見えないところ

増田朋美

見えないところ

見えないところ

今日は寒い日だった。晴れているにも関わらず、なぜか寒い日が続くのだった。空は良く澄んだ青空なのに、風が冷たくて、青空と無関係な寒さだった。そういう時は、外へ出る事もなく、家の中で静かにしていることが多いはずなのであるが、由紀子は、今日も駅員の仕事がないので、水穂さんに会いに製鉄所に向かうのだ。由紀子は、今日もポンコツの車を走らせて、製鉄所に到着した。到着すると、玄関先に、一足の草履が置いてあった。誰か女性が来ているということだと思うんだが、この女性が誰なのか、由紀子はすぐにわかった。彼女の出現で、何か大事な所を邪魔されたような、由紀子はそんな気がしてしまうのであった。でも、そんなことは、口にしないで由紀子は製鉄所の中に入って、四畳半に行った。

四畳半に行くと、そこには予想した通り先客がいた。彼女と水穂さんが、向かい合って座って話しているのを見て、由紀子は、またいやな気持になった。その先客というのは、やはり浜島咲だった。

「ああ、由紀子さん。こんにちは。又来させてもらってるのよ。最近、着物の事で悩んでいることが多くて。右城君だったら、着物で生活していることも多いから、わかってくれるかなと思ったのよ。」

咲がなれなれしくそういうところを見て、由紀子は浜島さんという人は、どうしてもっと時と場を読み取ってくれないのだろうかと思う。由紀子は水穂さんを心配そうに見た。もう水穂さんは、疲れてしまっているような顔だ。其れなのに長話をしている浜島咲の顔を、由紀子はちょっと恨めしく見たが、とりあえず口には出さないでおいて、

「一体、今日のテーマは何ですか、浜島さんは。」

とだけ言った。咲は、そういう空気を読むということをしなかったようだ。それを、ただ、由紀子が、自分が水穂さんに何をしゃべったのか、聞いているだけだと思ってしまったらしい。

「ああ、今日ね、呉服屋というか、リサイクル着物ショップが出来たと聞いて出かけてきたのよ。もちろん、お箏教室に行くためよ。最近は、着物で来るお弟子さんが多いから、私だけ洋服というわけにもいかなくて。着付けの練習だって、ちゃんとやっているの。まあ、まだまだ下手だけどね。」

と、長らかに話し始めた。

「そうなんですね。着付けの本とか、そういうもので勉強しているんですか。」

水穂さんがそれに相槌を打つ。

「ええ。本は読んでもよくわからないのばっかり。仕方ないから、動画サイトで見て勉強してるわ。私には、映像のほうが、合っているのかなって最近思ってる。」

咲はさらに話をつづけた。

「そうですか。まあ誰でも、本を読んでもわかるというわけじゃないですよね。其れで、着物屋さんに行って、欲しいものは買えたんですか?」

水穂さんがそういうと、咲は、

「それがねえ。」

と大きなため息をつく。

「あたしは、お箏教室では定番と言われる色無地をくださいって言ったのよ。それはちゃんと着物の本にも書かれてたわ。苑子さんだって、楽器と喧嘩しないように、色無地の着用を義務付けているのにね。其れなのに、その店ときたら、あたしの事、若すぎて色無地はお売りできませんですって。あたしが、お箏教室で必要だと言ったのにね。変な顔して、色無地はお売りできないっていうのよ。」

「まあ確かに、そういう事もあるかもしれませんね。色無地と言えば、柄のまったくないきものですから、浜島さんくらいの年の人が、着用することはまれなケースですよ。其れに、浜島さんは、独身者ですし、そうなったら、色無地を着用する代わりに、振袖を着用するべきだと考えるのではないですか?」

水穂さんは、咲の話にそういうが、もう疲れている様子だった。

「まあそうなんだけどね。あたしが、お箏教室にどうしても着用したいっていうんだけど、聞いてくれないのよ。聞こうとしてくれなかったわ。全く、最近の着物屋はそういうことを、ちゃんとわきまえないのね。それでは、本当に欲しいものは手に入らないわ。まったく、安く着物を売ってくれるのはありがたいんだけど、もうちょっと着物について勉強してもらいたいものだわね。お箏教室の事とか、そういうことをまったく知らないのよ、きっと。」

