第25話 厳しい先生
グレースは自分のことを、「並外れて厳しいことで有名」だと話していた。
けれど彼女は決して声を荒げることもなければ、罵る言葉を使うわけでもない。罰を与えることもしない。
彼女の厳しさとはそういうことではなく、恐ろしいほどに要求が高いのだ。
わたしは全身が映る大鏡の前で、おかしな汗をかいている。もう三時間も、自分の姿を見続けている。
立った姿勢。お辞儀。軽い会釈。微笑。破顔。話を聞く態度。頷き方。話す態度。会話を切りあげて去る態度。歩き方。
グレースは事細かに要求してくる。それも繰り返し、何十回も。
お辞儀で合格点をもらったとしても、三十分後にまたお辞儀をさせられ、「身についていない。やり直し」と淡々と告げられ、再度合格点をもらえるまでお辞儀の練習をさせられる。
細かすぎるダメ出しを受けるのはいい。精神的ダメージはない。
けれど体力と筋肉は限界だった。頬の筋肉が痙攣して、うまく笑えなくなってしまった。
ぎこちない作り笑いしかできなくなったわたしに、グレースはため息をついた。
「これ以上やっても質が下がるだけ。このレッスンはここまでにしましょう」
ようやく休憩できると喜んでいると、グレースは恐ろしいことを言った。
「昼食の席で、テーブルマナーのレッスンをします。それが済んだら、庭を散歩しながらの会話と歩き方の練習。その後、エルニシア語の勉強。夕食後は国際情勢を学びましょう」
「……盛りだくさんですね……」
「嫌ですか?」
「全然っ! 嬉しいです!!」
「嬉しいと言うわりには、顔が引き攣っています。言葉と表情が一致していません。歴史の勉強をした後に、表情筋のレッスンを加えます」
「はい……」
余計なことを言わなければ良かった。グレースは、どんな些細なことでも見逃してくれない。
わたしは疲労した頬の筋肉を揉みながら、食堂へと向かった。
わたしは学生時代、エルニシア語の勉強をした。だから日常会話程度なら、エルニシア語の読み書きができる。
そういうわけで、自信を持ってエルニシア語のレッスンに臨んだ。
「先生、この本は……」
「エルニシア王室の歴史について書かれた本です」
難しい用語がふんだんに使ってある専門書を前にして、わたしの自信はあっけなく吹き飛んだ。
さらには、勉強する姿勢を注意された。骨盤を立て、背筋をピンと伸ばし、足を揃えて座る。ペンを動かす、その所作にも指導が入った。
いっときも気が抜けない。緊張を解く暇がまったくない。体と心に疲労が溜まっていく。
わたしの字を見たグレースの眉間に皺が寄った。
「なんとも可愛らしい字ですこと。学生気分が抜けていないようです。成熟した大人の字をマスターしてもらいます。字の練習の宿題を出しましょう」
「……はい」
「嫌なら、やめてもかまいませんが?」
「いいえっ!! やめません。頑張ります!」
「口だけならなんとでも言えます。行動を伴わない言葉に意味はありません。エルニシア語の語彙力を増やすために、単語帳を作ってください。いくつ書きますか?」
グレースはエルニシア国語辞典を捲りながら、聞いてきた。
わたしは深く考えることなく、「百個にします」と答えた。
「わかりました。今から三十分間、時間をあげます。辞典の中から知らない単語を百個選び、単語帳に書き写してください。それを今日中に覚えること。明日試験をします。スペルと意味を覚えるように」
「明日ですかっ⁉︎」
「なにか不満でも?」
初めに試験の話をしてくれたら、三十個にしたのに……と恨みがましい気持ちになる。
けれど、決して弱音を吐かないと宣言したのだ。言葉も疲労も飲み込んで、「頑張ります」と答えた。
翌日の試験は、九十点。間違えた十問を、グレースは咎めることはしなかった。けれど、「辞典から、単語を九十個選びなさい。その九十個と間違えた十個の単語で、明日試験をします」と告げられたのだった。
レッスンを受けて、五日後。ダンスのレッスンが加わった。
アルオニア王子と話せる! と、わたしは喜んだ。
朝から晩までグレースと過ごし、夜は宿題と翌日の試験勉強で忙しく、王子と全然話せていない。
ダンスレッスンをするホールに行くと、そこにいたのはヴェサリスだった。
がっかりした気持ちが顔に出てしまったようで、グレースから注意が入る。
「あなたは良く言えば、素直。悪く言えば、場と相手に合わせた振る舞いができない。ヴェサリスを見て顔を曇らせましたが、嫌いなのですか?」
「まさかっ! 嫌いではありません。大変にお世話になっている人です」
「他人はあなたの心の中を覗けない。表情や態度、言葉や口調から判断するしかない。あなたがこの部屋に入って、ヴェサリスを見た。その反応からは、嫌いだと受け取られても仕方がありません」
「……すみません。以後、気をつけます」
体が全然動かず、ダンスレッスンは散々だった。
初めて知ったのだけれど、ヴェサリスはダンス大会で入賞したことのある実力者だった。
「リルエさんは体幹が弱い。体幹トレーニングの時間を作りましょう」
「あの、そんな時間あるでしょうか……」
相手がヴェサリスなので、つい、本音を漏らしてしまう。
ヴェサリスはにこっと笑った。
「時間がないなら、作ってください。スケジュールが多忙なら、隙間時間にトレーニングをすればいいのです」
「……なるほど……。ヴェサリスさんも、厳しいんですね……」
「リルエさんを思ってのことです」
グレースが用があると言って、場を外している。
わたしは床に座り込んで、滴る汗を拭った。足に力が入らなくて、限界だった。
勝手に休憩したわたしを叱るかと思いきや、ヴェサリスは「休憩しましょう」と言って、水を手渡してくれた。
「朝から晩までレッスン漬けで、苦しいかと思います。慣れないことばかりで、体も心も悲鳴をあげているでしょう。ですが、リルエさんに付きっきりで指導しているグレース先生も、大変なのですよ。グレース先生は、リルエさんのどんな些細な言動も見逃さず、指導を入れてくるでしょう? それは大変に注意力と根気のいることです。正直に申しまして、基本ができているお嬢さんをアルオニア様のパートナーにするほうがよっぽど楽です。ですが、リルエさんといたいというアルオニア様の願いを聞き入れて、グレース先生はわざわざ来てくださったのです。普通なら、彼女のレッスンを受けることなどできません。グレース先生の厳しさは、リルエさんが大勢の人々の前に出たときに恥をかかないためのものなのです」
厳しさの核にあるのは、優しさ。
休憩したおかげで汗が止まったけれど、今度は涙が止まらない。
「本当にそうですよね……。わたしのために時間を使ってくれている……。わたし、もっともっと頑張ります! 今以上に精一杯取り組みます!!」
「そうはいっても、足がフラフラで、もう踊れないでしょう」
ヴェサリスはにこやかな笑顔を浮かべた。
「寝ながらできる、体幹トレーニングをしましょう」
「……はい。頑張ります……」
ダンスレッスンは終わったが、今度は体幹トレーニング。
これもヴェサリスの優しさと愛情だと思って、頑張ろう。
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