05.戦ってみましょう

 ――しかしこの……汚泥、とか言っただろうか? これを放置しておくのは、危険なのでは?

 汚い泥であるそれは、床板を急速に腐敗させながら、徐々に徐々にこちらへ躙り寄ってきている。決して素早い動きではないものの、烏羽が説明した通りその場から移動しているのではなく、質量を無視して広がり続けているようだ。

 と、不意に汚泥が急速に縮み始める。ただし、撤退をしている訳ではなさそうだ。というのも凝縮されたソレは俄に人型を取り始めたからだ。アメーバーのような柔軟さで捏ねられ、伸ばされを繰り返す。


「ええ、これは昨今の研究で明らかになった事なのですが――汚泥は取り込んだ対象の情報を抜き取り、擬態する事が出来るのだとか。とても順応力に長けた生物のようで何よりですねえ、ええ」

「――……!」


 その辺にいるモブではないようなシルエットの人型。顔や纏っている衣類などまでは再現出来ていない。あくまで誰かの影のようであるが、それにしたって特徴的だ。まさかこれも、取り込んだ神使のデータを元に作成したとでも言うのだろうか。

 意外と闇が深いストーリーの可能性に胃を痛めていると、烏羽が楽しげに花実の顔を覗き込む。


「恐ろしいですか? ふふ、これから毎日コレと顔を合わせる事になるだなんて。ええ、本当にお可哀想に……」


 明らかな嘘を吐き出した彼が人型に変わった汚泥を一瞥する。


「では、召喚士殿。お喜び下さいませ! 貴方達が好き好む、戦闘のお時間です、ええ! これがやりたくてげぇむなる物を始めたのでしょう。ええ、分かっていますとも。何とも野蛮、私は筆舌に尽くしがたい気持ちで一杯です。ええ、ですが貴方様が望むのであれば仕方ありませんね」


 戦闘のチュートリアルが始まる予感に身構える。そう、ゲームの肝は烏羽のメタ的な発言通り戦闘だ。如何にストーリーが良かろうが、グラフィックが美しかろうが、エンジンである戦闘に面白味の無いゲームは総じて駄目。

 ストーリーもグラフィックも、美しい物を求めるのであればゲームである必要性はない。小説や映画やアニメ、媒体はいくらでもある。

 けれど、それらには無いもの。それがゲームという行為そのものだ。つまり戦闘がつまらないゲームは大抵の場合において長続きはしないものである。


 気を引き締めて、この最早物理的に没入型となっているゲームの戦闘について思いを馳せる。召喚といい、プレイヤーに物理的な動きを強いてくるタイプの戦闘方法かもしれない。

 ――だが、そんな心配は杞憂に終わった。


 人型の汚泥は合計3体。それぞれ姿形は少しばかり違うものの、ゆらゆらと不安定な動きをしている。

 対し――プレイヤーは特に神使への指示を出してはいないが――烏羽の動きは迅速だった。

 気安い動きで左腕を上げる。瞬間、どこからともなく重苦しい水の気配というか、湿度が上がるような心持ちがした。


 念の為に確認をしておくが、ここは室内。広間ではあるが、あくまでも屋内であり、外に面しているはずも当然ない。

 が、どこからともなく集まって来た恐ろしく清廉な水の塊が掲げた烏羽の左手付近に漂う。花実が声を掛けるまでもなく、一定量に達した水塊が一直線に汚泥達目掛けて放たれた。

 水球が人型のそれらにぶつかって、弾ける。続く光景に目を剥いた。

 水が付着した汚泥は勿論の事、畳に散った水滴などが音を立てて僅かに付着部分を溶かし崩したのである。危険過ぎる水滴、近付いていたら自分も巻き添えを食ったかもしれない。

 そんな物体を溶かし崩す謎の液体を直接的にぶつけられた汚泥はと言うと、その場にグズグズと溶けていき、やがて畳に染みたかと思えば跡形も無く消滅した。


 ――いや、それよりも。私、なんにもしてなくない? これってソシャゲなのは当然だけど、ちゃんとゲームなんだよね? エッ、プレイヤーって神使が戦ってるのを見ているだけ?

 それはゲームとしてどうなのか。しかもこの男、戦闘に至っては勝手に始めたのでチュートリアルすら行っていない。するべきチュートリアルが無かったという事なのだろうか。疑問は尽きない。


 そんな花実の心中を察してか、はたまた想定された台詞を述べたのか。烏羽はニヤついた笑みを浮かべながらこちらへと躙り寄ってくる。


「おやおや、目をまん丸にされてしまって。どうされましたか、召喚士殿?」


 態とらしい問いに対し、質問をしてみるべきか一瞬だけ逡巡した。が、もしかしたら神使はヘルプのような役割も担っているのかもしれない。一人一人にヘルプボイスが付いているのだとしたら、膨大なボイス量だろうが。

 一拍の間を置き、花実はようやっと口を開く。


「……プレイヤーは戦闘中、突っ立って見ていればいいの?」

「そうしたければどうぞ。ええ、そのような疑問を私に投げかけられても困りますねえ」

「指示とかも出さなくていいの?」

「貴方様はああいった手合いと戦ったご経験があるのでしょうか。ええ、それでしたら私に指示を出して頂いても構いませんよ。ですがまあ、恐らくは私の意思で戦った方が確実かと。ああいえ、貴方様の力不足などとは言っておりませんよ! ええ!」


 問いに対し確実な答えを提示する。AIだとかの機能であれば素晴らしいが、それでも戦闘をただ突っ立って見ているだけなのは、ゲームとしてマズいのでは? 何故、システムボイスとかには拘った事が伺えるのに戦闘システムで手を抜いてしまったのか。

 ――それはちょっと……ううん、後で運営に要望を出そう。


 などと考え込んでいる間に烏羽はチュートリアルに戻ったようだった。やはり胡散臭い挙動で頭を悩ませている――ようなふりをしている。


「それにしても、社にまで汚泥が浸入してくるとは。ええ、私達も気付いた時には奴等にパクッと……などという事もあるかもしれませんねえ」


 深刻そうな顔をしているように見える烏羽は大仰に溜息を吐いた。今までのニヤけ顔から一変して真面目そうな顔をしているがこれ――大嘘。上記の台詞も嘘しかない。であればきっと、これは然したる重要な出来事ではないのだろう。

 反応を返さない花実に対し、それまで深刻げなムードを漂わせていた烏羽が肩を竦めてその雰囲気を霧散させた。


「おやぁ? つまらない反応ですねえ、もっと慌てても良いのですよ。ええ。ま、先程のアレはちゅーとりある用に配備してある幻術の類いで、実際には何者をも侵入はしていないのですが。……もしかして召喚士殿、その事実に気付かれていたので?」

「……」

「黙りですか。ええ、まあ、よろしい。私は今、とても愉快な気分ですので。寛大な心を以て受け流して差し上げましょうとも」

「……」

「それでは召喚士殿、改めましてよろしくお願い致します。ええ。ところで私、やりたい事しかやらない性分でして。そう、飽きるまで。飽きるまでは私と遊んでやって下さいませ。フフフ……」


 最後の最後で嘘を吐かなかった烏羽は怪しげに微笑んでいる。ならばそう、飽きたら捨てられるのはプレイヤーの方だと暗にそう言っているのだろう。

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