不思議な道筋

文野麗

夜中のこと

 藍色の夜のマントが空を覆って久しい。人々が寝静まった後で、僕は街を歩いている。空気は澄んで冷たく、頭を冷静に保ってくれる。車道に車は見当たらない。下弦の月は空の端だ。人工の光はそれが光だと認識できるくらい弱いのに、星は一つも見えない。夜は空の領域が広がるから、より一層不在が際立った。

 誰もいない。夜中のうちでも本当の夜中なら悪魔も眠っているだろうと考えたが、実際のところ、眠るのは生物だけなのだろう。どこに魔が潜んでいるのか分かったものではない。足を踏み出すごとに勇気を試される。

 コンクリートの塀は視界で波打っている。表札の文字は読み取れない。地面に植えられた植物が僕の脚に触れて怪しく揺れた。塀は何もないところより色が淡くて、僕はぶつかることなく曲がれた。水道管が鳴った。左側にフェンスが続いた。その奥で木々が黙って立っている。僕はアスファルトから砂利道に踏み出した。フライパンの上で跳ねる油のような軽やかで細かい無数の音が鳴る。砂利は靴底の下で崩れる。気をつけないと転んでしまいそうだ。入念に踏みしめようとするが、力を入れれば入れるほど不安定になる。しかもこの先は下り坂だ。一応階段になっているが、形がほとんど崩れているためによく見ないと階段だと気づかない。坂の途中に一定間隔で踏み板代わりの金属の杭が顔を出している状態だ。躓いたら転げ落ちてしまいかねない。時間をかけてゆっくりと足を進めていった。砂利を踏みしめる音だけが響いた。地面はざらついた闇にしか見えないから靴のつま先で探りながら降りていく。風が吹いて隣の林が乾いた音を立てた。生命が鋭くなった。全ての神経が足に集中する。

 降りきると足元の音は止んだ。再びアスファルトの道に入る。短い道路に一定間隔で街灯が並んでいる。行き尽くして曲がるとこれまでと同じような光景が展開されていた。しかし今度は先の方に人影が見えた。変わらない速さで進みながらそちらを一瞥した。街灯の下で、深い色のスーツを着た、身なりの卑しくない若い男女が嬉しそうな顔をして自転車のカゴの中の何かに繋がったストローを咥え、それを吸っていた。男女は微動だにせず愉しんでいた。あれは何だろう。関わるべきではないものだろうから、すぐに視線を外して遠ざかった。

 この低い土地には坂が多い。登ってみないと景色が広がらない場所が多い。足を斜めについて緩やかな坂を登るとまた林に接していた。左側には同じような形の小さな家がいくつか立っている。人が住んでいるのかどうか分からない。寂れた様子はないから今も中に人がいて眠っているのかもしれない。右の林は人を脅かすように枝や根や葉を広げて構えている。僕の肩の下くらいの高さまでコンクリートで覆われている。その塀の途中に一メートル四方くらいの凹みがある。凹みの真ん中に赤っぽい小さな注意書きが提げてあるが読み取れなかった。この通りも短くてじきに行き過ぎた。

 角を曲がると一直線の平らな長い道路があって、歩道に等間隔で中年男性が立っていた。コートを身にまとって、一様に打ちひしがれて傷ついた顔をして俯いていた。一人残らず太り気味で髪の毛が少ない。しかし誰一人として似ていなかった。佇まいからそれぞれ誰かを待っているのだと分かる。身体が自然と揺れたり、足が動いたりする。みんな泣きたいのを堪えて、ひたすら耐えているようだ。僕は彼らの代わりに彼らの気持ちを歌いたくなった。来ない人をずっと待つ者の、恨みの歌を。

 中年男性の群れの横を通り過ぎれば駅の近くの道に出る。電車なんて今どき動いているのかどうか分からないが、どのみち夜中は静かだ。文字が書かれた、眠れない大きな看板が青くなっている。ビルのデザインも夜に沈んでいる。

 古い三階建てのビルに差し掛かったところで口笛が僕を誘った。音がした方を見れば道の向こう側のアパートの壁に大きめのデニムのパンツを履いた少女が格好つけてもたれ掛かっている。

「Guess what!(当ててみて!)」

「What?(なんだい?)」

「I’ll fry to the moon!(月へ行くの!)」

 少女はそう言うと、僕をアパートの前まで連れていった。庭にトランポリンが置いてある。少女はトランポリンで真っ直ぐ上に跳ねた。一回目と二回目は低く跳んで力を貯め、三回目で高く跳ね上がる。それを繰り返した。済ました顔で、目は僕の顔をじっと見つめている。庭には電灯が付いていて、少女が高いところへ上がるたびに金色の短い髪とそばかすがたくさんある頬が鮮やかに色付いて見えた。僕は気味が悪くなって、

「Never go to the beach.(浜へ行ってはいけないよ)」

と言い残してその場を去った。後ろでトランポリンの翅が軋んだ。重く鋭い音がいつまでも止まなかった。

 音はない。何も動かない。駅は眠ったフリをして全てを放り出していた。誰かに見られるとか誰かが入ろうとするとか、そういう危険を考えるのをすっかり怠っているようだった。白いペンキが塗られた自らの表面を内側に閉じたまま力を抜いている。近くにはタクシーすら一台もいない。街の中心で僕はただ一人だ。駅の前のロータリに沿って回るように歩き、大通りに出た。閉まった店を横目に見ながら移動を続ける。残された生活の痕が無性に悲しかった。朝は来ない。僕は歩く。

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不思議な道筋 文野麗 @lei_fumi_zb8

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