第86話 紅龍の雫
「私は――紅龍の雫を超えるワインを作りたいんだ」
真剣な眼差しで切り出した一言は予想とは全く異なるものだった。
「光属性の魔力を込めて醸造したワインの味が飛躍的に向上することを発見して以来、私は日々ワイン作りの研究をしてきた。この20年で製法についてはほぼ確立させることができた……そうすると次に問題になるのは原料となるブドウというわけさ」
「その……例の話というのは、さっき話してもらった教会の真実を明らかにする件ではなく、ワインづくりに関することなんですか?」
「はは、意外だったかな? 人生の半分近くワイン作りに打ち込んできたからね、私はすでに復讐者ではなくひとりのワイン醸造家なんだよ……もちろん、教会への怒りやセピオへの想いは全く色あせてはいないし、当初の目的と全く関係ないわけでもないんだ」
「――そうですか、話を切ってしまってすみません。続きをお願いします」
「先ほども話したが、私は畑を持っていないので基本的に買い付けたブドウでワインを作っているんだ。製法の研究も一区切りがついたので、より高みを目指すためにも今度はブドウ栽培から携わりたいと思うようになったというわけさ!」
キールさんは一呼吸おき、変わらず真剣な表情で話を続ける。
「数本のブドウの木を育てながら色々と研究してみたが、ワインというのは――いや、ブドウというのは“土”の影響を大きく受けるんだ。世間ではほとんど意識されていないがね……だから私は土づくりに重点を置いて栽培を行いたいと考えているのさ!」
確かに俺がいた世界でもワインとはその土地――すなわち土によって大きく個性が出ると言われていた。だからキールさんの着眼点は間違っていないはずだ。
ただ、ルイーナさんがわざわざ俺たちを連れてきたということは、冒険者としての力を貸して欲しいからだと思っていたが、今の話が俺たちとどう関わってくるのか今一つ見えてこないな……
「はは、私の発言の意図が読めないと言いたそうな顔だね。――端的に話そう、君たちにお願いがあるんだ……! アノウス火山にある〈
「緋陽土……ですか? アイラは聞いたことあるか?」
「いや、聞いたことがない……一体どんな土なんだ?」
「緋陽土というのは、アノウス火山の魔力を含んだ火山灰が長い時を経て変化した鮮やかな赤い土でね……それ単体では植物に有害なんだが、光属性魔法で浄化することで豊富な魔力と栄養素を含んだ土に変化することを発見したんだ!」
「魔力を含んだ土か……それは珍しいな。だが長い時を経て作られるものであれば地下深くにあったりして簡単には見つからなそうだが……」
「それについては心配ないわ!600年位前に大噴火が起きた時にできたアノウス新山の方なら、地下の岩や昔の地層が表に出ているから採集可能よ!――問題はそこに近づく冒険者がいないってことね……」
「どうして誰も近づかないんですか? キールさんが緋陽土がいい土壌になることを発見したということは、誰かが持ってきたんですよね……?」
「たまーに調査研究の名目で学者たちが行くことがあるくらいで、冒険者はほとんど行くことはないわね。ギルドがアノウス火山関連の依頼を一切受け付けないのよ!」
「待ってくれ! 私が知る限りアノウス火山は神聖な山だから国が入山を禁止していると聞いたが……ギルドが依頼を受けないのは当然ではないのか?」
アイラが不思議そうにルイーナさんに問いかける。
「厳密に言うと禁止されているのは昔からある方のアノウス火山よ。新山の方は何も縛りはないから本来自由に出入りしていいんだけど、ギルドが独自にそういう対応をしているってわけ!」
「私も何度もギルドに緋陽土採取の依頼を出したが、全て断られてしまったんだ。私もこれでも元騎士だから一人で行こうかとも考えたが、さすがに赤龍の膝元で無茶はできなくてね……ルイーナに腕の立つ冒険者がいたら紹介してほしいと頼んでいたんだよ」
「依頼主が“有名人”だから私も中々紹介できそうな冒険者が見つからなくて困ってたんだけど、ユウガとアイラならきっと力になってくれるかなと思ってさ!――どうかな?」
「――どうする?アイラ、ここまで聞いたら受けてあげたいと思うんだけど……」
「そうだな、報酬次第ではあるが私も受けてみたいと思う」
さすがアイラ、ちゃんと報酬についても牽制を入れつつ受ける意思を示すとは……冒険者の鏡だな。
「報酬は――現行の紅龍の雫10本と、緋陽土を元に作った“新生”紅龍の雫10本でどうだい? ――新しい方はまだ先の支払いになってしまうがね」
――確かさっきの店で飲んだ赤ワインが1本3銀貨だったから、単純計算で60銀貨か……
依頼の危険度しだいではもう一声欲しい所だが、珍しいワインならそれなりに付加価値が付くはずだし、まあ良しとするか。
「分かりまし――」
「まずは試飲してみないとねえ? 報酬がモノでの支払いになるなら、しっかりとその価値を示してもらわないと! そう思うでしょユウガ?」
「え、ええ……まあ」
ルイーナさんが飲みたいだけじゃないのか……?