「あきれるんだったら、いまはインターネットもあるし、そこの通販サイトで買ったらいかがですか?」

由紀子はいつまでもしゃべり続ける咲に、そういったのであるが、

「まあ、そういうでしょうけどね。インターネットの通販は、着物の寸法と素材がわからないから、あてにならないのよ。」

咲はそう返すのである。

「素材?」

と、由紀子は、すぐに聞き返す。

「そうよ。うちの教室では、化繊生地は使っちゃいけないことになってるの。正絹のほうが、着やすいからって。だけど、インターネットの通販では、正絹と標示されている着物なのに実際に届いたのは洗濯表示がついていたりして、全然違うじゃないって、憤慨したことが在るわ。だから、極力、使わないようにしてるのよ。」

咲はまた、弁舌をふるった。そんなことどうでもいいじゃないかと由紀子は思うのであるが、咲にとっては、大変重要なことでもあるらしい。邦楽をやっていると、そんな気にしないでいいことまで気にしなければならないのか。着物というものは好きなだけではいけないことは、由紀子も知っているけれど、どうやら伝統文化の世界に入っている人と、単なる着物が好きな人とでは、人種が違うのかと思われるほど、着物の選び方は違う。

「まあ確かに、そうですね。正絹は、着やすいでしょうね。僕は今着ている銘仙の着物しか知らないので、どういう着心地なのかはわかりませんが、たぶん、高級生地である以上、着やすいと思います。」

と、咲に応える水穂さんであったが、そんなことは、なるべくなら水穂さんにさせたくなかった。正絹を入手できない水穂さんに、それは言ってはいけないことのような気がする。

「そうでしょう。色無地に向いているんだったら、一番いいのは綸子よね。あのクリスタルみたいにキラキラ光っている生地は、絶対礼装に向いていると思うわ。だから、お稽古の時も格の高い生地が一番いいわ。」

浜島さんそんなことを言わないでください、と由紀子は口に出して言いたかったが、それは水穂さんのごめんなさいという言葉で消されてしまった。というのは、水穂さんがせき込み始めてしまったからで。同時に、赤い液体が口元から漏れて、畳を汚した。由紀子は急いで、

「水穂さん、これ飲んで、早く。」

と、水穂さんの口元へ吸い飲みを持っていく。どうにか中身を飲み干してくれて、やっとほっとした。「ほら、もう横になって。しばらく眠って頂戴。」

由紀子は、そういって、水穂さんを布団の上に寝かせて、かけ布団をかけてやるのだった。そして、一寸あきれた顔をしている咲を、ぎろっとした目でにらみつけた。

「ああ、ごめんなさい。右城君に悪いことする気はなかったのよ。ただ、色無地が欲しいのに変えなかったから、そのもやもやを晴らしたかっただけなの。其れだけよ。ほんとにそれだけなのよ。」

咲はそういっているが、由紀子は自分がもうちょっと口がうまかったら、もうこんな長話はしないでください、と咲に言いたかった。其れでも、自分より年上の咲にそういうことはできないし、空気を壊してしまうのも、いけないだろうなと思ってしまって、それは言えなかった。

「右城君たら、もうちょっと、前むきになった方が良いわよ。右城君は、確かに銘仙ばかりの身分だったかもしれないけど、同和問題について、いま言及する人はほとんどいないわよ。其れに、同和問題なんて、口にしなきゃ、わからないことじゃないの。だから、銘仙の着物を着ないで生活したって、ばれやしないわ。だから、別の着物着て、身分を隠しても全然ばれることはないと思うわよ。」

と、咲はそういうことを言っている。まあ確かに、咲のいうことも間違ってはいない。別に身体的に違うというわけでもないし、見かけ上の事で違うということはまずない。それに、この地方では、同和地区の人を、ひどく差別的に扱うということは少ないと思う。ならば、同和地区の人であるからと言って、銘仙しか着てはいけないという時代はとうに過ぎ去っていると言えるのだが。

「それに右城君、いまの着物離れを食い止めるためには、銘仙はキーポイントになるって、ウェブサイトに書いてあったわよ。そりゃねえ、確かに貧しい人が着るものっていう認識を持つ高齢者もいるっていうけど、今はかわいい着物として、若い人が着たがるんですって。だから、良かったじゃない。其れとおんなじって考えればいいのよ。そういうことなら、流行の先端を行っているって考えればそれでいいじゃないの。」

