第19話 手作りマフィン

 ヴェサリスから嫌われマニュアルの指示がないまま、時間は過ぎていく。恋人役の契約期間は四ヶ月あったのに、あっという間に残り二ヶ月となった。

 二ヶ月後には王子は大学を卒業し、母国に帰る。

 

 母はいまだに家に帰ってこず、王子の屋敷にも来ていないようだった。

 わたしは清掃の仕事中、しばしば校内でアルオニア王子を見かける。涼やかな銀髪と、冷ややかな目。シャープな顎のラインと、背筋の伸びた長身。淡々とした立ち振る舞い。

 女子生徒らの好意の視線を一身に浴びているというのに、笑顔のかけらもない。

 劇場デートで見せてくれた、あの屈託のない笑顔はなんだったのだろうと不思議に思うほどに、大学での王子は愛想がない。



 空き教室の机を拭いていると、廊下を通り過ぎる女子生徒の話し声が聞こえてきた。王子の名前が聞こえた気がして、手を止める。


「卒業パーティーで、アルオニア王子と踊りたいのに……。大事な人ができたって聞いたけれど、誰なんだろう?」

「シェリアじゃない?」

「それがさ、シェリアもダンスのパートナーを断られたんだって!」

「そういえば、アルオニア様が国立劇場で同年代ぐらいの女性とデートしていたって、噂を聞いたよ。それを聞いたシェリアが大激怒しているらしくて、相手は誰なのか調べているらしい」

「こわっ!!」

「絶対に許さない。二度とデートできないようにしてやるって、息巻いているらしいよ」

「シェリアだけは敵に回したくないわー」


 女子生徒たちの声が遠ざかっていく。体育館トイレでのいじめを思い出して、胃がキリリと痛んだ。

 その日のうちに、上司に、家族が病気になって看病をしないといけなくなったと嘘をつき、勤務日数を減らしてくれるよう頼んだのだった。



 ◆◆◆


 

 大学でアルオニア王子と話すことはないけれど、王子はジュニーとトビンの勉強を見てくれているので、屋敷では頻繁に会っている。

 恋人役の契約が解消されていない宙ぶらりんな状態で、わたしと王子は顔を合わせる。交わす会話は差し障りのないものだけれど、肩の力が抜けたせいなのか、ようやく緊張することなく自然に話せるようになった。

 あるとき、夕食の席で誕生日パーティーに誘われた。


「来週、僕の誕生日なんだ。屋敷の者のみで、パーティーをしたいと思っている。リルエとジュニーとトビンも、参加してくれる?」

「でも……」

「わー! いいんですか!!」

「やったぁ! 楽しみ!!」


 無邪気に喜ぶ、ジュニーとトビン。二人ともパーティーに参加する気満々なので、断れなくなってしまった。


 その日の夜。布団の中で、ジュニーとトビンに尋ねてみる。


「誕生日プレゼント、どうするつもり?」

「私は、手作りのマスコット人形をプレゼントするよ」

「ジュニーは手先が器用だものね。どんな人形にするの?」

「クマだよ」

「ボクはね、絵を描く! お花の絵を描いてプレゼントするんだ!」

「トビンは絵が上手だものね。アルオニア様、きっと喜ぶよ」

「お姉ちゃんはどうするの?」


 迷っている心情を吐きだすように、わたしは「うう……」と唸った。


「なにも思いつかなくて困っているの。高価なプレゼントをたくさんもらっているだろうから、わたしが買える範囲のものじゃ喜ばないと思う」

「だったら手作りにしたら?」

「ボク、お姉ちゃんが作ってくれるお菓子大好きだよ」

「お菓子……いいかもね!」


 翌日。オルランジェに相談すると、嬉々として、大量のお菓子本を貸してくれた。


「本がこんなにたくさん⁉︎ どれにしようか迷っちゃう!」

「ふふっ。アル王子、ああ見えて甘いものが好きなのよ。勉強で頭を使うからから、脳が甘いものを欲しがるのでしょうね。特に、マフィンを好んで召し上がるわ」

「マフィンなら、わたしにも作れそう!」


 手作りマフィンをプレゼントすることに決め、大量のレシピ本とにらめっこする。


「この中で一番おいしいものを贈ろう」

「リルエちゃん。付箋をたくさん貼っているけれど、まさかそれ全部、作るわけじゃないわよね?」

「作ります。だって、作らないと味がわからないもの」

「きゃあ〜!!」


 オルランジェは頬をピンク色に染めると、瞳を好奇心いっぱいに開いた。


「愛ね、愛だわ!! 好きな男のために頑張る女の子、大好きよ! 全力で応援しちゃう!!」

「そんな大袈裟なものじゃないですっ!」

「照れなくていいから。材料はこちらで用意するからね」

「ありがとうございます! 助かります」


 そういうわけで、わたしは毎日屋敷に通った。レシピ本を見ながら、材料や作り方の異なるマフィンを作り続ける。

 出来上がったマフィンを、使用人たちは喜んで食べてくれた。けれど次第に、断られることが多くなった。

 マッコンエルに頼む込む。


「皆さん、もうこれ以上はマフィンを食べたくないと言うんです」

「だろうね。マフィンってさ、たまに食べるからおいしいんであって、毎日食べるものじゃないんだ。食いしん坊の俺でも、さすがに胸焼けがしてきた」

「でもわたし、一番おいしいマフィンをアルオニア様にプレゼントしたいんです」


 マッコンエルは困った顔して頭を乱暴に掻くと、わたしの肩に両手を置いた。


「リルエちゃん! 二十番目のマフィンがおいしかった。それにしよう!!」

「でも……。まだ作っていないマフィンが十個あるんです。それを食べてから、決めてもらえませんか?」

「うぉぉぉぉーっ! リルエちゃんってば、可愛い顔して頑固なんだから! 山ほどのレシピ本を貸したオルランジェを恨むぜ!!」


 マッコンエルに迷惑をかけていることは重々承知ながらも、舌が肥えているであろうアルオニア王子を喜ばせたい一心で、マッコンエルにマフィンを食べてもらった。

 その結果、マッコンエルもわたしも、二十二番目に作ったマフィンが一番おいしいという意見でまとまった。



 

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