キールさんと出会った当初から随分試飲にこだわっているが、紅龍の雫というのはそんなにおいしいワインなんだろうか。
「はっはっは!分かったよルイーナ、君の言う通りにしよう。ユウガ君は受けてくれる雰囲気だったし、特別に先に試飲させてあげよう――準備するから少し待っていてくれ」
「やった~!!! キール大好き! 紅龍の雫を飲むなんて何年振りかしら!楽しみ~!」
「――そんなにすごいワインなのか? その紅龍の雫というのは……?」
アイラも同じことを思っていたらしく、キールさんが準備のため席を外したところでルイーナさんに尋ねる。
「スゴイなんてもんじゃないわ! 年間50本しか製造されない銘酒で、そのほとんどを国に優先的に卸しているから一般に出回ることはほとんどない幻のワインなのよ!! 正規の売値で50銀貨、実際はすぐに競りにかけられるから買ったらいくらになるか想像もできないわ……」
その話を聞いて思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。
「げほっ、げほっ……そんなとんでもないワインを10本って……! 試飲なんてもっての外じゃないですか!」
「うふふ、こんな機会でもなければ普通は一生飲むことができないワインなのよ? 少しくらい強引にいかなきゃ損よ損!」
「本当にいい性格をしているなルイーナは……だが、そのお陰で貴重なワインが飲めるから感謝しないとな!」
ダメだ、アイラも完全にスイッチが入っている……
まあ、すでに依頼を受けることは決めているわけだし、ここはキールさんの厚意に甘えるとしようかな。
「さあ、準備ができたよ。口に合うといいんだが――」
そう言ってキールさんは慣れた様子で3つのグラスに順番に注いでいく――
まず目を奪われたのは、その美しい色だった。
名前通り深い深紅の色合いをしたその液体は、グラスに注がれ液面が揺れる度に何種類もの赤色を折り重ねたような複雑な色合いを放っていた。
その優美な色合いに見とれていると、次に弾けるよう果実の香りがやってくる。
グラスを手に取り鼻を近づけると、何種類ものベリー系の果実を凝縮したような華やかな香りと、ほのかな樽由来と思われる芯のある匂いが感じられた。
他の2人もまだ口にしていないのに、すでにウットリとため息をついてしまっている様子だ……
視線をワインに戻し、恐る恐るグラスを傾けて深紅の液体を口に流し込む――
最初に広がったのは、香りの段階でこれでもかと主張していた濃縮果実を思わせる香りではなく、まるでフラテルク家の庭園にでも来たかのような上品な花々の香だった。
絹のように滑らかな口あたりで流れていく液体は、次々に異なる表情を見せる。
イチゴのような甘酸っぱさ、プルーンや熟したブルーベリーのような濃厚な果実味、ほんのりと全体を引き締めるコーヒーのような香ばしさを伴った苦み――
衝撃を受けたのは、それら一つ一つの力強い要素が決してバラバラではなく、口に含んでから飲み込むまでの一連の流れの中で美しく調和し、まとまっていることだった。
飲み終えた3人は言葉を失っていた。
グラスをテーブルに置いた後も、余韻を楽しむようにそれぞれが束の間の幸福なひと時を味わうのであった。
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