咲は水穂さんにそういうが、水穂さんは、もう力尽きて眠ってしまっていた。咲ははあとため息をつく。

由紀子は、咲のいうことも一理あるとおもった。確かに、銘仙の着物について否定的な意見をする人も少なくないが、流行の先端を行っているということもそういうことである。

「それに、わざわざ同和地区の出身者であるとアピールする必要はどこにもないの。可愛いと思ったら其れでいいし、ほかの生地、綸子とか、紬だって、もう自由に着ていい時代なのよ。だから、身分をアピールするような着物を着ないでもいいって、そういう時代になったのよ。」

咲が言ったことは理解できる。確かに、紬などの普及生地から、高級生地まで、なんでも着られる時代になった。咲さんが言う通り、水穂さんには銘仙ばかりというのをやめてほしいものだ。でも、由紀子は、着物を手に入れるということは、難しいと思った。呉服屋さんに入るのはちょっと勇気がいるし、リサイクルショップは先ほど咲が言ったように、変なところでこだわりがあって、欲しいものは手に入らないという問題がある。本当に着物を買いたい人には手に入らないということは、由紀子もなんとなくわかる。

「まあ、着物なんてものは、欲しいものが手に入らなくて当たり前で、手に入ったらラッキーと考えておくべきかもしれないわね。」

と、咲は大きなため息をついた。その間にも、水穂さんは薬が回って、眠り続けているのであった。「誰か、本当に欲しいものを譲ってくれることはないのかしらね。着たい人に、無条件で着させてくれる、そんな篤志家いないかな。」

これは、浜島さんの言う通りだと思った。確かに、水穂さんにも、銘仙以外の着物を着てほしいという気持ちは由紀子にもある。何だか其れのせいで、水穂さんはより劣等感を抱いている気がしてしまうのである。

「とにかく、探してみるしかないわねえ。」

咲は、一寸ため息をついた。

由紀子は、咲の話に、何かつかんだものがあった。確かに、もう何の着物を着なければならないという時代は終わったのだ。それでも、呉服屋とか、リサイクルショップとか、そういうところは、変に身分意識があって、本当に欲しいものが手に入らないというのも確かだ。何か由紀子は、其れで咲を越えてしまいたいと思った。何とかして、咲ができなかったことを、自分がしてみたいという気持ちになった。

その日、由紀子は、咲とそのあと何を話したのか、全く覚えていない。ただ、水穂さんが眠ってしまったので、もうそろそろ帰りましょうかと言って、再び気が付いたときは、車に乗って自宅にかえっていた。自宅にかえると、由紀子は、急いでパソコンの前に座った。そして検索サイトに着物を譲ると入れてみた。そんなことをしてくれる篤志家なんて、いないと思うけれど、でもやりたくなってしまったのだった。由紀子がエンターキーを押してしばらくすると、検索結果が表示された。始めは由紀子の目的に合っているサイトなどないと思われたが、その中で一つ、「着物、帯譲ります」というタイトルのサイトがみえた。其れは、個人的に作られたウェブページであるが、多分誰かが、見よう見まねで制作したようなサイトだった。由紀子は、それを開いて初めの頁をよく見ると、夫のものであるが、先月亡くなったため、着ていたものを使ってくれる人に譲ります、という言葉が書かれていた。なんでも買い取り業者に査定を依頼したところ、ものすごくひどい額だったので、誰か着てくれる人に譲るということにしたらしい。由紀子は、そのサイトに出品されている項目を一つ一つ読んでみた。確かに亡くなったご主人のものであるということで、男性ものが多く出品されていた。結構な身分の人であるらしく、男性の着物で、結構な高級な生地のものが売られていた。もしかしたら、ごりょんさんと言われる身分の人かもしれなかった。

由紀子は、出品されている着物一つ一つを確認した。男性ものが八割くらいを占めていて、ほとんどのものは正絹であることも書かれていた。色は黒や紺、茶色など、男性らしい色であったが、その中で一つ、モスグリーンの着物があった。これは、冬にはつかえるウール生地の着物であった。いつどこで着るのかなんて由紀子はどうでもよかった。とにかく、銘仙というブランド以外のものを、水穂さんに着てほしいという気持ちで頭がいっぱいであった。

