2月17日
今日は良く歩いた。
多分明日は筋肉痛になるだろう。そもそも足が痛いまま歩いていたので歩き方が変になって痛めたのであろう部分がすでに筋肉痛に近い痛みを持っている。
人の悲鳴は健康にいいことがわかった。
最近かわいそうとかやばいとか思ったときに続けてだから面白いとか思うことが多いのでどこかの回路がバグってそうだなと思っていたが、少しバズっていたツイートを見て多分この回路がバグっている人は世の中に思っているより多いなと思った。
そういう人にとって人の悲鳴は楽しいものだろうと思う。まあそれが楽しいのはそういう人に限らないだろうが。
多分睡眠不足だ。用事が大概終わったと思ったらそのまま遊ぶ方で夜更かしをしている。大体そういう時に理性は役に立たない。
人間は本当に賢いのだろうか。そもそもその部分の管轄は理性ではないのかもしれない。本能だったらすぐに寝る方を選択するだろう。本能は生き残る方に向いているものだ。個が生き残ることと、種が生き残ること。
麻雀において運で生きていることがわかった。
そもそも運がいいのだろうと思っている。多分書いたと思うが。書いた記憶がなんとなくある。
楽しいこととは何か。どのような条件で楽しいと判断できるのか。
さようなら、さようなら。誰もこちらを見ません。
さようなら、さようなら。それでいいのです。
さようなら、さようなら。私は見えないので。
さようなら、さようなら。見えないものを見ようとする者はここにはいません。
人に影響を受けやすいことによる損とは、人の嫌いに影響されやすいことで平気だったものが苦手になるということ。場合によっては好きだったものが苦手になるということ。
それが苦手でなかったころのことを懐かしむ。そのころはもう戻ってこない。
なんのために生きるのか。誰のために生きるのか。
世界の認識は同じなのか。あなたが見ているものと私が見ているものは存在としては同じであっても脳内で再現されている世界は同じとは限らない。あなたが見ているものは脳が再現したものだ。私はそう認識している。誰もがそう認識しているわけではないと思っている。
私はそれが欲しかった。その感覚だけがある。それが何かもわからない。ただそれを欲しかった。どうして手に入らなかったのか。もしかしたら手に入ったのかもしれない。私はそれが欲しかったことだけを覚えているのだから。それ以外のことは覚えていないのだから。
首に刃物を突き立てて、そこに何が見えたのか。そこで何も見えなかったのであればその行為は無駄だったのだろう。
ザクザクと、ザクザクと動かしてみても見えるものは変わらないだろう。
あげない、あげない、あげない。これは私のものだ。せっかく見えたのにあげられるものか。あげない、あげないあげない。あげない。
私が私であることは私が考えていることだけで証明されているが、私が誰かはどうやって証明すればいいのか。身分証明書というものは私が何という名前かを確かめられる。本当に?
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