第38話 愛のしるし
エルニシア国に来て一ヶ月。
わたしはローズリン女王陛下の部下である、ユクセン秘書の下で働いている。
休日になると、緊張が抜けて疲労がどっと押し寄せてくる。
昼寝から目を覚ましたわたしは、窓の外に広がる青空を恨めしそうに眺めた。
「何を考えているの? 僕のこと?」
ベッドに座ったアルオニア王子が、わたしの前髪にふれた。
「やっぱりお出かけすれば良かったと、後悔していました。せっかくアルオニア様が遊びに来てくださったのに、すみません」
「起き上がらなくていい。体調が優れないと話してくれたことが嬉しい。遠慮のいらない仲になったのだと、実感する」
ベッドから起きようとしたわたしを、王子は手で制した。
額にキスが落とされる。それから眉間、こめかみ、鼻、頬へと。大切なものに触れるかのように優しく、キスの雨が注がれる。
「一週間会えなくて寂しかった。リルエを味あわせて」
色気のある、少し掠れた声。王子の長くて綺麗な指が、わたしの髪の中に入ってくる。
鼻と鼻がぶつかる距離感に、恥ずかしくて視線を外したくなる。なのに、とろけるように甘く深いアメシスト色の瞳に捕われてしまい、逸らすことができない。
軽く触れるだけだった口づけが次第に熱を帯び、下唇を甘噛みされた。
「好きだ」
「わたしも……です」
胸が苦しい。泣いてしまいそうだった。王子の唇も指も瞳も声も、すべてが優しいのに……。
王子と過ごす時間は酔ってしまうほどに甘くて、優しくて、怖い。
王子は顔を上げると、心の奥を探るような目で見つめてきた。
「僕のこと嫌になった? 飽きた?」
「そんなことないです! そんな……全然……」
はっきりと好きだと、返すことができない。
涙腺を抑えることができずに、涙がポロポロとこぼれてしまった。
「ごめんなさい。違うんです。ごめんなさい。短い間にあまりにもいろんなことがあって、考える間なくすべてがガラリと変わってしまって、だから時々不安になるんです。もしかしたら、全部夢なんじゃないかって。風船のようにパチンと弾けて夢から覚めたら、またあの古い家にいて、借金取りが来るような酷い生活がある。それこそが現実なんじゃないかって……」
つらいこと、悲しいことに耐えることに慣れすぎてしまった。幸せに浸ることができずに、幸福が去ることを恐れてしまう。
アルオニア王子がどんなに好きだと言ってくれても、心変わりをしないという保証なんてどこにもない。
王子は、わたしの濡れている頬にキスをした。
「僕は今、すごく困っている」
「すみません……」
「リルエの泣き顔が可愛すぎて、そそられる。泣かせたくないのに、もっと泣かせたくなる。おかしな気分だ」
「え……えーっと……?」
「僕に飽きたわけではない?」
「全然っ!! とっても素敵です! むしろ、引き返せないところまでアルオニア様にハマっていく自分が怖いです」
「引き返さなくていいよ。抜け出したりしないで、このまま僕にハマって」
「でも……」
怖気づくわたしを宥めるように、また唇へとキスが落とされる。
終わらない口づけに苦しくなる。酸素が足りなくなって脳がクラクラする。王子の胸を押してもびくともしない。
「限界です!」と訴えようとしたとき、開いた唇から忍び込んだものにパニックになる。
――えっ! え⁉︎ これはなに? こんなキスが世の中に存在するのっ⁉
情熱的に絡みつく舌から逃げようと、もがく。けれど、のしかかってきた王子を押し退けることができずに、深く囚われてしまう。
それでももがいていると、耳元で「溺れていいよ」と囁かれた。
力が抜ける。
どのくらいそうしていたのだろう。王子の唇が離れたときには、わたしはすっかり息が上がっていた。
「ごめん。ここまでする気はなかったのだけれど、リルエが可愛すぎて止められなかった」
「なっ!!」
ヘラっと笑った王子に怒りが爆発する。
「あ、あああああ、ああんなふ、ふしだらなキスが世の中にあるんですかっ⁉」
「あるよ」
「嘘です! あるわけないです! だってそんな……おかしすぎますっ!!」
「リルエが勉強不足なだけだよ。これからもいろいろと教えてあげる」
「いろいろって……」
王子はいたずらっ子のような瞳で、「いろいろはいろいろだよ。お楽しみに」と笑った。
「そうそう、来週は国立美術館の式典に参列しないといけない。再来週も二人だけの時間を取れるか分からない。だから、リルエを愛しているというしるしを置いていってもいい?」
「分かりました」
王子はなぜか苦笑した。
「僕が何をしようとしているか、わかる?」
「全然わからないです。何をするんですか?」
「僕と過ごした時間が夢か現実か不安になったら、鏡を見て。僕に愛されていると感じることができる、しるしをつけてあげる」
「素敵ですね」
「警戒心を解いてくれたのは嬉しいけれど、そんな無垢な反応をされると……困ったな」
王子はわたしの首すじに口づけを落とした。チリっとした痛みが走る。
✢✢✢
その日の夜。寝間着に着替えて台所に行くと、オルランジェが悲鳴をあげた。
「キャ~! リルエちゃんの首に、キスマークがあるわっ!!」
「えっ?」
「はわわ、興奮しちゃう!! ねぇねぇ、どんな感じでそんなシチュエーションになったの⁉︎ 事細かく、全部話して!!」
「なにを言っているんですか?」
オルランジェから話を聞いて、穴があったら入りたいほどの羞恥心に襲われた。
早速電話をかけて、王子に文句を言う。
「アルオニア様がつけてくれた、しるし。オルランジェさんは、俺の女だっていう所有物の意味だって言っていました!! 」
「へぇ〜。そういう意味もあるのか」
「わざととぼけていますよね⁉︎」
「ハハっ! シャツの第一ボタンを外して、職場に行ってみてよ」
「絶対に嫌ですっ!」
「リルエは真面目なんだから。たまにはハメを外したら?」
「こういうハメは外しません!!」
「そうそう、来週三十分だけなら時間がとれる。僕に会いたい?」
心臓がトクンと跳ねる。
王子は多忙なのに、隙間時間を見つけてはわたしに会おうとしてくれる。その気持ちが、すごく嬉しい。
「はい……会いたいです……」
「また、いろいろと教えてあげる」
「いろいろって⁉︎ 変なことはダメですよっ!」
「変なことはしない。積極的にキスをするだけだよ」
「それを変なことって言うんですーーっ!!」
電話の向こうで楽しそうに笑っている王子。
覚めない夢は実に刺激的で、いつもわたしの心をかき乱す。
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