サイトの使い方と書かれているページを見ると、使い方は簡単だった。まずサイトに表示されている着物であれば必ず在庫はあるというので、メールを送って問い合わせてくれと書いてある。ということは、このモスグリーンの着物は、まだ在庫があるということか。由紀子は急いで、この緑の着物を譲っていただきたいとメールを送る。返事はすぐ来るかとは思わなかったが、返事は、数分後にやってきた。

「お問い合わせありがとうございます。こちらのお品物は現在問い合わせが入っております。購入希望という方なのですが。とりあえず、明日閉め切りにしておく予定でしたので、どなたにお送りするか、こちらで検討させていただきます。」

由紀子は急いでそこまで読んで、最後まで読まずに、返事を返してしまった。

「お答えありがとうございます。出来れば、私にお譲りしていただきたいです。このお着物は私が、一番大切だと思っている方に差し上げたいと思っております。」

そう由紀子は返信画面に打ち込んで、そのまま送信ボタンを押してしまった。不謹慎だとか、失礼とか、そんなことは、まったく考慮しなかった。つづけて由紀子は、自分の自己紹介文を、そのまま続けて打ってしまう。

「私は、今西由紀子と申します。着物の知識などは、全然ありません。女性である私がなんで、男性ものをお願いしたのか、おかしいなと思われることもあるかもしれません。でも、私は一番大事な人に、この着物を差し上げたいと思いました。このお着物は、その人にピッタリだと思います。」

パソコンになれていない由紀子が、エンターキーを押すと、メールは送信されてしまった。由紀子はまだ打ち終わってないのにと思ったが、急いで続きを書いた。

「その人は、いま、とても大変な病気で療養しているんです。私は、少しでも彼が元気になってくれますように着物をプレゼントしたいと思っています。ですから、私に着物を譲って下さい。お代は、そちらで決めてくれてかまいません。お願いします。」

またエンターキーを押すと送信してしまった。同時に、ピンポンと合図がなって、メールを受信したことがわかった。

「あなたの御願いしている気持ちはよくわかりますよ。でも、ルールはルールですから、お譲り会が終了する、明日までお待ちください。」

どうやらごりょんさんは、あげる気がないのかもしれない。これだけ着ようという由紀子の気持ちに、応えてくれそうな気がしなかった。

「ええ。そうなんですが、私はこのモスグリーンの着物をどうしても欲しいんです。大事な人にあげたい。其れだけなんです。その気持ちが、一番私の一番思っていることです。」

由紀子はもう一度メールを送った。メールだけでは、どうしても自分の気持ちというのは、表現しきれないものである。それにメールでは、ごりょんさんにどれだけ届いているかわからないので、由紀子は不安になってしまうばかりだ。

「御願いします。私にこのお着物をください。先ほども言いました通り、お代はそちらで決めてくれて結構です。このお着物を、どうしても私の大切な人にあげたいんです。お願いします。私にこのお着物を譲ってください。」

と、由紀子は、もう一回メールを送った。少々強引な人と見るか、それとも自分が大切な人をこんなに思っていることが、ごりょんさんに分かってもらえるか。由紀子は、それが不安であったけれど、とにかく思いを伝えることが大事だと思った。

すると、数分後、ピンポンと音がして、メールを受信したことがわかった。

「わかりました。あなたの熱意に負けて、こちらをあなたにお譲りすることにしましょう。お値段は、ウール生地だし、3500円で結構です。私は、正直に言うとコンピューターの事はよくわからないので、お支払いは、お品物が到着した時に、袋に住所がかかれているので、その住所に、現金書留でおくっていただけたらと思います。」

ごりょんさんは、そういってくれたのだ。由紀子は、天にも昇る気もちになった。ピンポンという音がして、又、メールが来たことがわかる。

「それでは、あなたの住所を教えていただけませんでしょうか?序に、電話番号を教えてくださると、助かります。」

由紀子は急いで自分の住所と電話番号をメールで送った。すると返答はこのように返ってきた。

「富士市何ですね。隣町じゃないですか。其れなら今日発送しますから、明日には届くと思いますよ早くついてほしいようですから、午前中に届くように指定しておきましょう。しばらくお待ちください。この度は、お買い上げありがとうございました。」

由紀子は、急いで、どうもありがとうございました、とメールを打った。これで、明日には、水穂さんに、着物を届けてあげられると、うれしくなった。

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見えないところ 増田朋美 @masubuchi4996

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