象を選択し、自分の思い通りに事を進めた。


 夢の中でしか会えない自分も、こちらの世界に引っ張り寄せた。


「僕はまだ全然使いこなせないから、魔力のこもった武器を振り回すぐらいしか、できないけれど……いつか、いろんなことができるようになるといいなぁ」


 少年が夢の中で魔女に近づいた理由が、これだった。彼女の持つ知識が欲しかったのだ。


 それがまさか、受肉されて毎日授業を受ける身の上になろうとは、思いもしなかった。この状況は少年にとって、悪い話ではなかった。


 ただ一つだけ不満なのは、魔女の授業の進行速度が、とても遅いこと。非常にゆっくりと物事を教えるため、今日でちょうど一年目を迎えた共同生活も、まるでつい最近始めた間柄のようで、新鮮味が抜けず、一周年にも気がつかなかった。


「僕が習ってきたのは、小さな火の球を生み出すことぐらい。自分で応用して、炎の大きさを変えられるようになったけれども……」


 少年は黒い蝙蝠のような翼を羽ばたかせ、教室の窓から外を眺めた。


 澄み渡った青い空には、まばらに雲が浮かび、暖かな色の葉を付けた森が、どこまでも広がっている。


 その森の中を歩いているのは、魔女が薬で凶暴化させたと言っていた魔物たちだった。と言っても、木に実った果実を食べたり、適当に群れて日向ぼっこしてたりと、皆のびのびと好き勝手過ごしている。


「平和だなぁ……僕も早く、あの平和の一つになりたいな。それでどんどん勉強して、いつか強くなったら……」


 少年は、ふと、宙を仰いだ。


「強くなったら…僕はどうしたいのかな」


 以前の自分は、こんなにも真面目だっただろうかと、疑問に思った。


 夢魔は夢に現れる際に、その夢を見ている者の理想の姿となって登場する。性格や声も真似る。参考にしているのは、夢を見ている者の記憶だった。今までで一番印象に残っており、子孫を残したいと考えるまでに至った異性が、出やすい。


 たまに失敗して、「どちら様……?」とドン引きされたこともあったけれど、それは稀であった。


「僕は夢の中で、師匠サマの記憶の中の男の子を、真似したままこの世界に引っ張り込まれてしまいました。本当の僕は、きっとこんな感じではなかったのでしょう。少なくとも、貴女の弟子になるために夢の中へ現れたわけではありません」


 はたして以前の自分とは。


「この肉体を――この肉の器を、この肉の檻を捨てれば、思い出すことができるはず」


 だけど、この肉体がなければ、魔女は自分に魔法の数々を教えてくれないだろう。


「うーん、ここはしばらくの間、師弟ごっこに付き合うしかなさそうですね」


 窓の外で、箒で出かけようとしている魔女の後ろ姿が見えた。ハイヒールでとことこと歩いている。


 その彼女が振り向いて、城を仰ぎ見た。少年と目が合い、笑顔で片手を振る。


 少年も嬉しくなり、大きく両手を振った。


「けど、この感情も偽物です。だって僕と彼女との思い出なんて、この一年間ぐらいしかないんですから」


 彼女の記憶の中の少年は、大変な情熱家のようだった。彼女と、何年も強い絆で結ばれていたようだった。


 だが、この少年は偽物。この少年が魔女と絆を、何年も結んでいたわけではなかった。



 ……背後に、何者かの気配を感じた。先ほどまで誰もいなかった教室に、大勢がいる。少年は魔女からもらったばかりの鎌を、革のベルトで背中にくくり付けていた。まだ練習のレの字もしていないけれど、使うのは今かもしれないと、片手を背中に伸ばして、鎌を両手で構えた。


「誰ですか!」


 少年は振り向きざま、鎌を横薙ぎに払った。


 湾曲した刃が空を切り、背後に大勢立っていた黒いマントの集団に、切り傷一つ付けられなかった。


 絶句し、窓を背に追い詰められる少年。しかし彼らは、一歩も動かなかった。真っ黒な外套に全身をすっぽりと覆い隠し、黒いフードを軽めに被っている……のだが、その下には顔が無いようだった。フードをかぶっているのに、かぶられている頭も首も見えないのである。


 彼らは部屋中で、風もないのに、ゆらゆらと揺れる。


「小さき夢魔よ、その鎌で魔女を、どうしたい」


 若いのか歳をとっているのか、よくわからない男性の声だった。密集しすぎていて、どのフードがしゃべったのかもわからない。


「どうしたいって、守りたいと思っていますけど」


「その旨、大変よろしい。どうかくれぐれも、魔女に逆らってくれるなよ……」


 黒い外套の集団はクツクツと笑いながら、瞬く間に輪郭の境目を溶かしてゆき、やがて静かに消えていった。



「ただいまー」


 魔女はまる二日、帰ってこなかった。といっても、この世界は夜にならず、一日中穏やかな気候を保っているので、日時計がないと時間の経過を体感しづらい。


 この世界全てが、魔女と、その魔力による手作り。ある意味ではここも、魔女の夢の中のようなものだった。


「お帰りなさい、あの、師匠サマ、じつは――」


 少年はこの部屋で起きた怪現象を話そうとしたが、楽しげな魔女の勢いに飲まれてしまった。


「今日もまた材料が手に入ったの。あなたのその小さな肉体を、もう少し大きくしてあげるためのね」


「え? 確かに、僕の体はとても小さいですけど……」


「今ね、魔物たちにも手伝ってもらって、玄関に赤ちゃんの死体をいっぱい置いてもらってるの」


「なぜですか?」


「あの子たちは、路肩の娼婦が産み落とした子供たちなの。望まれない妊娠で宿ってしまった魂なのね。その魂も抜けちゃってて、肉体もしばらくすると腐ってしまうから、さっそく有効活用しましょう」


「僕を受肉させるための材料が、赤ちゃんなんですか?」


「そうよ。お肌が若くて、ぷにぷにだもの。貴方はそのままでは大きくならないから、もっと強く大きくなってもらわないと、私が心配なの」


「師匠サマ……」


 少年は、自分がいったい誰を素にして作られたのかを、聞きたく思ったが、魔女の苦しげな笑顔に、何も言えなくなってしまった。


(師匠サマは、誰かを再現しようとしているんだ。僕をその代わりにして、思い出の中の誰かを、蘇らそうとしてるんだ……)



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